-酒とゲルベゾルテの香り-
私の友人知人に限ったことだが、安吾(坂口安吾)や中也(中原中也)を崇拝する男ほど女性に奥手だ。二十代の頃の雪の日、奴から電報が来た、「モウダメダ」。今年に入って何度目だろうか。薄いコートを着て雪の東京に出た。いつもと同じで万年床に座り酒を飲んでいる。また失恋したのだ。適当に付き合い奴の驕りで飲みに行く、それまで愚痴に耐えていれば一食浮く。「今度は本当に好きだったんだよ」、毎度のことだ。ところが驚きの展開となる。緑のマキシムコートに長いマフラーを巻いた黒髪の女性が現れた。手には奴の故郷・隠岐の島の酒「隠岐誉」がある。隠岐酒造は「西郷酒造組合全員(五社)が共に生き残れる道の最善の手段として、昭和四十七年十月に企業合同」(HPより)した蔵元である。そんな経緯をその時は知るはずもない。
『non-no』『an・an』のモデルに見えた。「またかね」。初めて会う奴の姉貴だった。何人分かの折詰の寿司を食べて飲んだ。食べぬ奴は酔いつぶれ寝入った。「君、彼女いるの」「いません」「どうして」「もてないから」「関係ないでしょう」。隠岐島出身の相撲取りがいる。その隠岐の海の得意技が、寄り切りか押し出しだ。「どうして、つくらん」「寂しいでしょ」。寄りに根負けし「告白する勇気がないから」と呟く。アパート中に響くほど笑われた、「出雲男の根性なし」。
新しい酒瓶の封を切る。「でもね、弟は、想像で恋愛し、振られているのよ」。高校時代の奴は割と硬派で他校生にもてる類の優男だった。姉貴は時折、物憂げにタバコを吹かす。その甘い香りに脳が痺れ、幕のかかったような瞳に吸い寄せられる。楕円形につぶれた両切りのタバコ「ゲルべゾルテ」。口にくわえるとダンヒルライターの上品な音がして火が付いた。枯草に似た煙を吸い込む、それがキレのある濃い酸味の隠岐誉にあった。分厚いハムを焼いてくれた。クジラの缶詰を開けた。隠岐誉には味の濃いものがあった。姉貴の押しも、厚情も、燃える眼差しも隠岐誉にあった。場が荒れれば荒れるほど隠岐誉を旨いと感じた。今思うに隠岐誉誕生の苦闘を凄みに熟成した酒だからかもしれない。
翌日の夕方、雪は踝(くるぶし)のうえまで積もっていた。ゲルベゾルテと姉貴の薫りを首に巻いて歩く。「姉貴に惚れました」と叫んだ勇気にもらった。本気だったが冗談に思われた。奴と同じように想像の中で恋をし、破れるしかない。空を見上げて口を開けた。山陰の雪とは違って水分を含んだ雪は酔い覚めの水でもあった。隠岐誉の酸っぱいゲップが出ても、唇にはゲルベゾルテの甘い香りが残っていた。情けないぞ、出雲男と呟いた。
島根は、出雲地区、石見地区、隠岐地区の三つの地区に歴史的に分かれ、それぞれが自己主張のある酒を造る。
隠岐誉
隠岐酒造株式会社 (隠岐の島)
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