• ~旅と日々の出会い~
SNSでシェアする

16.記紀の神話は「机上の製作」

藤岡大拙

 前回までは、平安時代の出雲に於いて、不思議な出来事がしきりに生起したことを紹介した。今回から、再び神話の世界に立ち戻って、「神話と出雲」の問題を探ってみることにしたい。

 日本の神話の多くは、古事記・日本書紀(略して「記紀」という)及び風土記に載っているのだが、そのうち、出雲を舞台にしたいわゆる出雲神話は、日本神話全体のほぼ三分の一を占めていると言われる。しかも、国引き・黄泉の国・ヤマタのオロチ・イナバの(しろ)(うさぎ)・国譲りなど、代表的な神話はいずれも出雲神話なのである。

 いっぽう、出雲国風土記によると、八世紀初頭には、出雲には三九九の神社が存在していた。この数字は、全国的に見ても三位以内に入るほどの多さである。このように多くの神々が鎮座し、多くの出雲神話が存在しているのだから、古代の出雲は、政治的にも文化的にも、大いに繁栄していたに違いないと、誰しもが思うだろう。

 ところが、津田左右吉博士(一八七三~一九六一、早稲田大学教授)は、日本神話について衝撃的な学説を発表し、記紀神話の史実性を全面的に否定したのである。彼は大正デモクラシーのリベラルな風潮のなかで、『神代史の研究』(大正二年刊)、『古事記及日本書紀の新研究』(大正八年刊)などを著わし、記紀神話は大和朝廷が自己の権力を正当化し、強化するために作成した、極めて政治性の強いフィクションであり、なんら史実を反映するものではないと主張した。津田説によれば、記紀神話なるものは、歴史研究上の資料とはなりえないものである。したがって、出雲神話がいかに存在しても、それらが古代出雲の繁栄を証明することにはならない、というのである。

 津田の鋭い筆鋒は、地方から提出されたといわれる風土記にも及び、風土記に収録された神話もまた、記紀神話と同じように作られたものと断じている。出雲国風土記の冒頭を飾る、あのダイナミックな国譲り神話も、「机上の製作」に他ならないというのである。

 このような津田説は、今までの常識を破るショッキングなものだったが、先にあげた著書などが学術書だったためか、一般の人々の話題には上らなかった。問題視されるようになるのは、出版から二十二年も経過した昭和十五年(一九四〇)のことであった。

 当時、記紀の神話体系を基軸にして組み立てた国体論を、国家統治のイデオロギーとしていた軍国主義日本に於いては、日本神話の史実性にいささかでも異論をさしはさむ者は、排除しなければならなかった。こうして、津田の著作は発売禁止の行政処分を受け、彼自身も、皇室の尊厳を冒涜(ぼうとく)する出版物を著述したかどで、有罪の判決を受けた。しかし、津田はこの弾圧に屈せず、自説を曲げることはなかったのである。

 いっぽう、戦前から細々と続けられていた考古学研究は、戦後急速な発展をみせ、次々と新しい事実が発見された。出雲でも発掘調査が進められたが、そこで分かったことは、記紀神話では華やかに登場する出雲だが、その割に考古学的成果がとぼしいということであった。古墳の大きさを取り上げてみても、出雲最大の古墳は山代二子塚古墳(松江市山代町)で、全長九四㍍の前方後方墳であるのにたいし、吉備の造山古墳(岡山市高松町)は三五〇㍍の前方後円墳で日本第四位、仁徳天皇御陵(堺市大仙町)と伝えられる前方後円墳に至っては、約五百㍍もあって、世界最大の墳墓と言われている。副葬品の鏡や玉類なども、他に比べ出雲出土のものは貧弱だと言われている。

 神話の華やかさと貧弱な考古遺跡・遺物、研究者はこのギャップの説明に苦しんできたが、津田説の出現によって、すなわち、記紀神話の虚構性が主張されることにより、ギャップはかなり埋められることになった。しかし、まだまだ問題は残る。記紀神話や風土記の神話がフィクションか、それともある程度史実を反映したものか、その議論はしばらく()いて、何故、出雲が神話の舞台になったのか、津田はその点に言及していない。

 そこで、いよいよ梅原猛に登場してもらわねばならない。

→「文芸のあやとり」に戻る

→「自然と文化」に戻る


PR

小泉八雲「生霊」
小泉八雲「雪女」
小泉八雲「雉子のはなし」

PR