• ~旅と日々の出会い~
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第四回 たたら製鉄の旅で考えた、尺度と環境

― マネージャーよりリーダーが活躍する仕事 ―

■知らないことに気づく(無知の知)

随分古い話になります。1964年の東京オリンピックを描いた市川崑監督の『東京オリンピック』(1965年公開)は、東映のチャンバラ映画や日活の青春映画にない、物の見方と考え方を教えた画期的な映画でした。同時に世界の民族の多様な感受性と人びとの様々な感性を尊重することも教えたのでした。
アメリカのテレビドラマぐらいしか見ることのない山暮らしの私は、民族の独自性と人びとの多様性を知ることもなく、また善悪の対比でしか構成しないドラマの概念で社会を見ていました。

もちろんそれまでも世界情勢を紹介したNHKの番組『特派員報告』もありましたが、政治と経済中心の対立の構成で、ひとの生き様や瞬間にみせる迷いなど描かれるはずもなかったのです。

今回の『たたら製鉄の旅』は記録することでなく、参加者の多様な見方や意見を楽しむことでした。ところが旅が動き出すと意識は楽しむこともなく、予定調和的に旅を成し遂げることへと向かったのです。多根自然博物館(百姓塾の管理元)で『東京オリンピック』(1964年)の記念品を見なければ映画を思い出すことなく焦り続けたことでしょう。そして「仕事するを哲学する」の主体について概念の規定を怠るところでした。

東京オリンピック(1964)記念コイン

■道に横たわる樹木 (山で楽しむ)

松江駅から奥出雲の櫻井家(可部屋集成館)に向かうタクシーは、JR三成駅の手前を右折し山道に入ったのです。そのまま谷間に沿って進めばよかったのですが、左折し道に迷ったのです。松江の運転手に任せたのが間違いか、運転手が地元出身の私に頼ったのか、その原因は複合としておきましょう。ただ谷間の道、タクシーのナビがまったく機能しなく、めいめいのiPhoneの位置情報が正確で、これに頼ったことはお知らせします。

迷った時、案内人の意識や性格が如実に現れます。迷走する山の中でのリスクを考えるか、希望のある展望を姿かたちで示すか、自信を持って次の展開に導くかは、案内人のリーダーシップに大きく左右されます。

こんなことを経験したことはありませんか。
都心の道に大木が倒れ歩けないとき、貴方はどうしますか。安心安全はどうなっているのだと腹を立て、役所は怠慢だと不快に思いませんか。車や人に倒れたらどうするのだと問題を深めませんか。
ところが田舎道に大木が倒れていたらどうでしょう。一概に言えないまでも、誰かの責任にすることなく木をまたいで行くとか、皆で片付けませんか。もしかすると、樹木につく昆虫を探すかもしれません。

都心と田舎の環境と現象を前に、リーダーの指示も異なります。
存在する環境や自然との関係が、人の行動や意識を変えるのです。安心安全を保障する都心と自然との共存が当たり前の田舎では、あり方や接し方が無意識のうちに変わるのです。そうです、変わるはずでした。

櫻井家での待合わせ時間に遅れたらどうするかと対策を考える私に、松江から合流した友人は「もう奥出雲よ。いつか着くからプラスに考えましょう」と迷った山道の景色を楽しむのです。東京から来た仲間は「リスクマネジメントの習慣ですね」とフォローしたのですが、環境に合わせて楽しむことができないのです。頭の中はビジネスの現場と同じでスケジュールの修正と人間関係への配慮が回るのでした。

山道

■ね、着いたでしょう(過程と結果)

「30分」遅れて着いたのに松江の友は笑みを浮かべ言ったのです、「ね、着いたでしょ」。遅れを詫びる横を「よろしくお願いします」と通り抜けるのです。その落ち着きがみんなを導きます。

携帯電話のない頃、待ち合わせの場所で一時間持つのは当たり前でした。人にもよるでしょうが、相手が遅れると待つ方が事故でもあったのかと心配しました。待たせた方も必死で走ります。
携帯電話が普及し、容易に連絡がとれ、交通情報が検索できるようになると、待つ方も待たせる方も連絡をとりリアルタイムに確認・修正します。そこには「待つ」という感覚や待つことによる思いなどありません。携帯電話の便利さは「待つ」感覚を奪ったのです。

「じゃあ、次、行きましょう」
ビデオカメラをまわしている私に、かの友は「巻いていきましょう」と遅れを取り戻そうとするのです。すこしも焦る素振りもなく。

「スケジュール」通り(時間管理)に進めることに支配され、本来の目的の「楽しむこと」「感じること」を奥出雲に来ても放棄したのです。思えば時間に縛られた人生でした。

ジェットコースター

■時間に支配され (タイムマネージメントなんか糞くらえ)

『暦』の発明が支配者を一層強くしました(法則の概念)。狩猟文明から耕作文明に移行すると季節の変動を管理することが『長』(支配者・指導者)の重要な条件となります。季節管理(一年)から暦が生まれ、時間の概念が発見されました。

「一年は365日」「一日は24時間」の概念と基準が設けられると、すべては『時間』で管理されるのです。一方、人も『時間』を軸に考えて活動する習慣を身につけ、社会の基準ともなりました。

権力者も被権力者も、経営者も労働者も、金持ちも貧乏人も、男も女も、大人も子どもも関係ありません。時間という考えで動きます。
『時間(一日24時間)』を発明し、生活に取り入れた人類は、滅びるまで時間に支配されるのです。哀れなものです、お金を発明した人類がお金に支配され、神を創った人類が神に支配され、知識を生みだした人類が知識に支配されように。

「旅は思い出創り、楽しみましょう」と、『たたら製鉄の旅』を提唱した私は、三十分刻みの予定表を作るのはよかったのですが、旅が動きだすと予定という時間を忠実に守る『時の下僕』となったのです。与えられた時間の中で楽しむどころではありません。ぐるぐる回る秒針であり長針です。

遅れはじめたスケジュール。私の頭の中はゴールであり宿泊所の『百姓塾』でのバーベキューを囲んだミーティングに向けシミュレーションが走ります。時間の対比で考えるバーベキューの設置、料理の手配、地元の仲間との合流、旅の仲間だけでなく、この旅を盛り上げてくれる地元の人たちの時間の管理。時間という化け物の下僕は、予定の見学地を飛ばします。

百姓塾でのミーティング

百姓塾に着くと、「無理せずに楽しんでください」と残し、松江の友人は帰りました。

東京に戻り事の顛末を話すと、「楽しむことよ。遅れたらそれはそれで別の何かが現れ楽しいものよ」と諭した友がいます。「迷惑がかかるだろう」と返すと、「いいのよ。地元の人も楽しんで欲しいのよ。それが旅でしょう。貴方が誠実であることよ」

奥出雲という自然を前にしても旅を楽しむのではなく、奥出雲を五感で感じることを放棄して、時間の番人のままでいたのです。倒木の出会いを楽しむのではない、都市生活者のまま倒木を見たらだれに連絡し、迂回路は何処か、リスク対処に傾注するのでした。

廃線が噂される木次線

■時間管理のマネージメントより・・・

旅の計画と運営も、計画の主体者によって変わるものです。

  1. 旅を時間で管理するのは、旅行代理店の旅ツアーです。事前にスケジュールを提示して時間を管理し、多くの場所に無事に案内することで旅行者に満足を提供します(時間と場所)。
  2. 一方、旅先の地元の人が用意する計画は、体験型の旅です。こちらは目的を明確にすると、大まかな時間と場所を伝え、体験の深みやイベント内容で旅行者に満足と充実を提供します(成果と満足)。
  3. 個人計画の旅は、その人の性格が現れます。計画的に沢山回るか、出たとこ勝負のぶらぶら旅。これは当事者が納得すればいいですが、前提の確認を怠るとトラブルの原因となります。

仕事にも似たような面があります。

  1. 雇用されている人は、一日8時間労働の契約で働き、時間が来れば基本、退社します。一日の成果物数が決まった工場でも終業時間があり、対策として残業か交代制が導入されます。今回、たたら製鉄の旅に参加した多くが、時間に管理された勤め人です。
  2. ところが自営業とか農業・漁業・林業など第三次産業は、計画する量やプロセス、自然環境で判断します。ここまで耕したら終わり、ラーメンの汁がなくなれば店は閉店、天候が荒れたら終了。農業を営む藤原功氏が、いつもより早く草刈りをはじめ、予定分を済ませて参加した考え方です。
  3. 工芸品の匠や芸術家は時間や量ではありません。作業の満足度とか納得度。己の感性とのすり合わせです。

生活は時間の概念(一日24時間)に規制されても、仕事の空間では、時間や、計画の区切り、満足・納得度といろいろな物差しがあります。これが経済関係のない仕事、たとえば趣味やボランティアの仕事となるともっと多くの軸が現れます。他人に迷惑をかけない状態、引き継ぐ人がやりやすい区切り、体調や近所との関係に、社会状況など多岐にわたります。

時間であれ、量であれ、満足感であれ、一日の仕事を、仕事ということをどのように見ればいいのでしょう。仕事を終えるとき、仕事を引き渡すときの境界線は何なのでしょうか。

また古い映画ですが、実際にあった宇宙船の事故をベースとした『アポロ13号』(1995年)。月までもう少しのところで機体のトラブルが発覚、計画を中止して困難な地球帰還の間のNASAと機内のやり取りと対策を描いています。
驚いたのは、こんな異常で特殊な事故対策にあっても、NASAのスタッフは指示書とマニュアルひとつで入れ替わるシーンでした。これが情報の共有と基準化をするアメリカの組織構造と習慣だと感動しました。
日本なら何日も同じ人が徹夜を繰返し、根性と献身をとおしてヒーロに祀り上げられることでしょう(特に石原プロの映画)。もちろんNASAにも寝ずに任務にあたったメンバーはいます。この映画では、組織にとっての仕事のあり方(任務のあり方)と、そんな文化の有り様を描いています。(ほかの映画を見るといろいろあるようですが)

古代、日本に漕ぎつけた丸太舟

映画でのマニュアル化を組織作りに活用しました。上手くいくこともあれば失敗もしました。気づいたのがマネージメントとリーダーシップの機能的違いではなく、人間性としての違いでした。詳細の比較はあらため紹介するとして根本的な違いは次の通りです。

【マネージャー】は、組織が任命し、複雑な状態に対して組織の安定性と持続性を維持するために機能する。また、見える物を分析し、斬新的に解決していく。複雑性(必然と偶然のトラブルと業務)への対処。優れたマネージャーは、いなくても業務が回る。

【リーダー】は、組織が任命するのではなく、主体が、あるいは部下や仲間が創り出し、創造と変革に邁進する。まだ見えぬ目的を見据え、実現に向けて人々の価値観や感情に訴え、共感を得て、自発的な協業を起こす。常に先頭を走り、失敗すれば敗北者となる。

リーダーはマネージャーと異なり職制ではなく、社長以下全員に求められる資質です。会社が厳しくなり、社会環境が低迷すると、マネージャーよりリーダーが求められる理由がここにあります。

映画『アポロ13号』のなかでは、科学性を強調するがゆえに『マニュアル』をクローズアップしたのですが、人間性としての『リーダーシップ』も極めて重要な要素として描かれ、宇宙開発に臨む人々のプライド(ミッション)と目的・夢(ビジョン)が重ねられます。むしろ、ここに重大な意味がありましたが、ハリウッド映画の限界で「アメリカの建国の精神」と「フロンティアスピリット」にぼかされてしまいます。
リーダーシップこそが、マニュアルを、情報共有を、そして理念やミッションを具体的な意味あるものに仕上げるのです。

地域や自然との関係で新規事業を創出する視点で「仕事」を考えると、時間の概念にとらわれないリーダーシップの資質で哲学することが大切なようです。かつて哲学が机上での学問か、生活する現場での試行錯誤であるかと議論されたように。(実存主義も構造主義も、文化人類学も社会学も・・・)

竹林

時間を創造するリーダーの資質

コロナ禍を受けて仕事の仕方も変わろうとしています(働き方改革という手段ではなく)。
コロナウイルス蔓延を受け、会社は在宅勤務によるネットワーク業務を推奨し、また通勤に便利な都心から郊外へと住居や事務所を移す個人や会社も現れました。

完全に移住するのではなく、都市部での勤務と自然の中での二重生活の事例も多々拝見します。自治体も完全な移住生活でない期限付きの移住に対しての便宜も提案しだしました。また、民間ベースでも廃屋を活用したレンタルオフィスやシェアオフィスなど増えてきました。奥出雲の山の中でもレンタルオフィスやシェアオフィスを斡旋しています。

都市部のような地域と隔絶した存在ではなく、地域や人びと、自然と密接な関係をもったビジネスや会社のあり方が検討されます。

田舎で仕事をするとは、地域自然との共存を「理念」とし、「ミッション」とした会社のあり方が求められます。そのためには情報公開が原則であり、マネージメントの質よりリーダーシップのある人材が必要です。

これからの仕事とは、リーダーシップの資質のもとで検討すべきです。管理ではなく創造的実践、ヒエラルキーではなくフラットな思考。

■おわり

さて、「仕事するを哲学する」の基本の提言です。

まず哲学する者の視点が、①「リーダーシップ」の質と行動を有すること。その意味では、過去の、そして現在の自分の仕事を振り返り、「リーダーシップ」を徹底的に総括することからはじまります。マネージメントの発想から「哲学」することは、極言すれば意味がない。どんなに理論建てしようとも「魂」はない。

仕事を考える時、②地域や自然との共存のベクトルで考えること。これから仕事を行う場合、地域や自然とともにどのように共存し、還元するかを通して事業や利益を考える。そこには社会・地球との関係でとらえた理念とミッションを明確にすること。
会社という孤立した考えではなく、③仲間との情報共有を図りマニュアル化までは無理として「文書」にのこす文化。

この視点で「仕事するを哲学する」の『仕事』とこうあるべきだという考えが生まれるのでしょう。

夜空

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