• ~旅と日々の出会い~
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静寂に秘められし情念の町、津和野(二話) 自然 町と歴史を眺める山並み(出会いは突然)

― remember青春、revolver創造 ―

二話 文化 町と歴史を眺める山並み(出会いは突然)

― ディスカバージャパンに舞ったアンノン族 ―

【主な紹介場所】津和野城跡出丸、津和野城跡本丸、鷲原八幡宮、太鼓谷稲荷神社

remember青春、revolver創造

駅前の美術館と写真ギャラリーは、アンノン族の思い出を追い求めようとした古都子の考え方に強い刺激を与えました。思い出も大切、過去も大切、でもこれからどう生きていくのか、何を成すべきか、なによりも「なぜ、ここにきたの」と問いかけるきっかけになりました。これほどの作品がなぜ、津和野に展示してあるのか。これから訪ねる史跡や展示の考え方にも現れているでしょう。

古都子だけの世界ではなく、これから出会う津和野の人たちや、出来事や自然も含めた「事(こと)」との関りが大切だと。新たな出会いに感動や共感があるのだと。津和野の町に根付く創り出す魂と風土に触れた喜びを確かめるようにペダルを踏みます。

津和野の町並みは歩いても楽しめます。でも、森鴎外や西周の旧居や津和野城まで行くとなると、車のない方はレンタル自転車がお薦めです。あの眩しかった青春の日のように、自転車を借りました。アドバイスに従って電動自転車を。

最初に、津和野の城下町を一望できる山城の津和野城跡に向かいます。
本町通りから殿町通り、藩校養老館を過ぎて橋の手前の信号を右折します。JRの線路をくぐり道なりに左折、川沿いに走ると太鼓谷稲荷神社の鳥居が右手に見えてきます。県立津和野高校を過ぎると津和野城に向かう坂道に一瞬躊躇、踏むペダルにも力がはいるのです。

あの時もこの坂道は辛かった。でもみんなで自転車を漕いで途中まで登りました。今日の電動自転車は重いので、上り坂の空き地に止めることにした。

津和野の通り
霊亀山にある津和野城

津和野城は標高362mの霊亀山にあります。電動自転車を置いたあたりからの比高差は約200m。典型的な山城。トレッキングを兼ねた方なら歩いて登ることをお薦めします。古都子は、あの日と同じで城山跡までの往復はリフトを使いました。学生時代、学校前の「女坂」でさえ歩くのが嫌だった。

築城は永仁3年(1295)、吉見頼行と頼直からと伝えられています。関ヶ原の戦いで徳川家康側が勝利すると、慶長6年(1601)に坂崎直盛が3万石の大名として入城、高石垣のある近世城郭へ改修しました。元和3年(1617)、亀井政矩が4万石の大名として入城、南北約2kmにわたる山城は明治維新まで続きす。明治初期、ほかの城同様に解体され高石垣だけが残りました。
なぜ、関ヶ原の恩賞できた坂崎直盛は短命だったのか、若い方はご存知ではないと思いますが、『千姫事件』です。

・千姫事件

織田信長と徳川家康の孫になる千姫。数奇な人生に、純子は怒り、美保は涙していました(ウソ泣き)。
1603年に豊臣秀頼と結婚した七歳の千姫。1615年、大坂夏の陣のおり、徳川家康からの陥落する大阪城より救出したものには姫を与えるとの命に、直盛は戦火の中から助け出し家康の元に届けました。この戦功に一万石加増されましたが、千姫を与える約束は反故にされ、千姫は桑名城址本多忠刻に嫁入りさせられました。怒った直盛は自害したとも、千姫を奪いに出向き殺害されたとも伝えられています。16年の短命の藩主でした。

・長州藩と浜田藩の間で

その後、明治維新まで亀井家が治めることとなります。
隣りの藩は豊臣側に付いた長州藩と徳川側の浜田藩。緊張が集積した城と城壁。緊張感と危機感が、人材の育成としての藩教育と、国全体の動向を把握する遊学の仕組みを作ったのです。津和野藩独自の思想も、こんな風土と政治バランスから創造されたのでしょう。

津和野城に上る前に、案内ブックかパンフレットで幕末の歴史を一読することをお薦めします。津和野城下を眺める貴方の見方や考え方が、観光という物見から津和野の風土に触れる視点へと変化するでしょう。

リフトの待合室は冷房で冷えていました。暫し、坂道で流した汗がおさまるまでここで待ちます。
あの頃は、リフトの前には長い列ができていました。そんな靴で登れるのといった高靴、底高のサンダル。真っ白なパンタロンに太腿も露なミニスカート。懐かしいホットパンツ。『non-no』『anan』から飛び出したファッションショーでした。もちろん、私たちも同じです。

津和野城から
自転車では登れない城山

「無理~、もう無理~よ」と最初に弱音をはいたのは美保と智子の二人乗りの自転車でした。
「絶対無理よ。城山で行くなんて無理。記事なんか、嘘」
古都子も同意見。こんな坂道、自転車では登れません。それでも、ひと踏みした時です、ガチャンと音がしてペダルがからからと空転し、止まったのです。
チェーンの外れた古都子の自転車を見て、「ハイ終わり」と美保がしゃがみ込み、智子が自転車を路肩に倒しました。「だれか直せる」と聞くことさえ無駄です。イライラ顔の純子が下って来ます。
誰も直せない。したことがない。油で黒く汚れたチェーンなど触りたくない。怪我でもしたら大変。
「もう帰ろうよ。下りは楽よ」
チェーンが不気味に車輪の軸に絡みつき、押すこともできなくなった。古都子だって嫌だ。さっきまで二人乗りの自転車に乗っていた。責任はこれに乗っていた美保にある。

「自転車屋さん、呼ぶ」。歩いている人や自転車を押す人が、車と一緒に追い抜いていく。ころんで怪我でもしたなら声をかけてくれたでしょう。はずれたチェーンを見ると声をかけることなく過ぎ去ります。誰も直せないのでしょう。油で手を汚したくないのです。そして暑い。

「チェーン、外れたのか、きみ達」
長髪の額にブルーのバンダナをまいた青年が近づき、リュックを下しました。
「伸びきっていたんだろうな」
手際よく自転車を上下逆にひっくり返すと、油に汚れたチェーンをペダルの歯車に掛け、逆の方にペダルをゆっくり回し「これで大丈夫だ」と微笑んだのです。五分もかかっていません。神業。自転車屋さんかしら。

「本当?ありがとう。あ、おおきに。京都から来た純子どすえ」目ざとくちり紙を差し出す。白いちり紙が白旗の印でもあるかように京女の契りは綻びます。
「私のもどうぞ。汚れちゃったわね。ごめんなさいね」美保までが裏切った。婚約した男が京都で待っているでしょう。

青年は「大丈夫」と笑み、路肩の脇を流れる小川で小石を掴んで洗っています。それでも油は落ちそうもありません。「まあ、いいか」とバンダナをとり拭くのです。ペイズリーの柄が黒ずんでいく。黒ずんでいくのに手の汚れは落ちません。無頓着なのだろうか、無神経な人なのだろうか、ジーパンで拭いている。そのジーパンさえ汚れていた。

「まあいいか。君たちも、いくのだろう」と坂道の上を指さすと、二人乗りの自転車のハンドルに手をかけ、「僕のは、お二人さんで押してくれるか」と微笑むのです。

リフトから眺める津和野
山城の小道と軍手

1971年完成した山頂へと向かう観光リフトのチケット売り場の前で、青年は東京から来た「田吾作」と自己紹介し、「じゃあここで」と山道に向かって歩き始めました。

あの日のことを思い出すと今でもドキドキします。「バンダナ、汚れたでしょ。使って」と田吾作君に古都子のバンダナを渡しました。ここで、こんなかたちで別れたくなかった。もうすこしお話ししたかった。

「リフトのチケット、お礼に買いますから私たちと一緒に行きましょう」思いがけない美保のアタックです。
清水寺の二年坂や産寧坂を行く旅人より、時折学校前の女坂に現れるナンパ男より、優れているわけでもないのですが、お返しを求めない優しさにみんなメロメロでした。それとも旅の非日常性でしょうか。
夜行列車の寝不足も、旅の解放感もあったのかもしれません。もしかするとチェリッシュのデビュー曲『なのにあなたは京都に行くの』を京都に暮らすがゆえに屈折した感情で聞きすぎたのかもしれません。

リフトを降りると渡された軍手。「これから山道だ。転ぶと危ないからな」
すこし汚れた軍手一組、まっさらな軍手一組。真っ先に純子が汚れた軍手を一つ、古都子が一方をとりました。
「なかなかいい感触ね」学生運動にシンパシーをもっていた純子の一言。田吾作君が笑った、前歯に虫歯が出来ている。

津和野城への山道
山城の山道

軍手が重宝しました。お洒落なファッションよりも、すこし油臭くて、ゴワゴワする軍手が山歩きを快適にしました。草や小枝を掴むのも、石垣に手をかけるのも、坂道を滑るのも守ってくれたのです。すこしミニスカートの智子に「汚れているけど」と今でいうジョガーパンツを差し出したのです。これが東京の大学生かしら。

津和野城は「日本百名城」に認定され、2024年は築城700年です。
ひとり、お城を目指して山道を進みます。前を行く人も、ついてくる人もいない、足音とセミの鳴き声だけの山道。あのころと違い、山道にも段差や窪みもなく歩きやすく、小枝も伐採されて景色を見る余裕もうまれます。

津和野城史跡案内

あの頃は町なかほど観光客はいませんが、時折立ち止まることがありました。そんな時は質問攻めです。大学は、専攻は、何歳、将来の夢は、そして智子がたずねたのです、「彼女はいるの」。
暑いのに耳が凍り付くほど冷め切りました。息さえ我慢して待ちました。「いないな。ダサいからな」
「ダサい」。初めて聞く言葉、なんて心地よい響きでしょうか。

どういう意味ですかと智子が無粋にもお聞きした。田吾作君は考えて「関西で言うと、どんくさくて、かっこう悪い男かな」。
この山道がそのまま東京の銀座や新宿へと繋がっているように思えてきました。
「好きな歌はなあーに」。「人生劇場に、惜別の歌かな」。なに、それって。純子は知っていた。口ずさんでみせる。「木綿のハンカチーフ」や「なごり雪」だけでない。

津和野城

津和野城は、本城のほかに出丸もある一城別郭の城です。その間には大手道があり、戦国時代の実戦的な山城。本丸と二ノ丸に三重天守と櫓があります。南北約2kmにわたる長大な高石垣のある津和野城は、日本有数の山城で「名城百選」のひとつです。

本丸に続く山道は、工事現場にある単管で組まれた階段や足場のお陰で一人でも安全に、そしてスムーズに進むことが出来ました。こんなところにも元々ある姿を維持し、見学者の安全に考慮する津和野の町の思いやりを感じます。田吾作君が今いたら、やはり軍手越しに彼の手を借るでしょう。もちろん、甘えです。

津和野城跡からの景色

・三十間台(本丸)

三十間台からは、青野山の裾野に広がる石州瓦で造られた城下町の家並みと、ゆるやかに流れる津和野川を一望できます。
教育の核なった養老館、幕末から明治にかけ日本の国の礎を築いた森鴎外・西周の旧居とともに二人が歩いた川辺、さらには島原から送られてきたキリシタンの歩んだことを思い浮かべるのです。

田吾作君と純子は、津和野の城下町を眺めながら島崎藤村作詞『惜別の歌』を朗々と歌いました。誰に恥じることなく、何に照れることなく、音痴なのに、メロディーさえ合わないのに。あの時は、この山城のための詩だと思いました。山があり、川があり、そしていつかおとずれる別れがある。『惜別の歌』。思うに、あの頃は恥じることより表現が大切だった。

田吾作君に会いたくなった。あの日、歩いた小道を辿れば辿るにつれて、アンノン族の田吾作君が現れます。津和野藩に絡めて長州・萩の話をしてくれた。松下村塾に、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄随、長州征伐、幕末から明治維新。高校の日本史の先生のようによどみなく。

暫し山の天気を気にしながら眺めました。
訪ねてよかった。ディスカバージャパンのときから大きく変わった津和野があります。古都子の心も少しは変わったでしょう。
駅前にあった津和野が生んだ二人の美術館が教えてくれたように、津和野には、古の文化を大切にしつつ新しい文化をしっかり生みだし育てる風土があります。

津和野城跡からの景色

・人質櫓跡

積み上げられた石垣は圧巻です。山の上にどうやって岩を運んだのでしょう。その苦役は誰によってなされたのでしょう。

「撮ってあげるよ」と田吾作君が純子のカメラを受け取ると、石垣の前に並ぶ四人に、「ブイサイン」と呟いた。ピースサインでなく、ブイサイン。
ファッション雑誌のモデルさんを真似、カメラ目線でなく、石垣に足をかけ、あるいはちょっと空を見上げ、また腰に手を当て、純子なんか石垣に両手を広げて抱きついていた。私たちだけでなく、みんな聖地巡礼のようにここでポーズを作って記念撮影。

石垣

・三段櫓跡

本丸の玄関口である東門の正面に見えるが三段櫓跡です。それぞれの石垣に二階櫓が建っていましたが、横から見ると三重櫓のように見えたと伝えられています。

幕末の長州・薩摩軍。京から江戸へと攻めあがるルートは山陽道から東海道。このルートには譜代大名の城が構え、軍事的に容易ではありません。第二次長州征伐の折、大村益次郎が石州口方面の指揮を取り、津和野藩を通り抜け浜田藩を滅ぼし石見銀山へと進みました。

徳川三百年、大きな戦いもない安泰の時代と評価されていますが、薩摩、長州への警戒を怠ることはありません。その具体的事例が、山の上に築城を続ける津和野藩の姿勢でしょう。徳川への服従の意思、長州には軍事戦略的には意味のない築城。

徳川体制を支えた「朱子学」から離れていく津和野藩の姿が、この城に現れています。

馬立跡

・出丸(織部丸)

坂崎直盛時代、指揮をした家老・浮田織部(うきた おりべ)の名にちなんで、織部丸とも呼ばれています。本丸の北側の防護を固める役割で高石垣や二重櫓の跡が残っています。

幕末の歴史好きの方にはお薦めの城です。ここに立って津和野の城下を眺めながら、徳川と長州に翻弄されながらも、生き抜こうとした「知恵」というか「策略」は、この盆地の中だけで創意されたのではなく、広い見聞(派遣)と万人に開かれた教育(藩)制度があってこそ、構築されたのでしょう。

これは明治初期の「乙女坂マリア聖堂」事件にも引き継がれています。このあたりは別途「西周と津和野」について取材しました山岡浩二氏の話をお待ちください。

ライトアップと百景図

実際の登った津和野城とは別の津和野所も体験してください。

・百景図の津和野城

『津和野百景図』(詳細は三話で紹介)には、本丸と出丸が描かれています。

・ライトアップされる津和野城

現在、夜になると津和野城はライトアップされます。

ライトアップ

このあとどこに向かうか、太鼓谷稲成神社か、鷲原八幡宮か。城跡から鷲原八幡宮への道はトレッキング(全長約3km)コースになっています。リフトで降り太鼓谷稲成神社に向かうコースもあります。車なら太鼓谷稲成神社の横にある駐車場までわずかです。自転車で来た古都子は、太鼓谷稲成神社の下まで降りて朱色の鳥居の参道を歩いてのぼりました。

太鼓谷稲成神社

・朱色の鳥居

津和野の町からも眺めることのできる、山の斜面に鮮やかに浮かび上がる朱色の鳥居の列が太皷谷稲成神社です。

登り口の大鳥居の前で考えました、石段は何段あるのでしょうか、鳥居は何基でしょうか。実際歩くとそんな余裕はありません。つづら折りの折り返し点で、登ってきた鳥居の列を見つめ、これから昇る石段をガン見し、ちょっと休憩と町並みや山並みを眺めます。石段は263段、鳥居は約千基といわれています。

この石段を、毎朝、散歩のコースとしている老人にお会いしました。森鴎外も、西周も上ったのでしょうか。

鳥居

・「稲荷」でなく「稲成」

太鼓谷稲成神社、普通なら「稲荷」と表記しますが、願望成就の「成」をとって「稲成」としました。願望成就、商売繁盛、開運厄除の神として信仰を集めています。

太皷谷稲成神社は安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)が、京都の伏見稲荷大社から。津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願し、津和野城の鬼門にあたる東北の太皷谷の峰に建立しました。亀井家の祈願所で藩主以外の参拝は禁止されていましたが、明治になって人びとにも開放されました。今では日本五大稲荷のひとつとして、多くの方がお参りしています。

鳥居の間から垣間見る城下町、石段を登りきったところで眺める田園風景。城山とは違った感慨を持つのは古都子だけではないと思います

太鼓谷稲成神社
景色
鷲原八幡宮

城跡から鷲原八幡宮への道はトレッキング(全長約3km)コースにもなっています。

鷲原八幡宮には、鎌倉の鶴岡八幡宮を模した流鏑馬(やぶさめ)馬場があります。室町時代の原形を留める馬場で、春には的を射抜く流鏑馬神事が行われます。

平安時代の天暦年間(947年-956年)に、郷士が勧請したがはじまりだと伝えられています。弘安5年(1282年)吉見氏が入国に際し、鎌倉鶴岡八幡宮から勧請したとのことです。
天文23年(1554年)に陶晴賢の津和野城攻め(三本松城の戦い)で鷲原八幡宮は焼失、永禄11年(1568年)に社殿を再建、吉見氏、坂崎氏、亀井氏からも崇敬されました。

川辺で源氏巻を食べる

今回も前回も養老館の横の津和野川の川辺で源氏巻を食べました。『男はつらいよ・寅次郎恋やつれ』で、寅さんが歌子さん(吉永小百合)から近況を聞くシーンがこのあたりです。

田吾作君に何処で泊まるのと聞くと、津和野駅で寝袋(シラフ)で寝、深夜にホームの洗面所やトイレで身体を拭くと真面目に話してくれました。
ご飯はと尋ねると駅前の食堂か、今日はもらったパンの耳。
女の子はいないでしょう言うと、ひとりの旅人は少ないがグループだとたまにいるらしい。

「借りたバンダナ、今夜、駅の洗面所で洗って返すけど、いいかな」とロングピースを咥えた。純子がセブンスターに付けた火を彼の煙草に付ける。

まるで恋人気取り。

「いいです。差し上げます」「それはまずいよ」「いいです」
田吾作君は頑なに断る古都子の気持を誤解したようだ。新しく購入して郵送するから住所を教えてくれとノートを差し出した。

「こと(古都子)、ことは自宅暮らしで、おかあさまも躾に厳しい方でいらっしゃるでしょう。とりあえず下宿生活の私のところに送って頂いて、私から貴女に渡すは」

反論できないのが悔しかった。私のバンダナよ。

翌朝早く民宿のお母さんにおにぎりを作ってもらい、津和野駅に向かった。若者が五、六人、構内や駅頭を掃き掃除している。トイレの方から声がする、「ありがたい。女の子がいないから、君が女子便所、掃除してくれないか」。どうして私が。嫌よ。結局見張り役は承諾した古都子でした。

どうして掃除するのと問うと、ひとこと「お世話になったから」。どこでもと聞くと「当たり前だろう。一泊一飯の恩義だよ」。まるで花田秀次郎さんみたい。渡したおにぎりも、皆で分け合い一口だけの朝ごはん。
ラジオ体操の歌と一緒に純子が現れた。怖い目。

彼とはそれで終わった。純子が両親と兄によって強引に田舎に連れ戻された。家庭の都合で結婚することになった。私たちの卒業式の日、赤ん坊を抱いた純子から、田吾作君からの封筒を渡された。封は乱暴にちぎられ、中にはバンダナと封の破られた封筒があった。「ごめんね、父が勘違いして・・」と言われた時、涙があふれた。再会の喜びか、卒業の歓喜か、それとも後悔なのか、分からない。

後日、田吾作君の手紙に記載されたアルバイト先の喫茶店に電話をかけ、住所のアパートを訪ねました。田吾作君には会えなかった。行方不明だという。古都子の青春は終わり、アンノン族の「津和野」も閉じられました。それがあの頃の旅の一つかもしれなません。

古都子は再び訪ねてよかったとしみじみ思うのでした。津和野にはまぎれもない青春の一ページがあり、振り返る大切さを感じる風が吹いているのです。

川辺の鷺舞
津和野町マップ
■ 津和野観光協会
TEL 0856-72-1771  受付時間 9:00~17:00(年中無休)

■ 津和野日本遺産センター
島根県鹿足郡津和野町後田ロ 253

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