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20.中世杵築大社の霊威

藤岡大拙   

 長らく失礼いたしました。平にお許しください。言い訳になるかもしれませんが、執筆が遅れた一つの理由は、三月が私にとって大きな転機になったからです。

 実は昭和四十四年から始めた県立図書館の「古文書を読む会」が五十五年を終え、昭和五十四年から始めた「出雲国風土記を読む会」が四十五年を終え、この機会に三月を以て講座を修了することになりました。そのため、図書館は県民会館の大会議室を借り、二つの講座を併せて九十分の時間を用意してくれました。自分としては、かなり事前勉強をいたしました。

 翌日は、松江歴史館において、松江の生んだ国史学の泰斗、京都帝国大学教授三浦(ひろ)(ゆき)博士の人物論をお話ししました。続いて三月十六日には、風土記の丘講座六百回記念として、平安時代の出雲における不思議な出来事と題して、しゃべりました。というわけで、事前勉強に追われて、執筆ができませんでした。

 今は身が軽くなりましたから、つれづれ草を続けさせていただきます。

 さて、平安時代から140年ばかり経った元弘三年(1333)閏二月二十四日のこと、後醍醐天皇(実はこのころの後醍醐は、皇位を剥奪されているから、天皇と呼ぶべきではない。太平記でも、先帝と記している。だが、間もなく再度天皇になるので、便宜上、後醍醐天皇としておく)は、隠岐の(あん)在所(ざいしょ)を脱出して、出雲の海岸を目指したが、悉く上陸を拒否されたといわれる。隠岐の行在所については、以前にのべたことがある。天皇一行はやむなく伯耆に向かい、名和の港(鳥取県大山町御来屋(みくりや)といわれる)に上陸、土地の豪族名和長年に援助を求めた。長年は天皇を背負って、東南二十五キロばかりにそびえる船上山(せんじょうざん)(鳥取県琴浦町)にお連れした。船上山は大山連峰の支脈で七百㍍弱の山。山上には大山寺の支院智積寺(ちしゃくじ)があり、そこを行在所にしたのである。長年はゲリラ戦法を交え、果敢に戦ったので、戦局は有利に展開した。

 天皇は情勢をみて京都に還幸し、北朝の光厳天皇を追っ払って、再び即位したいという強い願望があった。だが、三種の神器(じんぎ)を持たない天皇は、皇位にはつけない。「神器が欲しい」これが天皇の切実な願いであった。

 ところで、三種の神器とは剱と鏡と玉であるが、天皇が都を脱出するときは、剱のみを携行したようだ。安徳天皇が壇ノ浦で、二位の尼(清盛の妻)に抱かれて入水したときも、剱のみを持って沈んだといわれる。以後は伊勢神宮の神庫にあった宝剣が補充されたとのことである。

 出雲大社には二通の後醍醐天皇の綸旨(りんじ)が蔵されているが、二通とも国の重要文化財に指定されている。いずれも船上山の行在所から出されたものである。一通は元弘三年三月十四日の日付をもち、「王道再興綸旨」と名づけられている。綸旨とは、戦乱など異常事態で、天皇が都に居ないようなときに、簡略なかたちで出される詔勅のことである。王道すなわち天皇の親政体制を再興するためには、なによりも、杵築(きづきの)大社(おおやしろ)の加護が必要だと説き、この勅願が叶ったならば、(かん)(じょう)(ご褒美)は望みのままに取らすであろう、と申し入れた。その三日後、三月十七日、「寳剱代(ほうけんだい)綸旨」を杵築大社に与え、三種の神器の剱の代替に使いたいので、杵築大社に宝剣があるなら、献上されたいと申し入れている。杵築大社では、早速宝剣を献上した。この宝剣代綸旨は、後醍醐天皇自らが筆を執って書いたもので、きわめて貴重な宸翰(しんかん)である。

 天皇はこの宝剣を携行して、名和長年や塩冶高貞の先導で京都に還幸し、皇位に返り咲き、建武の中興をなしとげたのである。三種の神器の剱について、誰一人文句を言うものはいなかった。先に壇ノ浦で海底に沈んだ剱に代わって、伊勢神宮の宝剣をもって代替とした。この度は杵築大社の宝剣を以って代替とした。とすれば、伊勢神宮と杵築大社は、その霊威性において、なんらかわるものではなかった。古代を経て中世に入っても、なお杵築大社の神威はゆるぎないものであった。

退治した八岐大蛇の尾より素戔嗚尊がとりだした草薙の剣(妻となると助けた稲田姫・出雲横田駅)

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