• ~旅と日々の出会い~
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二十四回 佇みし祠の前でしばし古の草を摘む 氷川神社・門客人神社

『古事記』『日本書紀の神 vs アラハバキの神

はじめに 寄り道

若い頃はせっかちな性格だったのでしょう、美術館でも、名所旧跡でも、作品や対象物を鑑賞することさえ雑で、周辺の雰囲気を観察することはなかったのでした。この頃、体力が落ちたのでしょうか、それともせっかちな性格に気づいたのでしょうか、時間にすこし余裕が生まれたのかもしれません。しばし佇み眺めることが出来るようになりました。

するとなんですね、好奇心というか、想像力が舞い降りてきます。まるでこれまでのことを後悔するように。美術館なら、作家は何故この絵を描いただろうかとか、あの鑑賞者は何を感じたのだろうか、さらに周囲の環境などにも。これが遺跡や神社仏閣となると、想像が時空を超越して私自身が作家となって物語を創造するのです。

今日も神社仏閣の近くの石に腰を下ろして想像します。燎原の野火と申しますか、やがて野火は広野へと広がり収拾がつかなくなります。
次に想像と創造のために関係資料を図書館で調べます。想像のためですから、学術的というよりも物語として参考になるフィクションに近い資料です。近在に生活資料館などあればワクワクします。

さて今回は、そんな夢想をともなう話です。場所は、さいたま市大宮の武蔵一の宮氷川神社本殿に向かって右側、東門を出たところにある神社です。門客人神社(もんきゃく)。

門客人神社
氷川神社境内の神社と神様

門客人神社からの想像をお話しする前に、氷川神社境内の神社と神様を紹介します。

神社には、本社とは別に摂社や末社と呼ばれる神社があります。摂社とは、本社との由来が深い神社や元々の神様を祀った地主神社などで、この基準に当てはまらず、また主神に従属する小祠末社と呼びます(ということは無関係?)。

大宮氷川神社拝殿と本殿

氷川神社境内の神社と神様

氷川神社のサイトより転記。

・氷川神社本殿 
 須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)

・門客人神社(摂社)(もんきゃくじんじんじゃ)
 足摩乳命(あしなづちのみこと)、手摩乳命(てなづちのみこと)。稲田姫命の御親神。

・天津神社(摂社)(あまつじんじゃ)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)。大己貴命と共に国土経営に携わった神。医学薬学の神。恵比須様

・宗像神社(摂社)(むなかたじんじゃ)
 多起理比売命(たぎりひめのみこと)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比売命(たぎつひめのみこと)。須佐之男命の御子神。多起理比売命は大己貴命と夫婦神。弁天様

・住吉神社(六社内)(すみよしじんじゃ)
 底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、上筒男命(うわつつのおのみこと)。伊弉諾命が身を清めた時に生まれた神々。航海の神。

・神明神社(六社内)(しんめいじんじゃ)
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)。伊勢の神宮に祀られている皇室の祖先神。須佐之男命の御姉神。太陽神。

・山祇神社(六社内)(やまつみじんじゃ)
 大山祇命(おおやまづみのみこと)。足摩乳命の御親神。山の神。諸産業の神。

・愛宕神社(六社内)(あたごじんじゃ)
 迦具土命(かぐつちのみこと)。火を司る神。

・雷神社(六社内)(いかづちじんじゃ)
 御祭神大雷命(おおいかづちのみこと)。農林業の神。

・石上神社(六社内)(いそのかみじんじゃ)
 布都御魂命(ふつのみたまのみこと)。神武東征軍を救った刀の神。戦の神。健康の神。

・松尾神社(まつおじんじゃ)
 大山咋命(おおやまくいのみこと)。酒造、水の神。

・御嶽神社(みたけじんじゃ)
 大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。国土経営の神々。

・稲荷神社(いなりじんじゃ)
 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。須佐之男命の御子神。食物の神。

・天満神社(てんまんじんじゃ)
 菅原道真公(すがわらみちざねこう)。全国に一万社以上ある学問の神

氷川神社境内の看板より

・広大な大地

神社以外にもいろいろなところがあります。
蛇の池、戦艦武蔵の碑、さざれ石、そしてなんといっても驚きは日本一長い南北に続く参道です。約二キロの参道には、ケヤキ、シイ、スギなど二十余種類の樹木が六百本植えられています。

隣接して桜花で有名な広大な大宮公園、野球場にサッカー場、さらには競輪場に遊園地、そして博物館があります。この広大な大地が、かつては氷川神社の敷地だったのです。
そして見沼と呼ばれる広大な沼。ここに第二の謎めいた話があるのです。それこそが自然と農作に関わる天文学へと続くのですが、これは次回にて紹介します。

参道と鳥居
門客人神社にまつわる神々

・門客人とは?

氷川神社の門下客神社は摂社で、祀られている神様は、本殿に祀られている須佐之男命の妻神・稲田姫命の親神にあたる足摩乳命と手摩乳命です。この関係を頭に置いてください。

さて、「門客人」とはどういう意味でしょうか。

客人(客人神ともいう)とは、主祭神に対する客分にあたる神様です。完全に従属していない不確実な関係の神格で、この土地に来て日が浅いとされています。そのため摂社や末社ではなく「門(かど)客神」として門に祀りました。

え、質問と不審の声が上がりますね。

足摩乳命と手摩乳命は須佐之男命の義理の父神で、主神と縁故関係が深い神です。摂社として祀るのは理解できますが、本来の意味で考えると門客人神社に祀るべき夫婦神ではありません。それなのになぜ祀ったのか。その解は、『新編武蔵国風土記』のなかにありました。

・『新編武蔵国風土記』

氷川神社の門客人神社が、記録として現れるのが『新編武蔵国風土記』です。『風土記』は713年に編纂命令が下されたのですが、『新編武蔵国風土記』は江戸時代、昌平坂学問所(※)が1810年に起稿し1830年に完成した全265巻に及ぶ近世の記録です。
 ※ 昌平坂学問所は鵜戸幕府直轄の教学機関

氷川神社が建立されたのがいつかといえば、氷川神社の社記によると「今から凡そ二千有余年第五代孝昭天皇の御代3年4月末の日」のとことです。ということは建立後二千年、人々に語り継がれ、多くの人々の編纂と編集がくわえられた記録を編纂したものとして、『新編武蔵国風土記』があると受け止めておくべきでしょう。

『新編武蔵国風土記』のなかに門客人神社について記したところがあります。谷川健一が『白鳥伝説』(1985年、集英社)のなかで 『新編武蔵国風土記』を引用して解説していますので紹介します。

・荒脛巾(あらはばき)神社から門客人神社へ

「祭神は豊石窓、櫛石窓の二神であるが、古くは荒脛巾神社と呼ばれていたことを述べている(新編武蔵国風土記のなかで)。氷川内記が神職であったときに、神祇伯吉田家へとどけ出て、門客人社と改号し、テナヅチ、アシナヅチの二座を配社した。出雲国杵築の摂社に門客人社というものがあって豊石窓、櫛石窓の二神をまつっている」(ページ340)

なぜ門客人神社に名前を変えたのか。谷川健一も同様に考えます。「それはとりもなおさずアラハバキの神に客人神の性格があるからで・・・つまりアラハバキが地主神であったところへ外来の神がやってきてその座をうばったということがそこにはほのめかされている」

「孝昭帝のとき、出雲の氷(簸)の川上に鎮座していた杵築大社をうつし祀った」(同文)と社記に書いてあると谷川健一は述べ、「氷川神社の神職が出雲の杵築大社にある門客人社の名をつけたことはたしかであろう」と推理します。

この地(現大宮)に来た出雲族は、自分たちの神・須佐之男命を祀る氷川神社を建立しました。もともとあった先住の民が祀るアラハバキ神・荒脛巾神社を、はじめは破壊しようとはしなかった。祟りを恐れたのでしょうか(大国主の祟りを恐れたヤマトと同様に)、それとも原住の民の合理的な懐柔支配を思案したのでしょう。一時はそのまま一緒に祀りました。しかし結局、門客人神社と名前を変え、祀る神もアラハバキの神から須佐之男命の義両親神に変えたのでます。

アラハバキの神、荒脛巾神社とは何でしょうか。なによりも、なぜ変えたのか、なぜ変えなくてはならなかったか、その目的こそが、その後の一の宮氷川神社の存在理由と目的に繋がります。

この問いは、神社を使った大和から日本へと続く為政者の国造りに大きく関わる理由だと考えています。

現代語訳『新編武蔵國風土記』(雄山堂)
アラハバキの神

アラハバキの神は、『古事記』『日本書紀』や『風土記』にも登場しない謎の神様です。「荒覇吐」「荒吐」「荒脛巾」「阿良波々岐」などと表示しますが各地の神社でひっそり祀られています。いずれの神社でも客人神(門客神)となっているようです。

・アラハバキの神

アラハバキの神を谷川健一は前書で次のように整理しています。

一 もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人神扱いをうけたものである。
二 もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
三 客人神としての性格と門神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を退治する役目をもつ神である。

谷川健一が指摘するように、元々はその土地の主神だったのですが、客人の神に主客転倒されたと考えられます。
なお「サエの神」(塞の神)とは、悪霊の侵入を防ぐ神、道路の安全や旅人を守る神、道祖神(ドウソジン)ともいいます。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国から逃げ帰ったとき、追いかけてきた黄泉醜女(よもつしこめ)をさえぎり止めるために投げた杖できた神との説もあります。

・諸説

アラハバキの神は、ところによって脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」「足の神」として祀られています。これ以外にも物語的な諸説があり、大和王朝(神武天皇)に敗れた側の「長脛彦」、また女陰説、蛇神説などなどあります。

青森県五所川原市の和田家で発見され、のちに偽書とされた古史古伝『東日流(つがる)外三郡誌』の影響も残っていて、アラハバキを「縄文の神」とする説、「蝦夷の神」とする説、さらには遮光器土偶と重ね合わせした説もあります。物語としては非常に楽しいのですが、『東日流外三郡誌』自体は昭和の戦後に書かれたようです。私見ですが、小説として書けば、なかなかの作品になったと思います。
ちなみに『東日流外三郡誌』を、それとなく認めるのが小説家の高橋克彦で、否定するのが民俗学者の谷川健一です。

佐々木孝二『東日流外三郡誌と語部』 藤原明『東日流外三郡誌の亡霊』
存在し続ける荒脛巾神社

武蔵一の宮である氷川神社に祀られる門客人神社は、かつては「荒脛巾神社」と呼ばれ、アラハバキの神を祀っていました。その荒脛巾神社も隠れるようにわずかに存続し、アラハバキの神の名も残っています。
そのひとつが氷川神社と深い関係にあるさいたま市の中山神社です。ここには末社として荒脛神社か祀られています。(この神社につきましても、氷川女體神社とともに次回紹介します)

宮城県の多賀城について少しふれておきます。
高橋克彦著『炎立つ』で取り上げられた阿弖流為(アテルイ)と坂上田村麻呂と戦い(789年)の要として、また大和朝廷の蝦夷攻略の前線の砦として存在した多賀城の近くに荒脛巾神社があります。

誰が何の目的で建立し、なぜ荒脛巾神社・アラハバキの神を祀ったのか。物語創作の興味と好奇心をくすぐる歴史です。また、神話と歴史という大きな隔たりがありますが、国譲りの出雲に対し、阿弖流為に代表された徹底抗戦の蝦夷という対比が、関東地方の神社に投影されたからでしょうか。

揖屋神社
おしまい 崇められし神の流れゆく見沼の淵

何処かの地を経由して出雲族の「とある」集団が、この地に来たのです。とある集団とは出雲から追放された集団なのか、よりよい地を求めて移動した集団なのか、分りようがありません。ただ氷川神社から推理するに、「とある」出雲族が来たのです。

自然の恵みを授かる湿田に立ち、この地を新たな居住の地と決めたのです。もとよりこの地には先住民が暮らし、自然と日々の暮らしに感謝し、自然の驚異に安寧を祈願してきたことでしょう。先住民と出雲族がどのように折り合いをつけたか、それは人類の歴史に照らし合わせるしかありません。話し合いなのか、武力衝突なのか。ただ確実に言えることは、出雲族の神様を祀る氷川神社ができたということです。

住み着いた「とある」出雲族は、元々いた地主神を尊厳したのでしょうか、それとも地主神の呪いに畏怖したのでしょうか、アラハバキの神を祀る荒脛巾神社を残したのです。

やがて荒脛巾神社は名前を変え摂社の門客人神社となり、祀る神様もアラハバキの神から稲田姫命の御親神である足摩乳命と手摩乳命と替わり、出雲族の神々に統合されたのです。出雲族の完全統合の証しでしょう。しかし、今でも関東周辺にはアラハバキの神は細々と存続しています。

・ひるま酒

大宮駅東口前の庶民酒場で、煮込みを相手に昼間のビールをチビチビ飲んでいました。芭蕉ではありませんが、「夏草や兵共が夢の跡」。こんな詩が過ったのです、「崇められし神の流れゆく見沼の淵」

博物館で見た古代の見沼の広大な沼と果てしなく続く葦の群生が、幾重にも幾重にも重なり、やがて青天の空と黒々とした大地に分離したのです。

先住の民と出雲族だけだっただろうか?

・出雲族間の階層差

幽体離脱でもしていたのでしょうか、隣で飲む酔客の声に顔をあげました。
赤ら顔の爺さんはホッピーを見たまま繰り返したのです、「どこから来たかね。儂はここの生まれだが」。

ここの生まれが、アラハバキの神の子孫なのか、それともここに来た出雲族の子孫なのか、あるいは混じりあった民なのか、と漠として夢想する私に、閃光が走りました。

見沼の淵で交わされる妙なイントネーションの言葉が深い霧を払いのけるのでした。

まどろむ脳裏と網膜に映るのは、関東平原の地で、つぎはぎだらけの獣服で土を耕し、ときによれよれの戦闘服の恰好をした民は、この地の先住民だけではなく、出雲の地を追い出されるようにしてこの地に流れ着いた出雲族でもあるのです。彼らは新たな大地で、新たな結束の証として、新たな神・アラハバキの神を祀っているのです。

かつて出雲の地で鉄を掘るだけでわずかな穀物しか与えられなかった民は、豊富な木の実と開墾した大地から得る豊富な恵みで家族を、そして集落を形成したのです。

豊かな生活は長くは続きません。豊かな国造りを聞きつけた欲張りな出雲族が、それも知恵を持つ貴族層が出雲の神々を担いで来たのです。理屈をこね、神からの権限を盾に、開拓した出雲族の住居地を奪い、新たな屋敷と神社を造りはじめたのです。それこそが氷川神社ではなかったのか。

先住民と出雲族の対立ではなく、下層階級の出雲族と上層階級の出雲族の戦いだったのです。搾取と非搾取はあくまでも相対的なことです。その時の力と智が関係を形作るのです。

出雲族同士の覇権抗争かもしないと目を開けました。そこにはあの赤ら顔の爺さんはいなかった。初めから誰もいなかったかのように年季物のテーブルにはコップの輪の跡もなく、関心を寄せる客さえいなかったのです。

アラハバキの神を誰が祀ったのか、氷川神社とは、しばらく続きそうなテーマです。

出雲大社

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