村田 英治
私にとっての木次線の思い出は、ほとんどが小中学校に通っていた10年足らずの間に集約される。昭和40年代から50年代、西暦で言うと1970年代から80年代の初め頃である。木次線には既に蒸気機関車の姿はなく、ディーゼル車が走っていた。
実家から徒歩1分ほどのところに八川駅がある。子どもの頃、駅は遊び場の一つだった。改札には木製の柵があり、ドアのように開け閉めできる造りになっていたが、よくこの動く柵に乗って遊んだ。一緒に遊んでいた同級生の一人は、駅に近い線路沿いの場所にあった国鉄の官舎に住んでいた。この子の家にもしょっちゅう出入りし、官舎の脇の敷地でキャッチボールをしたものだ。
夏休みには毎朝、駅の正面の広場のような場所に、近所の小学生が集まってラジオ体操をした。体操が終わると木造駅舎にしつらえられた荷物用の台を机代わりにして、リーダー役の上級生がカードに出席のハンコを押してくれた。
駅はふだんは無人だが、汽車の時間が近づくと駅前の酒屋のおじいさんがやって来て、窓口で切符を売る。小さくて厚みのある硬券だった。おじいさんがいない時は、とりあえず乗車し、巡回の車掌から切符を買った。こちらは薄いオレンジ色の柔らかい紙片で、乗降駅の欄に鋏で穴をあけて手渡された。
汽車で出かける先で一番多かったのは、隣の駅、出雲横田である。ずっと小さい時分、母に連れられて横田へ行き、初めて汽車で帰った時のこと。出雲横田駅のホームで八川方面へ向かう下りの車両に乗り込み、4人掛けのボックス席に腰を下ろした。発車のベルが鳴ると、汽車は私が思っていたのと逆の方向へ動きだした。私は慌てたが、母は落ち着いたもので「ほんに逆へ行くみたいだけん、誰ンもがおべえ(驚く)わね」と笑っている。
地元の人間でないとわかりづらいと思うが、駅のある横田の街中から車やバスで八川へ向かう場合、普通はまず西へ向かって国道314号線に出る。ところが木次線の下り列車は出雲横田駅からいったん東へ進むため、最初は惑わされるのである。
三井野原へも何度も行った。当時はスキー場が大人気で、冬場は多くのスキー客で賑わっていた。私が通った八川小学校でも毎年クラスごとに三井野原でスキー教室を開いていた。当日は担任に引率され、みんなで木次線を使って三井野原へ向かう。出雲坂根駅のスイッチバックで列車が逆方向に進むと、それとわかっていても「おー」と歓声が上がった。
私の学年は全部で22人。その中に1人、三井野原から汽車通学をしている男子がいた。その子、A君の家はキャベツ農家だったと思うが、冬の間は貸スキーや食堂も兼ねた民宿を営んでいた。私は運動神経が悪くスキーも下手だったが、それでも何度か友だちとA君を頼って木次線で出かけたものである。
これはスキーシーズンではなかったと思うが、ある時一人でA君の家に遊びに行った。夢中になって遊んでいるうちに夜7時近くなり、気がつけば最終の汽車の時間が迫っていた。もう間に合わない。泣きそうになった私を、A君のお父さんが咄嗟におんぶし、三井野原駅へ猛ダッシュで走ってくれた。駅までは数百メートルあったと思うが、間一髪で汽車に乗れた。がっしりした大きな背中にしがみつき、上下に激しく揺られていた感覚が今もどこかに残っている気がする。
小学校の高学年になると、仲の良い友だちと子どもだけで松江などに汽車で遠出するようになった。山に囲まれて育った少年にとって、線路の先には全く違う世界があった。
当時は八川駅からも直通で松江へ行ける上りの普通列車が1日3本運行していた。片道約2時間半。じっと座っているのに飽きると車両の連結部に移動し、ガタンゴトンというリズムに身を委ねつつ、蛇腹になった幌の不思議な動きを見ていた。宍道駅から山陰線に入ると、突然左側の視界が開ける。目の前には青空を映した宍道湖が大きく広がっていた。その眩しさは、えも言われぬものだった。
その頃、ラジオで海外の短波放送を聴くBCLというものが流行した。横田でもショッピングセンターの催事場で「BCL教室」が開かれ、私も参加した。実のところ、短波ラジオの販促イベントだったのだろう。講師は松江にある大手家電メーカーのショールームから来たBさんというきれいな女性だった。「教室」の後、私はBさんに話しかけた。彼女は小学生の質問に気さくに答え、笑顔で「松江に遊びに来てね」と言ってくれた。
その言葉を真に受けた私は、何週間か後の日曜日、同級生と2人で木次線に乗り、いそいそと松江へ出かけた。ショールームは駅の近く、朝日町にあったように思う。Bさんは店内にいて、山奥の小学生の突然の来訪を喜んで出迎えてくれた。だが、内心はさぞ当惑したことだろう。ラジオを買う気もなく、ほんとうにただ遊びに来たのだから。
私たちは最新のテレビやオーディオ製品が並ぶショールームの中をうろつくばかりだったが、はっきり憶えているのは、この時ステレオから新人のアイドル歌手、ピンク・レディーの新曲「S・О・S」とB面の「ピンクの林檎」という曲が繰り返し流れていたことだ。「S・О・S」は1976(昭和51)年11月発売なので、これは小学校5年の初冬のことだったと推定される。この頃からピンク・レディーの人気は急上昇し、翌年にはご存知の通り、子どもを中心に日本中に大ブームが巻き起こった。
横田中学校に進むと、1学年が3クラス約130人となり、新しい友人が増えた。部活動はブラスバンド部に入った。授業が昼で終わる土曜日の午後は、夕方までたっぷり練習し、帰りは何人かの部員と連れ立って横田の街中にあったヤマザキパンの店に立ち寄った。カレーパンとテトラパックの牛乳を買い、店内の丸椅子に腰かけて食べるのが楽しみだった。それから出雲横田駅に向かい、午後5時半頃の下り列車に乗って帰宅した。ちなみに平日は自転車かスクールバスで通学していた。
同級生たちと松江へ遊びに行く機会も多くなった。「やよいデパート」の中にあった「ドムドムバーガー」でハンバーガーを食べるのが、仲間内では定番だった。自分が松江へ行けない時は、友だちに頼んで買ってきてもらい、汽車で帰って来るのを出雲横田か八川の駅で出迎えて一緒に食べたこともある。まだ松江にマクドナルドがなかった頃の話だが、田舎の中学生にとってハンバーガーは滅多に食べられない憧れの食べ物だったのである。
出雲市(当時・大社町)の浜山公園野球場にプロ野球の試合が来た時も、野球好きの友だちと木次線で出かけて行った。宍道駅で山陰線の下り列車に乗り換え、出雲市駅からは大社線(1990年に廃止)に乗り継いで終点の大社駅で降りた。駅から球場までは20分以上歩いた。カードはパ・リーグの阪急対南海。1日2試合行うダブルヘッダーだった。改めて記録を調べると、1978(昭和53)年5月28日の日曜日とわかった。中学生になってまだ2か月にならない時だ。
ライト側の芝生が敷かれた外野席で観戦したが、残念ながら帰りの汽車の時間があり、第1試合の途中で球場を後にしなければならなかった。帰りの大社線の車内で、阪急の帽子を被っていた阪急ファンの友だちが、背広を着たおじさんたちに声をかけられ、同じボックス席に座ることになった。おじさんの一人は阪急のオーナーだか球団社長だかを名乗っていた。子ども心に、嘘に違いないと思った。
もう一つ、強烈に憶えているのは、中学から知り合った友人Cと松江へ行った時のことだ。当時賑やかだった天神町あたりを2人で歩いていたのだが、ある映画館の前を通りかかった時、洋画ファンだったCが「ちょっと中を覗いてくるからここで待っていてくれ」と言う。映画館は2階にあり、Cは入り口から階段を上がっていった。下で私がぼんやり待っていると、突然上から「逃げろ!」と叫びながら、Cが飛び出してきた。なんと階段の壁に貼られていた「スター・ウォーズ」のポスターをはがして、盗んできたのである。中から「こら!」と大人の怒鳴り声が聞こえた気がした。私は半ばパニックになりながら、逃げていくCの後を追い、よく知らない松江の街の中を無我夢中で走った。どれくらい走ったかわからないが、結局のところ、私たちを捕まえるために誰かが追いかけてくることはなかった。
お目当てのポスターを手に入れてご満悦のCに、私は腹が立った。なんでこんなことをするのか。友だちまで巻き込むとはひどいじゃないか。せめて前もって言っておいてくれれば心の準備もできたのに…。しかし帰りの汽車に乗る頃には、けろっと仲直りしていたように思う。
Cの「犯行」は計画されたものだったのか、それともポスターを見て突発的に盗ってしまったのか。もちろん決して褒められたことではないが、この歳になってみれば、青春映画のワンシーンのように懐かしく思い出される。三流映画ではあるが…。
中学3年の夏休みには、鉄道を使い、奈良県の天理市まで遠征した。ブラスバンドの友だちが、天理高校に進学したブラバンの先輩から吹奏楽の大きな大会があると誘われ、私も一緒に行くことになった。記憶が曖昧だが、行きは伯備線の生山(鳥取県日南町)まで家族に車で送ってもらい、岡山へ出て京都まで新幹線を使ったかもしれない。天理までの乗車券を買ったはずなので、京都からは近鉄ではなく国鉄を使ったのだろう。
天理では天理教の信者さん用の施設で1泊し、翌日、吹奏楽大会が開催される市内のホールへ向かった。会場の前で見知らぬ人に「チケットはいらないか」と声をかけられた。ダフ屋かと警戒したが、単純に券が余っていたらしく、安く売ってもらった。
帰りには京都の駅前で生まれて初めて屋台のラーメンを食べ、夜10時頃に出る「京都夜行」に乗ったことを憶えている。終点の出雲市まで約12時間、山陰線の全ての駅に停車する名物列車だった。背もたれが直角の座席に一晩中座っているのは、さすがにしんどかった。翌朝、宍道で下車し、木次線に乗り換えて昼頃に出雲横田に着いたはずだ。
思いつくままにあれこれと「小ネタ」ばかりを書き連ねてしまったが、なにぶん古いことゆえ、記憶違いがあればお許しいただきたい。10代の前半はそれなりに独立心が芽生え、知らない場所へ行きたい、冒険したいという欲求が高まる年頃と言える。さりとてバイクやマイカーに乗るにはまだ早い。大人の手から少し離れ、自分たちだけで未知の世界へ踏み出す乗り物として、木次線はなくてはならないものだったのである。
編集部より
村田 英治さんの著書に「『砂の器』と木次線」(ハーベスト出版、四六判 並製本 322P 定価1,980円(本体1,800円+税)があります。ご一読をおすすめします。