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『精選 出雲弁辞典』編著藤岡大拙

出雲路の旅を出雲弁で語ってみましょう

書籍紹介

『精選 出雲弁辞典』。編著・藤岡大拙。発行・NPO法人出雲学研究所。発行日・2025年11月10日、定価・1,600円(税別)、B6。(文中・一部敬称略) 

表紙

■はじめに

2025年11月現在、出雲弁といえば松本清張や映画・野村芳太郎の『砂の器』ではなく、NHKの朝ドラ『ばけばけ』だろう。ただ出雲弁も随分誤解された形で伝わっている。朝ドラを見た複数の知人から聞く、「初めは、語尾でなにを言っているのか分からなかった。今は、ほのぼのしていて可愛くて、可笑しい方言だと思う」
「どこが!」と問いたい。しかし、大阪NHKが制作する朝ドラは大阪のノリで、あの山陰の冬の低く垂れた重くて暗い空と雲のような出雲弁ではない。吉本新喜劇のドタバタ劇の明るく丁々発止の掛け合いだ。これが演出された方言だろう。

そんななかで出雲弁の異彩を放つのが、高校まで松江に暮らした知事役の佐野史郎だ。「三つ子の魂百までも」。独特の微笑ましいキャラのなかに、出雲弁の微妙なあやや襞まで表現している。それとて芝居の出雲弁だ。「マーブルテレビの藤岡大拙の出雲弁講座(出雲弁よもやま話)でも学べよ」と、そんなことを思っている矢先に届いたのが、藤岡大拙先生(一部、先生と敬意を表する箇所があります)からの本だった。藤岡大拙先生には、当webサイト『島根国』にも原稿をお願いしている。

  「島根つれづれ草」

藤岡大拙先生

■出雲弁指導の著者・藤岡大拙先生

お礼の電話をすると、「『ばけばけ』の方言指導をチョンボシやましたが」。iPhoneの向こうで、90歳を越えても元気な藤岡大拙先生の張りのある声がする。「それは、それは、大役でしたね」

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(朝ドラではレフカダ・ヘブン)が教鞭をとったのが松江中学(1876年・明治9年創設)。その松江中学が、戦後、松江高等学校(1949年)となり、1961年に松江北高等学校と松江南高等学校に分離した。大橋川を挟んで北と南。『ばけばけ』の小泉セツをモデルにしたトキ(髙石あかり)が渡る橋が、この大橋川に架かる「大橋」(現在は松江大橋)である。

小泉八雲が教鞭をとった松江中学の系譜と伝統を継ぐ松江北高は、来年、150周年を迎える。

紹介書籍の編著である藤岡大拙は、1960年代、松江南高で教鞭取った。私は松江北高に学び、南校の廊下で数回すれ違ったことがある。佐野史郎は松江南高だ。その佐野史郎が入り浸った喫茶店が、川を挟んで北側の西茶町にある創業1969年の「MG」。北高に近いのだが、なぜか南高の生徒が多かった。といってもみんな学生服を脱いでいたが、なんとなく雰囲気が異なった。
相手に何かとライバル心をいだき、スポーツ以外にも討論会や演劇・研究発表等、文芸部間でも競いあった。しかし、伊勢宮(繁華街で不良のたまり場)あたりで暴力沙汰を起こすことはなかった。

小泉八雲旧居

■「だんだん(ありがとう)」は京都の遊郭の挨拶

頂いた書籍にはご丁寧な挨拶文も添えられていた。達筆な署名と『大拙』の篆刻。その一節に目が留まった。

「出雲弁の代表的な単語『だんだん』は、日本国語大辞典によりますと、近世京都の遊里の挨拶言葉から使われ始め、四国・九州・中国の一部という広範囲で使われていたようです」(この文の流れが藤岡大拙節である)

心のなかで「だんだん」が、やがてイントネーションを変え打ち寄せる波となり、波間に『五番町夕霧楼』の片桐夕子役の佐久間良子や松坂慶子が浮遊した。赤布団に絡み合う白き肉体の妖艶と、背後に激しく燃え上がる金閣寺。純も愛も性欲と化した遊郭が戦慄くように呟く、「だんだん」「だんだんね」「またきてね」。そして「おおきに」と。

京都祇園の花街ではなく、堀川通を越した西の外れ。一夜の夢幻に目覚めし商い人が、五条通りから山陰道(国道九号線)を渡り、未練たっぷりに運んだのだろうか、「だんだん」を。

出雲路の道端に花の種の如く撒かれ、やがてあだ花と咲きて、あらたな実を結んで下々の土間や寝屋へと飛んで行った。「だんだん」と。

「だんだん」を笑う自分はいない。「だんだん」に秘められた悦楽か、地獄か、涅槃か、いやいや、貧しさゆえに売られていく悲しき女子の挽歌か。

思えば、「だんだん」は出雲弁には不釣り合いな響きだ。老婆が皺くちゃな手で受け取った品に、ひび割れ乾ききった唇で呟く感謝の「だんだん」ではない。艶めかし白き首筋をあらわにし、濡れそめし瞳と赤々と熟れた唇で、またきてねと恋い慕う遊女の「だんだん」だ。

挨拶文に添えられた「京都の遊里」は、今までとは違う出雲弁の世界の扉を開いたのだ。挨拶文からの曼荼羅の世界を描きつつ書籍の扉を開く。あのズーズー弁と嘲笑された方言ではなく、誇り高き出雲言葉を求めて。

京都の風景

■収録語数約三千字

「叱られるかもしれませんが、仁多弁は入れておりせんが・・・」
iPhoneの向こうで、戦うことを好まない藤岡大拙先生の声がする。たしかに「せつい(苦しい)」がない。
出雲弁といえども山を越えると違う出雲弁になる。仁多弁と平田弁は似て非なる出雲弁だ。『ばけばけ』の舞台である松江の出雲弁と出雲の出雲弁は近いが、生活領域でのニュアンスは異なる。松江は曖昧で気長で、出雲は風のように流れる。武士の城下町と商いと神社の町の違いか。

そんな「里」別の出雲弁を網羅するとなると大変だ。それでも「だんだん」と「ばんじまして(こんばんは)・ばんずィますィて」は多少のイントネーションの違いはあっても共通する。

本書は、四種類の出雲弁の辞書を軸に「各地の市町村誌(史)並びに各地で出版されている多数の出雲弁語彙冊子を参考にして作成した」(凡例)。これだけでも大変な作業である。画像からデータ化し、Excelにコピーし、ソートをかれられたのだろうか。藤岡大拙先生のことだ、もしかするとひとつひとつ永い年月の中で書き綴られたかもしれない。

しかし、何を出雲弁とするか困難をきわめ「編者の個人的な見解がかなり入っており」と、出雲弁の地域性だけでなく、生活歴史の変遷に苦慮された。この作業は長年の業績とテレビでの実戦があったからできたとはいえ、選択と捨象には随分悩まれたことだろう。

さらには「読み仮名の標記」である。音を文字化するのだ。そこは「五十音」の世界ではない。争いごとを好まない、穏やかで、曖昧な出雲人の口調は、口を動かすことなくモソモソ話す。芝居役者の発声練習のように、口を大きく開けて、メリハリをつけることはない。しばれる出雲の冬空のもと、ぼそぼそ話すのである。ドジョウすくいの踊り手のように、腰を落して、田んぼの畔を壊さぬようにと歩く様にも似ている。

「本書は他の辞典と違う点が二つあります。一つは、できるだけ例文を付したことです。もう一つは、その礼文の中へ、できるだけ地域史をいれ、出雲地域史の学習にも資するように工夫した点です」(はじめに)

標記や事例をみるだけで面白い。読むというより、見る方言本である。

冊子を見れば見るほどに、話は戻るが「だんだん」の発音やイントネーションは出雲弁にそぐわない。そこには明確な意思表示があり、感謝が前面に出ている。

廓通り

■古代史としての出雲弁

藤岡大拙は、出雲弁の特徴を五つにまとめる。その二つを紹介す。「語彙が豊富」、「語り口が柔らかく、穏やかである」。この特徴の背景を次のように説明する。長くなるが転用する。
「遠く、古代において、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡か物語るような、素晴らしい繁栄の時代があったのですが、やがて吉備や大和の勢力によって、一転して敗者となるという悲運の中で、出雲は固く門戸を閉ざし、宗教性の強い鎖国政策をとり続けます。そのことか出雲弁の形成に大きく影響しているように思われます。その意味で、各地域語(方言)の中で、出雲地域語(出雲弁)は特別な存在意義を有していると思われます」(はじめに)

このあたりが藤岡大拙のもうひとつの顔だ。古代史研究(中世史も含む)の顔である洞察力である。

言語を地域の文化や歴史から切り離すことはできない。言語の中にこそ、そこに生きた人々の営為と風土と深層がある。藤岡大拙が指摘する「閉ざされた出雲」ならば、より一層純粋な言語が伝わっている。

あえて藤岡大拙にお願いするならば、外部との交流が極端に少なかった山間地域(ここでは奥出雲)の農村・森林部での方言収集にメスを入れていただきたいところである。

かつて仁多弁(横田弁)と中国山地を越えた広島県の備後落合の方言が非常に似ているとの話を聞いた事がある。この二つの地域は、つい最近までテニスや野球、そして文化や商業での交流があり、廃線の噂が立つ木次線の終点駅でもある。

木次線

■装丁 日常使用向け

著者の希望か、編集者のコンセプトか、あるいは両者の意思か。紙質、製本がアットランダムに引く辞典の特徴と機能に十分こたえている。
コンパクトなサイズは携帯向きである。旅行鞄ではなく、手元のショルダーバッグにいれて常時活用ができる。全体はビニールに包まれて、水がかかっても大丈夫で、汚れた手で触れる(程度問題)。

なんといっても開いた具合である。一般書籍のように不具合を感じない。高校時代の旺文社のエッセンシャル和英辞典の感覚で、指に伝わる触感もまた心地好い。

地元の方は、お茶の時間や集落の会合の折に、ちょっこし出雲弁で語り、出雲弁で考えてみましょう。
出雲地方を旅する方は、思い出を綴るとき、地元の方と話すとき、辞典を開いて真似てみませんか。きっと地元の人も分からないでしょう。そんな時は、松江市で話しましょう。『ばけばけ」ブームの今です、あなたの出雲弁のユーモアも理解するでしょう。

■最後と言わずに・・・

さて最後に、挨拶状に「私の恐らく最後の出版物になるだろうと思います」
まだまだ頑張ってください、と思った矢先に目が留まった。「八、将来的には、出雲弁で例文を話す音声プログラムを付加する予定である」(凡例)

そうですね。まだまだ夢が広がっていくようです。

藤岡大拙先生、出雲弁で『出雲神話』を語り、『出雲風土記』をお話し願えませんか。もちろん文字にもして。そこには先生がお書きになった『出雲人―出雲学へのいざない―』(当コーナーでも紹介した書籍)ではない、別な出雲人が生まれるような気がします。そうです積極的で、ユーモアのある、プロモーション上手な民です。

出雲大社

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