-捨てられない日記と思い出-
松江太郎
■消えた思い出
木次線の思い出を書いてくれと、酒の席で頼まれたのが随分前のことだ。松江生まれの松江育ち、高校卒業とともに都内の大学に進み、定年退職まで首都圏で暮らした私は木次線に乗ったことがない、と申し訳ないが辞退した。酒がすすむうちに、学生時代に帰郷した折、吾妻山にキャンプに行ったことを話したときだ・・・。
「吾妻山に行くには出雲横田駅(木次線)で降りただろう」と問い詰められた。確かにそうだ。車で入っていない。ところが、吾妻山の丘陵や牛もキャンプ場も、そして誰と行って、酒を飲んだことは憶えている。恋話に盛り上がり、今後の進路を語った。バスに揺られた記憶もあるが、松江からどうやって行ったのか、どこで降りたのか、そして何に乗って帰ったか、まったく記憶に残っていない。
喜寿に近づきつつある歳で忘れたというより、あの青春のひと時から「木次線」は記憶に残らなかったのだろう。と、一緒にキャンプをした友人に話したところ、「俺は行ってない」と笑われた。「大山に行っただろう」と逆に問われたが、その記憶が私にはない。皆の笑いに幾分引きつつ「俺たち同窓生か」と妙なオチで分かれた。

■家仕舞い
今年の夏のことだ、亡くなった父の従兄の子供から、墓締め家締めを兼ねた父と母の法事をするから出席してくれとの手紙が実家に来た。会ったのも一度か二度、それも子どもの頃のこと。電話で話すと、兄弟も子どももいなく、パートナーとは熟年離婚、ある意味で天涯孤独。未練もないので故郷も捨て、思い出も捨てて、人生という旅に路に着くという。格好つけるなと言いたいところだが、親しくもないので黙ってしまった。かくゆう私も友達も少なく、似たような境遇だ。寂しいだろうなと同情した次第だ。
松江にはたまに帰り、気ままな一人暮らしだと伝えた。すると、当日は暫し盃を交わしたいので、木次線で来てくれという。できたら泊ってくれないかという。半世紀以上も前の子どもの頃の思い出さえほとんどない。何を話すかと思いつつも寂しさに同情した。
「家の整理をしていたら父の大量の日記がでてきた」という。そこに彼の父親と私の父の交友が綴られていた。私も知らなかったが、彼も知らなった。戦前・戦後のことだ。二人でお金を工面して本を買い交換し合ったくだりや、会って語りあいたい一心で宍道駅まで互いに歩いて出掛けた話を聞くと、語り継がれなかった父の青春が浮かび上がった。
「捨てられないんだよ。だから君にも読んでもらいたくて」
捨てられないのは家や墓や日記だけではないだろう。引継がれた家代々の思い出や匂いや感覚もあるだろう。ちょっとやそっとの勇気と決断では断ち切ることも、破棄もできないだろう。もしかして、彼は次の人生のはじまりに躊躇しているかもしれない。
私は、意思を持って木次線の亀嵩驛迄の切符を買うことにした。(電子決済は出来ない)

■涙は流すまい
囲炉裏を囲んで飲んだ。奥出雲の酒、奥出雲酒造の「奥出雲」、簸上酒造の「玉鋼」。囲炉裏では竹串に刺されたヤマメと鮎が遠火で焼かれ、でかい笊には山菜や野菜が盛られている。皿には仁多牛が盛られていた。
日記に書き記されていた彼と私の父が好きだった仁多米の赤飯は、色も朱色で美味かった。私たちは父を語り、母を語った。哲学を専攻したかった彼だが、経済的な理由で農林に進みそのまま農業関係の会社に入った。亡くなる前に彼の父は、こんなことなら普通高校に進学させて大学にやればよかったと後悔していたそうだ。
話は尽きることなく、そのほとんどが切なかった。美味い酒はどうして涙を誘うのだと二人して泣き笑いした。
亀嵩の駅前は映画『砂の器』と同じで寂しかった。そして、人影はもっとなかった。今年、旧仁多町も旧横田町もそれぞれ小学校を一つに統合した。木次線の一部廃線の噂もきな臭くなってきた。横田高校も大東高校も定員割れした。その反面、道路は舗装され、雪が積もっても直ぐに除雪される。
見送りに来た亀嵩駅のホームで、持って行けよと渡された、彼の父と私の父が共同で購入した書籍を開いた。泣けてきた、そして泣けた。父が彼の父に送った葉書が挟んであった。師範学校で学業を諦めた父の愚痴が綴られている。
家族が多い長男故の定めであり、その定めを諦めとして「是」とする締めの後に、吉田松陰の言葉が文面の倍の大きさの文字で綴られていた。
古い葉書だ、戦前のことだ(戦時中かな)。粗雑な茶色の葉書に万年筆のインクも滲み、カスレ滲んでいる。私は何度も読み返した。何度も読んでは目を閉じた。
■もう一度乗りたい木次線
宍道駅を告げる車内放送に目を開けた。明け方まで飲み続けた酔いと疲れかもしれない。もしかすると若かりし頃の父と話していたのかもれない。
またもや木次線の景色や雰囲気の記憶をつくることを失念した。でも、この歳に相応しい思い出を作ることが出来た。
寒い奥出雲の冬があけたらもう一度、木次線に乗って奥出雲を訪ねよう。山に登るのも、そばを食べるのも、温泉に入るのもいいだろう。そのときは、誰か一緒に連れてこよう。ひとりでは、抱えきれない感情の高鳴りがあるかもしれない。


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