• ~旅と日々の出会い~
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3 出雲王朝の翳「西谷墳墓群」と「上塩冶築山古墳」

四隅突出型古墳で風を見、石棺で時に触れる

全国から参集した八百万の神も去ろうとする神在月最終日間近、出雲平野の風は予想以上に冷たかった。西谷墳墓群へと続く竹藪は不審な男を威嚇し、周囲に警告でもするかのように騒めき波打つ。足元の土と枯草は朝からの小雨で滑りやすく、帰れとでも命令しているのだろうか。

山陰の独特の重厚な冬空を一瞬、光が差す。と、ともに草木が音もなく揺れ、心の深いところにまとわりつく。光は会合に集まり家路を急ぐ神の空路だろうか、ざわめきは神になりそこねた古代人の挽歌だろうか、まとわりつくのは古の民たちの鎮魂歌の行進か。大きく背伸びする。

西谷墳墓群につづく小径

出雲王朝、八百万の神々、そして多様性

出雲王朝といえば、梅原猛の『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮社)を思い出す古代史ファンも多かろう。自著書『神々の流竄』にて、出雲神話はフィクションで出雲に強力な古代王朝は存在しなかった説を展開してきた。しかし、1985年の荒神谷遺跡、さらには加茂岩倉遺跡の発見・発掘の過程で自説を否定し、出雲王朝の存在を認めた。さらに出雲大社に謝罪の参拝をおこなったのである。そのパフォーマンスもあってか、書籍は出雲古代ブームとともに注目を浴びることとなった。

これまで学校の日本史で学ぶ王朝は、大和と北九州の二大説で、世界史での四大文明地と同様に固定することである種のヒエラルキーを形成してきた。出雲での発見は複数王朝説を立証するだけでなく、見つかってはいないがいろいろな王朝や文明がある、あるいはあってもよいという考え方へと変化(変革に近い)した。世界史でも同様である。この考え方の変化こそが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の発見の偉大な業績である。

出雲王朝があったではなく、日本列島には沢山の王朝があり、独自の文化を築いてきた。その思考方法・視点が大切である。

多様性。奇しくも近年、話題にされだした「多様性」。ひとにはいろんな属性(性別・年齢・国籍・人種・考え・価値観・性認識・夢等)があることを大切にする考えも同様である。これだけでない。

八百万の神々はどこにもいらっしゃる。神社にいる神だけではない。道端にも、竈にも、そして疫病神に貧乏神。列島に生まれし民は、多様性で、広義で、そして自由な思考をもっていた。

ダイバーシティ推進がアメリカの公民権運動からはじまったように、日本の多様性は、八百万の神々の信仰から始まったかもしれない。

そんなことを思いつつ、神在月の後半日の小雨降る「西谷墳墓群」と「上塩冶築山古墳」を歩いたのだ。

西谷墳墓群

西谷墳墓群 国指定史跡(2000年)

・弥生時代後期の墳墓群

JR出雲駅からタクシーで15分程の斐伊川の丘陵上に墳墓群がある。3・2・4・9号墓(築造順)は全国最大級の四隅突出型墳丘墓で、出雲地域の王が葬られたと推測されている。
国史跡に指定されたのは2000年(平成12年)のこと。2010年(平成22年)に史跡公園「出雲弥生の森」として整備が完了した。隣接する出雲弥生の森博物館(2010)には、西谷墳墓群の出土品や模型だけでなく出雲市内の遺跡関連も展示されている。

駐車場から歩くこと10分、丘陵の向こうに出雲商業高校の校舎と野球グランドが見える。設立1918年(大正7年)、この地に移転したのが1975年(昭和50年)のこと。県の音頭の元、企業誘致のため幹線と土地が整備、さらには住宅地の開発が行われたころである。
歴史遺産より経済成長が優先した時代だ。推測だが、史跡や古墳があっても整備しただろうし、隠したかもしれない。日本経済はある意味、それを求めた。

「野球ボールに気を付けて」の看板が共存と破壊を意識させる。眼下の野球グランドにも、校舎の下にも墳墓はあっただろう。もしかすると途方もない古代史があったかもしれない、出雲王朝国家の跡が。あるいは荒神谷遺跡で見つかった358本の銅鐸の製造工場が。

・損なわれた2号墓

正面にある2号墓。3号墓の次の代の王墓。大半が破壊されていたが、発掘調査で巨大な墳墓であったことが判明した。突出部を含めた規模は約46m×29m、高さ3.5m。ガラス腕輪や葬儀に使用した土器などが発見された。現在の墳墓は築造当時の復元で、墳墓内部の展示室には埋葬の様子を模型で再現している。

人の頭位の石が敷き詰められた墳丘の坂を上る。小雨に濡れ石は滑りやすく側面の手すりを掴む。老いたものである。
四方からの風を全身に感じる。このまま天上へと舞い上がる感覚だ。王となり眺める。代々ここに墓を造るならば、どの辺りに国・住居群があったのだろう。あの丘も墳墓にも見える。

石の坂道

たたら製鉄のカンナ流しの砂を運んだ斐伊川によってできた出雲平野。いずこかに眠り続ける出雲王朝。「国譲り神話」を事例に、戦うことを好まなかった出雲族だと藤岡大拙氏は語る。しかし、戦い破れ新潟から諏訪まで逃亡した子神もいる。あらためて問うてみるが、旅人の頭に分かるはずもない。

ある意味での歌舞伎の原点・出雲阿国(いずものおくに)の出生は、有吉佐和子の著『出雲阿国』では、出雲の斐伊川沿いで、ここで育つ。京で舞い、晩年出雲に戻った出雲阿国は、舞いの褒美にかんな流しを止めてくれと田部家に願い出る。流された砂で斐伊川は天井川となり、ときに氾濫し、川筋を変えては民を苦しめていた(江戸時代に一時禁止となる)。

小雨が上がり雲の切れ間に光が差す。縁結び空港から飛び立つ機影に腰かける八百万の神々の楽しげな姿が見える。あれは七福神か。深呼吸をする。

復元された墓の内部に作られた展示室に向かう。ガラスで遮断された石棺の前のボタンを押す。待つこと数秒、埋葬された王家の姿が浮かび上がる。
暫し瞑想の中で造りし民のことを考える。悲しかったのか、死が怖かったのか、それとも作業としての賦役が疎ましかったのか。それは現代の感覚だ。古代、王と民はどんな関係で、相手に対しなにを抱いていたのだろうか。手塚治虫の『火の鳥』を思い描く。愛、命、そして欲。回答のない問いを繰返しつつ、古から吹く風に背を押されながら墳墓の小径を訪ね歩く。

浮かび上がる像

・西谷墳墓群史跡公園

「西谷墳墓群」は、弥生時代後期から古墳・奈良時代にかけて造られたたくさんの墓の総称だ。墳丘を持つ墓だけでも27基が密集する。特に四方の隅が突き出した独特の形をした6基の墳墓は、弥生時代後期から終末期に造られた四隅突出型墳丘墓で、出雲の権力者たちの墓である。
全国的に稀な四隅突出型古墳は、ヤマト王朝に征服される前の出雲王朝の独自の墓である。

2基から1基に戻り、全体の配列を俯瞰する。再び2基から6基へと進み出雲平野を風に吹かれて眺めて見る。

杜甫の『春望』、「国破れて山河在り、城春にして草木深し、時に感じて花にも心を驚かす、烽火三月に連なり・・・」を反芻する。そこに何の希望があるというのだろうか。

柔らかな青葉の繁る春ならばどうだろうか。白く照り返す灼熱の夏ならばどうだろうか。自然の実りと立ち枯れに織りなされた秋ならば、日本海の水分をたっぷり含んだ褐色の冬ならどうだろうか。神在月の小雨は心を細くする。
障害物のない空を切ってくる冷え切った風が、細い心に突き刺さり弾ける。稲の刈り取られた後の田んぼに立つ霜柱を踏む臭いにも、南天の赤い実をついばむヤマガラの放つ焦りにも似た臭いでもある。あるいは不用意に水を掛けた炭の哀れみでもある。

日本海から、中国山地から吹き寄せる風に押され、出雲平野の小高い丘陵を下る。

周辺の風景

重厚な石棺二基の眠る上塩冶築山古墳

上塩冶築山古墳(かみえんやつきやまこふん)は、西谷墳墓群史跡公園から車で二十分程の上塩冶町にある。ありふれた住宅地の小さな林の中にあり、事前にナビに設定しないと見過ごすだろう。

住宅地の雑木林にある

発見されたのは1887年(明治20年)で副葬品も大量に出土した。築造時期は、古墳時代後期の6世紀末、あるいは6世紀後半と推定されている。
形状は円墳状。円形の直径は約46m、高さは約6m。墳丘周囲には周堀(幅約16m)が巡らされ、周堀を含めると直径は約77mになる。埋葬施設は大型の切石積横穴式石室で、なかに横口式家形石棺2基がある。
石室規模や発見された副葬品から、今市大念寺古墳に続く出雲地方の大きな首長の墓と推定されている。出土品は2018年(平成30年)に国の重要文化財に指定された。

小さな駐車場に停まる車も人影もなかった。唯一、耳元をかすめていく息遣いらしき気配は、土産話にと立ち寄る八百万の神だろうか。今も熟した柿のまったりとした匂いがした。昨夜の別れの宴の名残だろう。

ボックスから懐中電灯を取り出し、鉄檻で閉ざされた開口部に向かう。近づくにつれ冷え切った風に混じる乾ききった圧を感じる。死ぬことのない神に、石棺とはどんな意味があるのだろうか。要らぬことが過り、もしかして未来の寝屋としての見学かもしれなと小笑いする。

入り口とパンフレット

・閉ざされた時間の果てに

懐中電灯を手に鉄柵を開ける。近代建築の石の壁面や天上・床の如く鋭角で、人が立ち入ることを許さない意思とともに、永く眠り続ける幽閉された密度も感じる。それとともに驚いたのは、空き缶やたばこの吸い殻など意識して捨てられたゴミなどはまったくなく、チリひとつなく綺麗に掃除されていることだ。むしろ清潔感を冷気から感じた。これも神話の町の心配りだろう。あるいは見学者のモラルか。それとも出雲神話に繋がる祟りでもあるのだろうか。

一礼をして一歩踏み入る。懐中電灯の放つオレンジ色の丸い光が視界を遮る。

横穴式石室全長は14.6m、死者を埋葬する玄室は奥行6.6m、幅2.8m、高さ2.9m。圧迫感はない。石造りのカプセルホテルのベッドといった感じだ。

石棺から見た入り口

・石室と石棺に見る切石と切組み積の技術

石室壁石や家形石棺は、丁寧に仕上げられた石灰岩の石材加工で、その大きな切石を噛み合わせながら積んでいく「切組み積」の技法が使用されている。天井石・楣石は自然石で、玄室の床面には河原石が敷いてある。流れ着いた斐伊川の川石だろうか。それとも神戸川か。今の斐伊川に人の頭大の石を見ることはない。

石壁の整美な切石から石棺に目を移す。玄室には、横口をもつ大小2基の家形石棺がある。石室の開口時(明治20年)、大量の副葬品(玉類、金銅冠、円頭大刀、馬具、須恵器等)が発見された。玄室からの出土品は215点、そのうち197点が重要文化財として出雲弥生の森博物館で展示・保管されている。本当に明治まで誰も触れなかったのだろうか?もしかすると祟り伝説でもあったのだろうか。(参考まで、半村良の小説・嘘部『闇の中の哄笑』)

大小2基の横口式家形石棺のうち、小棺は玄室最奥に長辺を奥壁に接し、横口を玄門側に向けて設置されている。大棺は小棺の手前に長辺を壁に接し、横口を通路に向けて設置されている。特筆すべきことは大棺の蓋石にある6個の縄掛突起だ。

石棺
横口
縄掛突起

見れば見るほど美しく加工された家形石棺だが、近くで見て触れると、ノミなどの工具で削った跡がよく分かる。拳で叩いてみた。痛い、ヤップ島の石貨とはまったく異なった感覚だが、細部まで綺麗に仕上げた技術は似ている。

旅先の思い出はその地の文化と風習にのっとり

・出雲王朝の王

ここから出土されたなかに金銀装円頭大刀(国の重要文化財)がある。そこで気になるのがここに葬られた王である。そして国造りとその文化・政治である。これは専門家に頼るしかない。ただ、その推理の参考になるのが、現在リニューアル中の出雲古代歴史博物館にある。馬にまたがる王である。

暫く石棺や壁面に手を置き冷えた息吹を探した。土ならば息吹もしただろう。しかし、ざらつく石からは風の音さえしない。ただ石面の表面を密度の高い空気が漂っている。それが古からのメッセージだろう。石室からすべてがなくなり寂しいと泣いているのか、それともある意味での伝えるという使命を終えた安堵かもしれない。

石壁に耳を当てた、右左と交互に数回。ちくちくした耳にやがて聞こえてきた。風でも水でも息吹でもない、私が思考する熱という熱音が。幻想めいた話であるが、それが古の民の答えである。時という謎めいた共鳴の振動で。はじめは痛かった石壁の感覚は時という共振しあう。まぎれもないコミュニケーションである。石棺にも手の平を置いて耳を当てた。聞こえてくる共鳴が。それは壁面とは異なる共振だ。やがて天上の石からも波状が縦波となって震える。静寂だった石室はいつのまにか音のしないオーケストラだ。それはヴィバルディーの『四季』かもしれない。ティンパニーがバイオリンと戦っている。音ではない振動で。

それは荒神谷遺跡で、加茂岩倉遺跡で聞いた振動とは異なる共振だった。

入り口

石から「なぜ」を問い続ける

過去は未来を語ることはない。ただ伝えるだけだ。その伝える意味と意思を現代人がどのように受け止めて理解し、その後の営為に活かすかである。
「いつ、どこで、だれが、なにを」といった研究ではなく、「なぜ」の問いを私たちは
行い続けなければならない。それは多くの博物館でも、そして広島の原爆資料館でも同様なことだ。伝えるだけでなく、伝えられるだけでなく、知識の習得だけでなく、なによりも大切なことは、「なぜ」を自分なりに考えることだ。思考そのものである。

この壁面も、ベルリンの壁も、伝えることや感じることは異なっても、「考える」という営為では同じものだ。

「思考」するためには、「知識」が必要だ。その知識のために学ばなくてはならない。教える者は「なぜ」を発することは少ない。なぜなら、「なぜ」ことがその人の価値観を表すからだ。ときに押し付けとなることもある。しかし、「なぜを考えることが大切だ」と教えることが大切だ。むしろ、そのことに教える側の存在理由がある。

古の風と古のときは、そのことに気づくことを諭す。

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