-汽車は木次線を静かに進みだした-
匿名
松江に生まれ、松江で育ち、大学の四年間だけ離れ、松江で就職した私だ。それなのに木次線に一度も乗車していない。ただ高校三年の時、木次線の入り口の駅まで汽車に乗った。それについて書こうとするわけだ。正直、魅力や心にしみる思い出など全く自信がない。
あの日は雨だった。木次線の奥に実家がある同級生とともに松江駅で汽車に乗った。彼は同行を何度も拒否した。しつこいと鳴られもした。いい加減にしろとワイシャツの胸元を握られもした。それでも引き下がることはできなかった。それは意地でもあり、仁義であるような義務でもあった。
あの頃、高倉健の『昭和残侠伝』が上映されていて、伊勢宮の東映映画館に出かけた。彼を何度も誘ったが一度も来なかった。理由は、「金がない」の一点だった。「俺が出す」と言ったが、それでも行くことはなかった。一方俺ははまった。高倉健に池部良、そして藤純子。唐獅子牡丹のポスターを部屋に貼っていた。
松江駅で乗車して宍道駅まで彼は一言も口を利かなかった。ほんとうに頑固者だった。同行した俺は高倉健に憧れていたが、どちらかというと池部良の側だった。藤純子の存在はなかった。と思う。
俺と彼と複数のものが、とあることで処分を受けることになった。反省文を書けば内申書にも記載しないし、謹慎処分も取り消しにすると生徒指導部の教員にそそのかされ、私も仲間も原稿用紙で何枚分の殊勝な反省文を書いた。しかし、彼は頑として受け入れなかった。理由は明らかにしなかったが「男の意地だ」と言った。
そのときだろう、彼を討ち入り向かう高倉健だと思ったのは。だから俺は番傘を差して彼を待ち実家まで同行することに決めた。
この時だけ無口な男だった。
生徒指導部の教員も担任の教員も、そんなにむきになるなとアドバイスしてくれた。しかし、彼は「理不尽だ」と頭を下げることはなく謹慎処分を受けた。ただ、それを知ったのは、長い反省文を出した翌日の朝のことだ。彼の母親が学校に呼び出されたのだ。
申し訳なかった。もとはといえば誘ったのは俺だったからだ。当然、学校も知っていたが、「頑固」だけで彼は処分された。そんな彼に俺は義理立てた。そうせざるを得なかった。そうでなければ「男の顔が立たなかった」。粋がった高倉健の映画を観る自分の生きざまに納得できなかった。
時間調整で長く停車する宍道駅で「もういいから帰れ」と彼は煙草と『平凡パンチ』を寄越した。煙草と雑誌は、昨夜、一緒に反省文を書いた同級生が運び込んだらしい。俺だけでなく皆、申し訳ないと思っていた。
『平凡パンチ』が藤純子ならちょっと寂しい青春物語になるが、それでも硬派の彼らしくていいと思った。「付き合っている子はいないのか」。唐突な問いだと思ったが、めくったページのピンナップ写真のモデルに欲望が奪われてしまった。
突然、彼が杜甫の「国破れて山河在り、城春にして草木深し・・・」とつぶやき始めた。彼も彼なりにこの瞬間を憂い、あるいは楽しんでいた。俺は中原中也の「汚れてしまった悲しみに」とつぶやいた。
「格好つけやがって、日和見(ひよりみ)が」。カチンときたが怒ることも反論もできなかった。たしかに一番で日和ったのは俺だった。親父に殴られ母親に泣かれれば仕方ないと思っていた。でも本当の理由は希望の大学に入りたかった。
「この汽車で家のある駅まで行くと、帰りは八時を過ぎるぞ」。その意味は生徒指導部の教員が家を訪ねる時間に間に合わない。間違いなく俺も処分されることになる。そんなことは承知して乗った汽車だった。しかし、彼に言われて処分と内申書が大きな波となってやってきた。
「君の気持はわかったからもういいよ」
笑ってくれた。許してくれたと思った。俺は再び日和って汽車から飛び降りた。しばらくホームに立ち車窓越しに彼を見ていた。彼は視線を合わせなかった。ずっと遠くを見つめるように顔一つ動かさなかった。
やがて木次線に向け汽車が動き出した。
あれから月日が流れたくさんの歌が通り過ぎて行った。イルカの『なごり雪』やペドロ&カプリシャスの『別れの朝』を聞くたびに彼の意地を思い出す。
木次線のことは何も思い出さない。乗らなかったのだから。でも木次線には彼のような意地がたくさん詰まっているだろう。ということは「一部廃線」の噂をぶち破ることだろう。


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