• ~旅と日々の出会い~
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母さん、あの水筒はどうなったのでしょうね

松江のおばあさん   


■お世話になっています、奥出雲

はじめに謝っておきます、「ごめんなさい」。

母の実家が奥出雲にあって、今でも親戚の方もいらっしゃいます。年に数回、仁多米やお餅に野菜、この時期ならば「ちまき」など沢山の奥出雲の農産物に名産品を頂きます。大変お世話になっております。

子供のころは木次線を使っていました。ここ数十年、車です。頂いた農産物が重いだけでなく、本数の少ない木次線が不便なのです。ずっと前に子供たちがトロッコ列車に乗った時も車で並走しました。そんなわけで原稿を依頼されたとき、断固、お断りしたのです。それに「木次線の完全存続の応援として」と言われたら、車族の私ならなおさら書けません。「ごめんなさい」と言ったのです。

ところが、「僕も帰京の際は車だよ。たまに乗るだけだよ。それはそれでいいと思うよ」。「でもさ、せめて心に残した思い出を書いてよ」と諭されたのです。昔なかった押しの強さで(笑い)。

■アルバムの思い出

追い込まれてしまいました。何かを書かなくてはと、思い出を探すためにアルバムをめくったのです。何かあれば木次線の思い出話も思いだすだろうと。ところが木次線や駅の写真が一枚もないのです。

私が子供のころのカメラはフィルムの写真で、一枚いちまいを大切に使っていました。こんなところ(ごめんなさい)では撮らなかったのでしょう。じゃあ奥出雲の風景はと探したのですがこれもありません。子供たちや親せきの集合写真だけ。そんななかに高校生の時の遠足の写真がありました。

何がおかしいのでしょうか、みんな笑っています。そしてみんな輝いています。卒業後もしばらくは会っていましたが、結婚し、子供ができるとまったく音信不通です。木次線と同じですね。どれだけお世話になっても、どんなに親しい友達であっても、月日の流れや、周りの変化の中で色あせ、忘れてしまうものです。

それでも探しました。木次線のことを思い出そうとアルバムのすみからすみまで必死に探したのです。なにかヒントはないかと。何度も何度も。

■姉のお古

写真を見てつまらないことを思い出しました。私の服もかばんも帽子もすべて姉のお古です。それが当たり前の時代でした。でも、すごく嫌だった。新しい服が着たかった。ほかの写真も見ました。ずっとお古です。笑ってしまいます。姉が着ていた服を翌年に私が着ているのです。

小学生の私が両親と姉と海水浴に出かけた写真がありました。麦わら帽子にリックサックに水筒。これもお古と笑った時、思い出したのです。悲しい水筒のことを。

■水筒

誕生日に祖母が買ってくれた水筒。かわいいキャラクターのついた円柱の水筒。それまでは姉のお古のアルマイトむき出しの小判型の茶色の水筒でした。(戦争映画に出てくる)

うれしくて、うれしくて毎日お水をいれて使いました。寝る時も一緒でした。遠足ごっこを一人でしました。そんな大切な水筒を山陰本線の汽車の中に忘れたのです。

いろんなことを忘れたのに、このときのことすべてを思い出しました。何十年間も思い出すこともなく忘れていた水筒を。

気が付いたのは、宍道駅で山陰本線から木次線に乗り換えてしばらくたった時でした。お水を飲もうとしたら肩にかけていた水筒がないのです。家を出た時も、松江の駅で汽車に乗った時も肩にかけていました。それがないのです。

必死に探す私に母が尋ねたのです、「どうしたんかね」(松江弁で)。泣き叫んだと思います。それは失ったことへの後悔ではなく、祖母の優しさへの裏切りの懺悔だったと思います。なくした原因より、今ないという結果でした。

母も驚き周りや椅子の下を探しました。のんきに煙草を吸っていた父が言ったのです、「ねちょったお前が苦しそうにしちょうたから、窓の横の服掛けにかけたが」

ホッとすると同時に悲しみが倍になってきました。そこに水筒はないのです。当たり前です。眠ったのは山陰本線でのことです。

はじめこそ泣いていた私を慰めた両親と姉でした。でもいつまでも泣き止まない私に両親は怒り、眠ったお前が悪いと責めたのです。

本当に悲しかったのでしょう。その後のことはまったく覚えていません。駅で駅員に説明したと思います。

■おかあさん、木次線に乗ろうね

水筒は出てきませんでした。買ってもらって初めてのお出かけで失くした水筒は、どこに行ったのでしょうか。あれから父か母かどちらかが新しい水筒を買ってくれました。でもあの水筒のように私の心を揺り動かすことはありません。どこにでもある、よくある水筒です。一緒に寝ることもなく、友達に見せびらかすこともなく、なによりも私自身が雑に扱いました。

おかあさん、あの水筒はどこに行ったのでしょうか。そして、おかあさん、あの時の私の喜びという感性はどこに行ったのでしょうか。

木次線は遠くなりました。でも、あの水筒の思い出は、今回のご縁で蘇り、心にしっかりと刻まれました。

忘れてはいけないこと、大切にしなければならない過去のこと、そして今でも心の支えになる思い出。なによりも大切にしなければならない『今』、そして『未来につなげる今のこと』。

この夏、必ず木次線に乗ります。あの水筒の思い出と、そしてなによりも水筒を頂いたときの喜びと、あの感謝の心をもって。

そして、しつこい『島根国』さん、ありがとう。木次線を思い出にしないためにも、たまには乗ることにします。

最後に、ちょっと古いですが『人間の証明』を真似て終わりにします。

『おかあさん、あの水筒はどこにいったのでしょうね』。

森村誠一『人間の証明』に出てくる有名な詩は西条八十『麦藁帽子』です。

「母さん、僕のあの帽子はどうしたのでしょうね?・・・母さん、あれは好きな帽子でしたよ。ぼくはあのときずいぷんくやしかった。だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。・・・・」

奥出雲の風景

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