• ~旅と日々の出会い~
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映画『砂の器』背景としての亀嵩、意思としての仁多弁と木次線・駅

―それは最後の音楽と映像のためにあった―

土着民     


■土着民

俺は、「町民」とか、「地元民」とかより「土着民」と呼ぶ方が好きだ。もし気になる人がいたなら「土着の人」と呼んでくれればいい。
奥出雲(正しくは現住所)に生まれ、奥出雲の土地や自然と一体となって生活し、背の丈に合った生活と生業を営み、自慢もしなければ卑下もしない時を過ごす。そんな民を俺は「土着民」という。土着民ゆえに、その土着の地の言語を使い、挨拶をすることを心がけている。

断っておく。土着民とは、何代も続いた家系とか、土地や船をもつ農業・漁業民を指すのではない。移住民であっても、ここに根付く意識さえもてば土着民だ。土着するマインド(志)である。移住やIターンなど、移り住みつく前と分けるような言い方は嫌いだ
もうひとつ。マイカーを持っても、月に二度以上、木次線に乗車することを義務付けている。墓参りと同じだ。代々への感謝の気持でもある。

■木次線と映画『砂の器』

映画『砂の器』で、緒形拳が演じる亀嵩の駐在所の巡査三木謙一。岡山県江見町に生まれ、若い頃に島根県警の警察官となり亀嵩に赴任(退職まで亀嵩にいたのかどうか不明)、ズーズー弁(仁多弁)を器用に使う。職業としてというより、人として働く姿が映し出される。その意味では三木謙一と妻は土着民である。退職後、郷里に戻り、島根の思い出や染付いた方言をつかう男として描かれている。

流浪の末に辿り着く加藤嘉演じる本浦秀夫、偏見と差別のなかで土着民でも、地元民であることも否定されるが故に自ら拒否する(強いられた拒否)。その子・春田和秀演じる本浦秀夫(和賀英良の子供時代)は、父を追い、みずから奥出雲の土着民になることを否定する(三木夫婦との生活)。その否定によって終生、他人の戸籍を取得して成功しようとも土着民の地と心を得ることなく流浪の旅人となる。そのデラシネこそが終盤の音楽『宿命』に投影され、慟哭と悔恨へと練りあげる。

村八分があった(今はないというのではない)時代、身をもって知る本浦親子にとって、土着民という共同体は望むべくもない、むしろ強いられた対岸の世界であった。それが『砂の器』に集約される。

■『駅』のもつ意味

木次線『亀嵩』駅。『『砂の器』と木次線』(村田英治著)によると、ある日、八川駅に『亀嵩駅』の看板が掛けられた映画ロケに遭遇する。家に戻り色紙を持ち出し、丹波哲郎にサインを乞う。

東北弁とズーズー弁の類似性が重大な意味を持つ『砂の器』。『亀田』と『亀嵩』の聞き間違い。それを印象付けるためには文字としての『亀田』と『亀嵩』が不可分であった。
松本清張の小説ならば、活字で表記できる。しかし映画『砂の器』では、どこかで文字を見せなければ、この類似性と相違を観客に伝えることはできない。その最大の表示が、誰もが知り、誰もが信用する駅に掛けられた駅名の看板だった。

大きな駅舎では見かけなくなった駅名の看板。しかし、ローカル線の駅前には、これぞと言わんばかりの味のある看板がかかっている。いったい誰のために。住民のためか、旅人や行商人のためか。むしろ駅という地元に定着した建物の自己主張に見える。
擬人化すれば、「私は、皆のためにある尊い亀嵩驛です」。

看板の『亀嵩駅』は、音声としての『亀田』と『亀嵩』を言語によって違いを示す。
それだけではない。本浦親子には、地元のシンボル、あるいは証し、そしてこの地の権化として映る。亀嵩駅(撮影は三成駅かな?)での親子の別れが、土着民と流浪の民の対比として観客の深層心理を震撼する。駅は出会いと別れの場だけでない。その生き方の違いとして。

本浦秀夫が駐在所兼三木謙一の自宅を離れるときも同様に看板が、土着民か流浪の民かの臨界点を示す。土着民であることを拒否した少年の決意と、父を求めて旅立つこれからの流浪の日々を示す。さらに仲間ではない亀嵩の山々の木々に脅えるように隠れるシーンこそが、他人の戸籍を取得して生きるこれからの和賀英良を予感させる。

野村芳太郎たちは、極論すれば、映画『砂の器』の根本でもある方言による差異を示すため、『亀嵩駅』の看板を撮りに来た。その看板を強調するために木次線の風景があった。当初は。しかし、やがて木次線の風景こそが、根づくことのない親子の悲哀を強調する結果となる。風景は土着民と流浪の民によって異なるものとして映る。
ラストのシーンの音楽『宿命』が、制作者集団の大衆受けを狙った仕掛けであったように(※)。
奥出雲の風景と生の言語が制作者集団を震撼させた。

  ※『島根国』サイト
「文芸のあやとり」、【晴『交』雨読(島根関連の書籍紹介)】にて、「『松本清張が「砂の器」を書くまで』山本幸正― 新聞連載小説か、書籍か、映画か、それぞれの世界―」

■映画『七人の侍』と高度成長期

黒澤明映画『七人の侍』のラストシーン。
村人のために盗賊と戦った侍のリーダー・島田勘兵衛(野武士)が、戦い亡くなった仲間の墓を見つめてつぶやく。「今度もまた負け戦だったな……いや、勝ったのはあの百姓たちだ、わしらではない」。
カメラは、『田植え唄』を歌いながら、泥にまみれて明るく生き生きと作業をする農民(土着民)を撮り続ける。それは勝ったのではない。土着民の生き様である。一方、侍たちは農民のために戦い盗賊には勝ったが、安住の居場所でなく去っていく。そこには目的も今もない無常観だけである。

『田植え唄』は、大地に根を張り生き抜く土着民の賛歌であり、戦闘要員であり戦闘要員にこだわる野武士たちへの挽歌でもある。

『七人の侍』の制作は、1954年(昭和29年)、朝鮮戦争が一定の停戦を迎え、日本は神武景気(1954-1957年)の幕開けに湧く。あわせて高度成長は賃金格差・生活の格差を広げ、1955年から1965年まで「金の卵」と称して多くの地方の中学卒業生を大都市圏の肉体労働者として送り出す。木次線の駅でも同様であった。

奥出雲の次男・次女の土着民が、大都市圏の流浪の民となる。やがてその地の土着民となり、盆暮れに野良仕事に疲れた親と兄夫妻のもとにスーツに革靴、ボストンバックと沢山のお土産を下げて帰ってくる。賃金労働者が輝かしいサラリーマンとして。

時代は着々と変化する。そして「土着民」「流浪の民」とも言わなくなり、「地元民」とか「土着の人」へと変わり、「流浪の民」は「旅人」になった。そして、「町民」と「移住者」という新しい対比の言葉に置き換えられた。

■再び土着民として

この駅で、集団就職の中学卒業生を見送り、また訪ね来る旅人を迎えた。日々の通勤通学生で混雑した木次線にも乗った。

木次線は今も走り、無人駅にとなっても駅はありつづける。『砂の器』の「宿命」を聴くのか、『七人の侍』の「田植え唄」を歌うのか、人それぞれの時代になった。

土着民を自称する俺は、「田植え唄」を選択する。それはここに生き続けるために。

そして移住希望をする人に出会うなら伝えたい、「土着民」の心得を。それは人々と共にあれ。そしてどんなに便利になっても、先祖代々に感謝するためにも木次線を利用することだと。

奥出雲の自然

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