藤岡大拙 (NPO法人出雲学研究所理事長)
昭和2年の夏、島崎藤村は『山陰土産』執筆のため松江を訪れ、宍道湖畔の皆美館に逗留した。「備後入道とは、松江市から見て東南の空に起る夏の雲のことをいうとか。宍道湖のほとりでは、毎日のようにその白い雲を望んだ」。はるか中国山脈の向こう側、備後(広島県)方面から湧き上がる入道雲に、藤村は神秘なものを感じたようだ。その備後に接して、山脈の北側、重畳たる山々に囲まれた、箱庭のような一画がある。それは仁多郡。今では一郡一町、奥出雲町だけだ。出雲国風土記には、「にたしき小国(おくに)」(豊潤肥沃な小地域)と記され、小さいながら豊かな地域だ。仁多郡は横田・三沢など四郷から成り立っている。箱庭といったが、備後との間には古代から二つの道があり、人や物の交流があり、時には侵略者の道にもなった。
中国山地に源を発する斐伊川・飯梨(いいなし)川は、上流では豊富な鉄資源を産し、下流では出雲平野や安来平野の沃野を造成した。斐伊川の川上にそびえる船通山は、スサノオノ命が降臨し、オロチを退治したという、出雲神話の序章の舞台であった。中世には土豪三沢氏が威をふるった。神話も三沢氏も、すべて鉄の生産と関わっていた。
仁多はただの奥座敷ではない、静かな環境のなかにも、確かな歴史の歩みを刻んでいた。それが出雲的風土というものであろう。奥座敷は出雲的なものが凝集する場であった。そこに住む人はもっとも出雲人らしい生き方をしてきた。
昭和40年、『奥出雲をさぐる―古代・中世の奥出雲』という本が刊行された。著者の高橋一郎という人を私は知らなかった。当時、横田町立鳥上(とりかみ)中学校の校長と巻末に記してあった。一読して感銘を覚えた。これほど資料を収集し、的確な分析をされる人を私の周りに見なかったからだ。たぶん独りでこつこつとやってこられたと思った。私は島根大学の内藤正中教授を介して、さっそく高橋先生の知遇を得た。先生は「山呼懐古情」と書いて一冊くださった。山々に囲まれたお住いの地、横田での感懐であろう。
先生は『奥出雲』というリーフレットも作成し、町内に配布されていた。昭和50年から平成14年まで28年間、独りで毎月作り続けられた。その数、実に356部。並大抵の数ではない。史料解説、歴史評論、伝説紹介、短歌俳句など、一人で書き上げられている。
私は先生の生きざまのなかに、典型的な出雲人を見た。地味で目立たず、コツコツと、息長くやり抜こうとする静かな情熱。そして心中にたぎる郷土愛。先生は出雲の奥座敷にどっぷりつかって、黙々と研究し、啓蒙にも努められた。出雲の奥座敷は、そんな出雲人を生み出す絶好の場所である。
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