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7.斉明五年(659年)の出雲の反抗

藤岡大拙

 (さい)(めい)天皇は波瀾にとんだ一生を送った女帝であった。(じょ)(めい)天皇の皇后であった彼女は、夫の後を襲って、六四二年(こう)(ぎょく)天皇として即位する。在位中に起こった最大の事件は乙巳(いつし)の変(六四五)である。世上よく知られるように、中大兄(なかのおおえの)皇子と中臣鎌足によるクーデターで、専横を極めたといわれる蘇我蝦夷(えみし)(いる)鹿()父子が滅ぼされ、大化の改新の前提となった事件である。

 この事件に、女帝が具体的にどのように関わったかは明らかでないが、事件直後に退位して、孝徳天皇が即位するところを見れば、何らかの関わりはあったのかもしれない。だが、(はく)()五年(六五四)天皇が崩御すると、翌年重祚(ちょうそ)して斉明天皇として再び即位する。皇極・斉明の在位通算十一年間は、必ずしも善政とは言い難いものがあった。有間皇子が糾弾した彼女の失政は三点あるという(笠原英彦『歴代天皇総覧』)。第一に、大きな倉を建て、財を蓄えたこと。第二に、長い水路を作るため、多数の人民を徴発し、多額の費用を費やしたこと。第三に、無駄な工事を行ったこと。そのため、人民の怨嗟の的になったようだ。

 加えて、対外的には半島との緊張関係が高まり、また、北方辺境では、(みし)(はせ)の反抗があり、阿倍比羅夫が鎮圧に向かうなど、斉明朝は文字通り内憂外患の渦中にあった。

 その斉明五年(六五九)、天皇は出雲国に次のような命令を発している。

「是の歳、出雲国造(くにのみやつこ)(名を(もら)せり。)に命じて、神の宮を(つくり)(よそ)はしむ。狐、()(うの)(こほり)役丁(えよほろ)の執れる(かずら)の末を()ひ断ちて()ぬ。又、(いぬ)死人(しにひと)手臂(ただむき)言屋社(いふやのやしろ)()み置けり。(言屋、此には伊浮耶(いふや)と云ふ。天子(みかど)(かむあが)りまさん(きざし)なり)」(『日本書紀』)

 宇治谷孟氏の訳文によると、「この年、出雲国造に命ぜられて神の宮(意宇郡の熊野大社)を修造させられた。そのとき狐が、意宇郡の役夫の採ってきた葛(宮造りの用材)を噛み切って逃げた。また犬が死人の腕を、揖屋(いや)神社のところに噛って置いていた。―天子の崩御の前兆である。」(『全現代語訳 日本書紀』講談社学術文庫)

 短い文章だが、古代出雲の歴史の重要なポイントが隠れ潜んでいる。蛇足だが、現今、最も信頼性の高いといわれる『日本史総合年表』(吉川弘文館)には、残念ながら記載はない。

 さて、とりあえず問題点をいくつか挙げてみよう。第一に、出雲国造が修造を命じられたという「神の宮」とは、いったい何処なのか。宇治谷氏はこともなげに意宇郡の熊野大社(松江市八雲町)だとしている。なるほど、いぜんには著名な古代史家井上光貞氏はじめ、多くの研究者が熊野大社説を支持してきた。もちろん、それには理由がある。熊野大社は意宇郡に鎮座するのだが、修造の用材を採取させられたのも意宇郡の人民だし、犬が死人の腕を噛み置いた揖屋神社も意宇郡の有力神社であった。また、古代においては、熊野神が杵築神より上位だった。そのようなことから神の宮は熊野大社とされたのである。ところが、最近は杵築大社説が強いようだ。村井康彦氏なども、杵築大社説を支持している。(『出雲と大和』岩波新書)私も杵築大社説を支持したい。その理由を挙げておきたい。

 斉明朝からおよそむ八十年後に成立した出雲国風土記(七三三)によると、熊野大社の社は熊野山(現松江市八雲町の天狗山)に存在すると記されており、現在でも頂上の少し下方に磐座(いわくら)がある。当時の熊野大社は他の例から考えて、この磐座が御神体であって、建築物があったとは考えられない。「(つくり)(よそふ)」は従来の建物をより立派に修造することであろう。とすれば、建物がなかったと思われる熊野大社について、「神の宮を修厳はしむ」という表現はありえないことになる。従来から存在していたと思われる杵築大社の建物にだけ適用できる文言ということになる。

 かくして、斉明天皇が出雲国造に命じたのは、杵築大社の修造ということになる。ところが、そのために意宇郡の人民に採取させた建築用材の葛を、狐が噛み切ったというのである。さらに、犬が死人の腕をくわえてきて、揖屋神社の境内に置いて去ったという。この不気味な出来事を占ってみたら、斉明天皇の崩御が近いという超不吉な結果が出たというのである。じじつ、その二年後、斉明女帝は九州の朝倉宮(福岡県朝倉市)で、百済救援に赴く途中、崩御するのである。

 狐が大切な建築用材を喰いちぎる、犬が死人の腕を神社の境内に噛み置くという一連の事件は、動物に仮託しているが、明らかに出雲勢力の斉明王朝への抗議である。本来ならば、造営してくれることは、出雲にとって歓迎すべきことである。それなのに、反対するのは何故か。それは思うに、国譲りの約束を守らず、小規模な造営に終わっているからであろう。それ以外に、反対の理由を探し出すのは困難である。

 それならば、この事件の結果、杵築大社は約束通り、雲つくような巨大な建築になっただろうか。そのように主張する研究者もいるのだが、私はそうではなく、依然として小規模の建築にとどまっていたと考える。なぜなら、奈良時代をカバーする出雲国風土記や続日本紀などに、巨大な建築を示す記事が見当たらないからである。

 では、杵築大社はいったいいつ、巨大な神殿になったのであろうか。

出雲大社

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