• ~旅と日々の出会い~
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2話 神々の国の首都を散歩する小泉八雲
   ー日本の心と精霊を求めてー

目次 
壱 小泉八雲の時代と日本の日々

壱 小泉八雲の時代と日本の日々

はじめに

仕事の縁で出会ったシステム開発を手掛けるZ世代(※)の若者に、「ラフカディオ・ハーン」「小泉八雲」について尋ねたところ、ほとんどの若者が首を横に振ったのです。知りません。頷いた女性も、友達との卒業旅行で小泉八雲記念館に立ち寄り、知ったとのことです。それもチケットに組込まれていたから覗いたのです。驚きでした。

 ※Z世代、1990年代中盤から2010年代序盤までに生まれた世代。生まれながらにデジタルネイティブである。

小泉八雲旧居

島根に生まれ、幼稚園の紙芝居で「耳なし芳一」「雪女」を知り、小中学校で『怪談』を読み、高校時代には英語のサブテキストで「むじな」を読んだ私には、小泉八雲=ラフカディオ・ハーンは家の障子のように当たり前にありました。

さらに驚いたのは「島根のご出身だからでしょう」と指摘され、「ゲームやコミックのことを御存じないのと同じです」と諭されてしまったのです。
確かに、ご指摘の通りです。『もののけ姫』にたたら製鉄が描かれていると教えられても、まだ観ていないのだから。国語の試験にでたとしても、小泉八雲を知らない若者がいても当たり前のことでしょう。

偉そうに物申すこの私も、日本で十数点の作品を書いた小泉八雲ですが、読んだのは『怪談』と『日本の面影』の二冊です。あとは小泉八雲やセツのことを題材にした小説で、冷静に受け止めれば私自身情けなくなります。

その程度の知識ですが、島根旅を考える皆様に、島根の国をもって知っていただき、興味を抱いていただくために、小泉八雲の日本での人となりや小泉八雲が描いた「神々の国の首都」=「出雲國」を紹介させて頂きます。

詳しい内容やガイド、はたまた評論は、ひ孫にあたる小泉凡氏の書籍や著名な方の批評書籍や小説をご覧ください。どこかでまとめて紹介させて頂きます。また、小泉八雲の研究・顕彰活動を行う「八雲会」があり、小泉八雲に関わる多くの書籍も出版しています。直販体制につき直接お尋ねください。

小泉八雲の入門書としては、別冊太陽『小泉八雲―日本の霊性を求めて』(平凡社 2022年6月25日)と小泉節著『思い出の記』がお薦めです。

小泉八雲: 日本の霊性を求めて (別冊太陽)
ラフカディオ・ハーンは小泉八雲

ジャーナリストであり作家でもあるラフカディオ・ハーンは、小泉セツとの結婚の決意を契機に日本への帰化を選択、「小泉八雲」として日本で過ごしました。
本文では、日本への思いを尊重し、特別な場合を除き「小泉八雲」と表現させて頂きます。

1904年9月26日、心臓発作のため東京の自宅で亡くなります。享年55(数え年)。お墓は雑司ヶ谷霊園にあります。
二年後の2024年が逝去120年にあたります。松江、隠岐島、熊本、東京、あるいは鎌倉や焼津などで記念イベントが開催されるかもしれません。

ここでは松江に暮らしていた時の小泉八雲のみに焦点を当てて紹介します。小泉八雲の日本全般、あるいは日本に来る前のギリシャ、アイルランド、アメリカ、西インド諸島でのラフカディオ・ハーンについては一切触れません。

「神々の国の首都」についても、「出雲」や「松江」といった行政区名の囲みではなく、「出雲國」(いずものくに)という、松江・出雲・安来・雲南・奥出雲等をごちゃ混ぜにし、時空を超越した「漠」としたイメージで捉えることにしました。次回説明をしますが、そのほうが想像の世界を大切にした小泉八雲を適切に表現できるからです。その世界を「亜フィクション」(当方の造語)の世界として仮説に置きます。

近代化の道を走る明治の頃と現在とは、見える景色も人の心も変わったことでしょう。もちろん交通の便もコミュニケーションの手法も価値も激変しました。小泉八雲の「見て・感じて・想像した」出雲國の地も消散したでしょう。むしろ消散したからこそ、貴方の感性と想像力で小泉八雲が表した「出雲國」を探し求めて、描いてみるには都合がよいのかもしれません。それに、決して難しいことではありません。
小泉八雲が大切にした「親愛」の心で見つめてみると、時代を越えて貴方にも必ず見えるはずです。それは好奇な目ではない、感謝と共感の心です。やがて小泉八雲が鎌倉の想像の世界で出会った鈴木大拙の「霊性」へとつながることでしょう。

あわせて当webサイト『島根国』の「日本遺産と心に残る風景-心に残る島根の風景」をご覧ください。小泉八雲が『日本の面影』(訳・池田雅之、角川ソフィア文庫)で綴った「出雲國」の各地を、小泉八雲の作品の引用とともに紹介します。

また、小泉八雲の研究と紹介を手掛ける「八雲会」の内田融氏のインタビュー動画も掲載します。小泉八雲の感性とともに、「出雲國」の面影を探ってください。

鈴木大拙の墓がある北鎌倉の東慶寺
小泉八雲の「出雲國」を歩く

小泉八雲とセツの生活のほんの外縁を、朧気ではありますが辿ってみます。

14年の歳月を日本で過ごした小泉八雲ですが、松江で暮らしたのは一年と二か月ほどです。それが長いのか短いのか、『古事記』を学んだラフカディオ・ハーン(日本に来る前に学ぶ)が日本の精神にどれほど関り、感性が揺さぶられ、「日本の心」の原型に触れることができたか、文学にも素人の私には判断できません。

でも、この夏(2022年)、美保関、松江、意宇郷、出雲大社、日御碕等を、ビデオカメラ二台とバッテリーに三脚、パソコンに資料とノートを背負い、取材と撮影で駆け回った私の脳裏には、灼熱の光と汗とともに陽炎のような景色が微かに焼き付いています。
小泉八雲が好きな物は「西、夕焼け、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、寂しい墓地・・・。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御碕、それから焼津・・・」(小泉節『思い出の記』より)

日本海に沈む夕陽にとけ入る感覚でしょうか、神社仏閣の静寂さに意識の霧散する寂しさでしょうか、それとも心地好い風に寝入った木立の優しさでしょうか。それが、小泉八雲が見た風景ではないかと思います。

撮影模様(美保関)

日本に生まれても「日本の心」を意識することなく育った私です。それでも感性や感覚の中に日本的な気づきが刷り込まれているのでしょうか。観念が反応するのです。

松江城のお堀沿いの「塩見縄手」にある小泉八雲記念館や旧居を訪ねた時に、ラフカディオ・ハーンが好んだ宍道湖の夕陽や城山稲荷神社で、そして大橋川に佇めば、時は変わり、木々は枯れ、人の心は移れども、小泉八雲の周りにはこんな風が流れていたのだろうかと息を止めるのです。

小泉八雲を意識します。でも、私には小泉八雲の心は分かりません。どんな思想をもち、どんな人生観に生き、何を求め続けたか。

私自身のために、小泉八雲やセツを知るために、そしてなによりも失ってはならない「日本の面影」を求めて、その標木として、ほんの僅かですが当時の時代と小泉八雲の足跡をまとめてみました。

塩見縄手
日本にいた頃の情勢

小泉八雲が、アメリカの雑誌特派員記者として横浜港に上陸したのが1890年(明治23年)、40歳の4月4日のことです。
後に妻となるセツは、この年の2月4日、前夫の婿養子・前田為二と正式に離婚、養父母の稲垣家から小泉家に復帰しました。22歳のことです。

前田為二はその後どうなったのでしょうか。大阪の貧民窟に暮らしていました。武家社会が政治的にも経済的にも崩壊しても、なおこだわり続ける武士のプライドとアイデンティティ、そして窮乏の生活と見得ない将来。むしろ貧困で希望が持てないがゆえに落ちぶれた武士は武士の概念と栄華にこだわり、さらに武士階級を憎悪したのでしょう。
そのなかには、小泉家(セツ生家)も、稲垣家(セツ養父母)も、そして小泉八雲を理解した教頭の西田千太郎も、なによりも松江の庶民たちもいたのです。

しかし、小泉八雲は退廃した精神を見るのではなく、本来あった日本の心を見ようとしたのです。人だけではありません。自然にも、建物にも、商いにも、そしてなによりも昔話や文化にも同じ思いで接したのです。

小泉八雲が、セツが、西田千太郎が前向きに生きたとしても、大政奉還で、廃藩置県で、文明開化で人の心や意識が速やかに変わるものではあません。多くの庶民は変わることを拒んだと思います。それが保守の街なのです。
いち早く変わるものがいたとしたなら、それはいつの世でも新しきことに敏感な尋常中学の少年たちであり、近代化への道を急ぐ国策を敏感に感じた政治家や商人でしょう。

松江城

来日した1890年は、7月1日に第一回衆議院議員総選挙実施、11月29日に第一回帝国議会開院式が行われた年です。前年の1989年には大日本帝国憲法が発布されました。
1894年に日清戦争勃発し、1902年、1月30日日英同盟条約調印されます。

小泉八雲が亡くなる1904年は、2月8日に日本海軍がロシア艦隊を攻撃した日露戦争開戦の年です。(補足として、第一次世界大戦が十年後の1914年、第一次ロシア革命が1905年)

小泉八雲が日本で過ごした時期は、武士にこだわる文化が渦巻きながらも、富国強兵・殖産産業で近代化の基盤をつくった日本が、視界をアジア大陸に向け、列強と肩を並べようと走り出す時期でした。

ヨーロッパに目を移すと、19世紀末から第一次世界大戦まで、ドイツ・イタリア・オーストリアは三国同盟を、イギリス・フランス・ロシアは三国協商を結び対立します。当時、モンロー主義(アメリカはヨーロッパに干渉しないが、他国がアメリカ大陸干渉することに反対する)を貫くアメリカでしたが、イギリスはアメリカを世界戦に巻き込むことに躍起でした。1906年、アメリカでは日本を仮想敵国としたオレンジ計画が始まり、排日運動が激しくなります。
(本原稿の趣旨ではないので省略しますが、イギリス・フランスにとって、ドイツの勢力拡大を抑えるためにアメリカと日本を味方に巻き込むことが戦略的に必須でした)

ギリシャに生まれ、アイルランドに育ち、アメリカで職業の糧を得たジャーナリストのラフカディオ・ハーン(あえて)にとっても、世界の政治経済状況から離れて存在することはできません。

西洋化する新興勢力日本を意識化しつつも松江に暮らす小泉八雲のなかに、『古事記』の古(いにしえ)への心が「庶民の感性」や「物語の世界」を通して培われていくのです。

わずか一年足らずの松江の生活。そこには近代化を急ぐ西洋主義の日本ではない、「日本の心」が小泉八雲を迎えたのです。私は思います、松江が近代化のために小泉八雲の英語や知見を求めたのでなく、小泉八雲が今でも脈々と伝わる古の日本の心を求めたのではないかと。

「日本人の生活の類まれなる魅力は、・・・日本の西洋化された知識階級の中にみつけられるものでもなく、・・・その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在するのである」(『日本の面影』「はじめに」より)

近代化と日本の心、東京大学を頂点とした学府のヒエラルキーと親愛と嫉妬の庶民生活。小泉八雲とセツの生活にどんな影を映したのでしょう。

日本での小泉八雲の年表 

小泉八雲記念館のサイトをベースに年表を作成しました。

1850年 0歳
6月27日、ギリシャのイオニア諸島・レフカダ島で、アイルランド人で英国陸軍軍医補の父チャールズ・ブッシュ・ハーンと、ギリシャ人でキシラ島出身の母ローザ・アントニウ・カシマチの次男として生まれる。
・ペリー、浦賀に来航(1853年)

1868年
・2月4日、セツ小泉家に生まれる。

1890年(明治23年) 40歳
4月4日、横浜港に到着。
6月、ハーパー社への不満が募り絶縁状を送る。
7月19日、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となる契約を結ぶ。
8月30日、松江に着任。
9月、出雲大社に参拝し外国人として初めて昇殿を許される。

1891年 41歳
1月1日、羽織袴の正装で年始回り。身の回りの世話をするために小泉セツが雇われる。
6月22日、北堀町の根岸邸 (現在の旧居)へ、セツとともに転居する。
8月下旬、日本海沿いに鳥取県への旅をする。(この辺りは小説をご覧ください)
11月、第五高等中学校に出発。セツと養父母らを伴い松江を出発。
・大津事件(ナショナリズムと政治バランスを知る大きな事件でした)

1892年 42歳
4月にセツと一緒に博多へ
7月には関西や山陰、隠岐へと旅行する。

1893年43歳
4月、セツの懐妊を知らされ、帰化を具体的に検討。
11月17日、長男・一雄が誕生。

1894年 44歳
9月29日、日本に関する最初の著書『知られぬ日本の面影』(上下2巻)を出版。
10月6日、神戸クロニクル社転職のため熊本を離れ、神戸に転居。

1895年 45歳
1月30日、神戸クロニクルを退社する。
3月9日、『東の国から』を出版。
12月、帝国大学の外山正一から、英文学講師として招聘する意思を伝えられる。

1896年 46歳
2月10日、帰化手続きが完了し、「小泉八雲」と改名。
9月2日、帝国大学英文学科講師の辞令発令になり、上京する。

1897年 47歳
2月15日、二男・巌が誕生。
3月15日、西田千太郎が病没(享年35歳)。
8月、海水浴の好適地を探して焼津へ。以後毎夏のように避暑に出かける。

1898年 48歳
8月10日、長谷川書店から日本お伽噺シリーズ(ちりめん本)『猫を描いた少年』を出版。

1899年 49歳
12月20日、三男・清が誕生。

1900年 50歳
1月3日、エリザベス・ビスランドとの文通を再開する。
3月、外山正一が死去しこれにより東京大学内で孤立していく。

1901年 51歳
9月24日、次男・巌をセツの養母・稲垣トミの養子にし、戸籍を移す。

1902年 52歳
3月19日、市谷富久町から 新宿区大久保の新居に移る。

1903年 53歳
1月15日付、東京帝国大学より解雇通知を受け取る。
3月31日、東京帝国大学講師を辞す。後任が夏目漱石。
9月10日、長女・寿々子が誕生。体調に不安を覚える。

1904年 54歳

2月、早稲田大学講師として招聘され、3月9日より出勤する。
9月1日、心臓の発作が起きる。26日、再び心臓発作をおこし午後8時過ぎ息を引き取る。30日、市谷富久町の円融寺で葬儀が営まれ、雑司ケ谷の墓地に葬られる。

大久保の新居の碑

「なぜ、なぜ」と疑問のわく日々です。
なぜ、大好きな松江を一年と二か月で去ったのでしょうか。
なぜ、給与も倍になり、暖かい熊本なのに三年で去ったのでしょうか。
なぜ、東京大学を解雇されたのでしょうか。
どうして、好きな「出雲國」に帰らなかったのでしょうか。

すべて理由は多くの人びとによって解説され、書籍や研究論文に掲載されています。あることは小説にもなっています。しかし、それでも残る疑問です。
たとえば、汽車も走らぬ貧しい島根が、松江尋常中学校(現在の松江北高等学校)に、知事並みの給与を払って呼んだのは何故でしょう。

いろんな疑問を持ちつつも、神々の国の首都を是非、お訪ねください。

小泉八雲を島根観光の名所旧跡としてではなく、小泉八雲の感性と想像力を皆様の感覚で感じてください。そして、小泉八雲が愛した「出雲國」の文化や庶民の生活観を想像してください。いつの日か、貴方の中に「霊性」が降りるかもしれません。

次回は、『亜フィクションと「出雲國」』をお届けします。

小泉八雲旧居

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