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11.神々が出雲に集う

藤岡大拙

 明けましておめでとうございます。令和五年もよろしくご愛読のほどお願い申し上げます。

 前回、「次回は杵築大社の巨大化についてお話したい」と書いたが、その前に取上げるべき大きな問題を落としていた。全国の神々が出雲に全員集合する神在月、神無月の問題である。今回はそのことについてお話したい。

 旧暦十月には神々が出雲に集まり、全国は神無しの状態になるので神無月、逆に出雲だけは神々が充満するから神在月と言われる。その神々の出雲における移動や祭礼については、長い間に幾多の変遷を経て、近代にいたって固まった。

 まず、旧暦十月十日の夜、神々は海の彼方から大社(いな)()の浜に到着される。出雲大社では、稲佐の浜に祭壇をしつらえ、神迎えの祭りを行い、憑代(よりしろ)(さかき)に鎮まると、(りゅう)(じゃ)を先頭に行列を組んで杵築大社に向かう。神々はその夜から、本殿の両脇にある十九社(じゅうくしゃ)を宿とする。翌十一日から十七日まで、、稲佐の浜に近い(かみ)の宮で、神議(かむはかり)を行って人々の縁結びを導く。二十日からは会場を()()神社(松江市鹿島町)に移し、神議を続行する。二十五日の夜、佐太神社を発った神々は、斐伊川のほとりに鎮座する(まん)九千(くせん)神社に到着。翌二十六日はカラサデ祭が執行され、二十七日の早暁全国へ出立されるという。この一連の祭が神在祭である。出雲国の人々は、この約半月の間、お忌みと言って、ハレの行事は行わず、日常生活においても高歌放吟を慎むなどのお忌みを行う。特に二十六日の夜は、神在祭の最後として、最もきびしい物忌を行うのである。万九千神社では、その夜は決して本殿を覗いてはいけない。人々は表の戸を閉めて、屋内でひっそりと時を過ごす。内庭に(こえ)たごを持ち込んで簡易便所とするなど、徹底した物忌である。幼いころ、私も聞いたことがあるが、祖父母たちが言う。「あのな、カラサデさんの晩にはな、便所へ行くとな、カラサデ婆さんが尻撫でるぞ」 子供は震えあがって怖れる。神在祭のことを別にお忌み祭りとも言うのである。

 翌朝(二十七日)本殿を覗いてみると、新しい畳の上には榊の葉が散乱し、昨夜の神々の盛んな直会(なおらい)の様子がしのばれると言う。もっとも、これは巷間の茶飲み話ではあるのだが。いずれにせよ、十月の半ばから末にかけて、出雲の各社では、神迎え、神在祭(お忌み祭)、神送り(カラサデ祭)などがひしめいて行われ、神々の国出雲の姿が浮き彫りにされるのである。

 だが、この神在月、神去来には、多くの不明な点がある。第一に、この宗教行事はいつごろから始まったのか。第二に、神々はなぜ、出雲に集まるのか。(兼好法師だけは伊勢に集まると、徒然草で書いている) 第三に、なぜ、十月に(つど)うのか等々である。これらについて、明確な解答は未だしめされていない。

 さて、それでは第一の問題から考えてみよう。神無月の語が文献上に表れるのは、平安末期、十二世紀半ばに成立した奥義抄(おうぎしょう)・和歌童蒙(どうもう)抄という歌学書の中である。童蒙抄には、「十月、この月よろづのかみたち出雲国へおはしますによりて神無月といふ」とあり、奥義抄には、「十月、神無月、天の下のもろもろの神、出雲国にゆきてこの国に神なきゆゑに、かみなし月といふをあやまれり」と記されている。(カミナシヅキというべきをカンナヅキと言いあやまった)

 一般に、ある慣行が成立して、それが文献に載るようになるには、かなりの時間を経なければならないから、神々が出雲に集うという観念の成立は、少なくとも平安中期ぐらいまでさかのぼってもいいだろう。

 ところが、奈良時代、天平五年(七三三)に成立した出雲国風土記には、神々が出雲に集う話が二つも出てくる。一つは楯縫郡()()(のさと)(現出雲市小境町、佐香浦町などをふくむ地域)の条で、「佐香の河内に百八十(ももやそ)(かみ)が集いまして、御厨(みくりゃ)を建てて、酒を(かも)された」とある。もう一つは、出雲郡杵築郷(現出雲市大社町杵築地区)の条で、「大穴持神(オオクニヌシノ命)の宮を造営するために、おおぜいの天つ神たちが建設地に集まって、土地造成をされた」と記す。いずれも神々が出雲に集う話である。このことから、神々が出雲に集うという観念は、すでに奈良時代からあったと説く研究者もいる。しかし、それが継続的に集まるという観念に発展したのかどうか、定かではない。

 第二の問題は、神々はなぜ、出雲に集うのかということである。これは第三の神々はなぜ十月に集うのかという問題と、併せて考えたい。この問題に関する文献資料や研究はあるのだが、明快な解答はなさそうだ。ただその中で、内容はともかく、興味深い解説を載せているのは、戦国末期、天正八年(一五八〇)成立の雲陽軍実記である。(あか)()城に進出した毛利元就に対し、出雲の神祇信仰について備後高野山城主、多賀山(たかのやま)通定が説明している。「八百万の神の母神イザナミの命の御陵のある比婆山は佐太神社であり、イザナミは十月亡くなったので、この月に八百万の神々は佐太神社に詣でる。そのため、諸国は神無月になるが、出雲ばかりは神在月である」と。そのころ世上に流布していたものであろう。元就も、「なるほど」と納得したかもしれないが、牽強付会で納得しがたい。だいいちイザナミが十月に死んだとは、いったいどこに証拠があるのか。死んだ月即ち祥月命日に墓参するとは、仏教の行事ではないか。神話時代にまだ仏教は伝来していない。

 出雲における民俗学の第一人者、故石塚尊俊氏は、この難問を次のようにまとめている。「この月(十月)がもともと神嘗(かんなめ)の月であり、それが転じて神無月となった故に、しからばその間、神はどこへとなるところから、世上著名な出雲へ、あるいは伊勢へとなったものか、あるいは近時民俗学が説いているように、古来の稲作社会における田の神去来の信仰がもとになり、それが神々一般の上にまで拡大されてなったものかのいずれかということになる」(『出雲信仰』)。

 だが、果たして出雲は世上著名なのか、また、田の神の去来は山から来るが、実際の神迎えは海の彼方から来る神々を迎えるのである。まだまだ問題解決の道のりは遠そうだ。そこへ現れ出てきたのが龍蛇信仰である。これこそは問題解決の糸口になるかもしれない。

 次回は龍蛇信仰についてお話ししたい。

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