• ~旅と日々の出会い~
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12.龍蛇(りゅうじゃ)漂着

藤岡大拙

 出雲に何故神々が集うのか。しかも、何故十月にだけ集うのか。この難問にヒントを与えてくれるのは、龍蛇さんの漂着ではなかろうか。

 神々が出雲に集うという旧暦十月の半ばごろ、出雲地方では冷たい北西からの季節風が吹き始める。遠く大陸から日本海を渡って吹き来る風だ。出雲平野に築地(ついじ)(まつ)散居村が出現するのもこの風を防ぐための人々の知恵であった。

 斐伊川(ひいかわ)(かん)戸川(どがわ)の沖積によって造成された低湿地帯、それが出雲平野なのだが、南北の山裾から人々が進出して耕地を作り、本格的に集落を形成するのは、平安末から中世初頭のころだろう。屋敷地の周囲に築地(土居)をめぐらせ、樹木を植えて築地を固め、水の被害を防ぎ、同時に防風の役割も(にな)わせる。これが築地松散居村の始まりである。時代が下るに従い、河川の改修が進み、水の脅威が減少していくと、南と東の築地はとり払われ、採光がよくなっていくが、同時に西と北は一双の屏風のごとく整然と植栽し、防風機能を高めるようにしていった。この部分の植栽に黒松を植えるようになるが、それは明治に入ってから本格的になる。

 筆者は出雲平野の東部に住んでいるが、今から凡そ八十年前の小学生の頃、黒いマントにフードをかぶり、季節風を前傾姿勢で突破して、一・五キロの道を通学したものである。家々の築地松はゴウゴウと唸り、(から)になったハデバ(稻架、稲ハデ)の竹が、ヒューヒューと悲しそうな音を奏でていた。

 話はそれるが、戦前の田舎の子供たちは、小学校へ通学するとき、全員男子は黒いマント、女子は海老茶のマントを着ていた。靴は手に入らなかったので、藁草履か裸足だった。だから、殆どの小学校の昇降口には、足洗い場が設けてあった。子どもたちは、家に帰ってコタツに当たれば、築地松の風の音は、心を和ますこよなき音楽だったが、他所から来た人には、寂しくてやかましく、とても安らぐような雰囲気ではなかったと思う。ところが、今はそんな風はほとんど吹かなくなった。同時に松くい虫が発生して、殆どの松が枯れてしまった。美しい築地松散居村の風情も、昔物語となってしまった。これも、地球温暖化のなせる(わざ)だろうか。閑話休題

 さて、日本の南方から北上する暖流(黒潮)は、本州の南岸、太平洋側を東に流れるが、一部の暖流は對馬海峡を北上して日本海にはいり、そのまた一部は、山陰から北陸の沿岸をたどって北東に流れる。この対馬暖流に、北から南下するリマン寒流が並流して、共に北東へ流れる。この対馬暖流に乗って、琉球諸島に生息しているセグロウミヘビがやってくる。旧暦十月に入って、季節風が吹き始めると、日本海は怒涛さかまく荒海に変身する。並流していた対馬暖流とリマン寒流は、その境目(さいめ)()ざり合う。暖流に乗ってきたウミヘビは、寒流に巻き込まれて、仮死状態または死体となって海岸に流れ着く。その漂着する海岸が、なんと不思議なことに、島根半島の岸辺に限られているのである。石見や伯耆の海岸に漂着する例は、何故だか少ないのである。つまり、島根半島のあの屈曲した海岸にだけ漂着するのである。風や海流の微妙な作用であろうが、出雲ならではの霊妙不可思議な現象でもあろう。

 そもそもセグロウミヘビは、スマホでも写真を見ることができるが、体長八〇センチ程度、背は黒く腹は黄金色で、強烈な毒を持つ。()まれると、死に至ることもあるという厄介者である。島根半島の古代の浦人たちも、この毒蛇の処置に困ったに違いない。恐らく、穴に埋めるか、焼却していたのではあるまいか。

 古代人の神観念では、定着して動かない神と移動する神がいたと思われる。例えば、中国地方のサンバイさんのように、山から里に降りてくる農耕神もいたが、多くは沖縄のニライカナイの神々のように、海の彼方から去来する神であった。

 神々は海の彼方から来るという神観念と、毎年同じように漂着するウミヘビの光景を共有している浦人たちは、ウミヘビは去来する神々の先導的役割を演じて居るのではないか、と思うようになったのではないか。

 かくしてウミヘビは、除去されるべきもの、厄介者から、次第に神々の使いとして神聖なもの、(あが)めるべきものへと変化し、呼称も「ウミヘビ」から「龍蛇さん」へとかわっていったのではなかろうか。

 現在、出雲大社では、旧暦十月十日の夜、稲佐の浜で神迎えの儀式が行われる。大社湾の彼方日本海から八百万の神々を迎え、三方(さんぼう)に載せた龍蛇を先頭に、神々の憑代(よりしろ)である(さかき)がそれに続き、しずしずと行列は出雲大社に向かう。

 翌十一日から神々の会議、神議(かむはかり)が行われる。出雲の人々は邪魔してはならぬ。ハレの行事は慎み、高歌放吟もご法度。一週間ほどの会議が終わると、休憩をとり、十月二十日より(あい)鹿()郡の()()神社(松江市)で再び神議が始まる。二十五日に終了すると、その夜遅く(まん)九千(くせん)神社(出雲市)に移動、翌二十六日はカラサデの祭りが行われ、二十七日の早暁、いよいよ神々はそれぞれの故郷へ帰って行かれる。神々が滞在される期間を、出雲では「お忌みさん」という。(ただし、現在は旧暦で行う神社と新暦で行う神社とあるので、日程的に整合しない)

 ラフカディオ・ハーンは「出雲はわけても神々の国」(『知られぬ日本の面影』)と記しているが、まさにその通り、出雲は霊的な「何か」をもつ不思議な国である。その「何か」とはなにか、それを追及するのが本稿の最終目標である。

 季節風が吹かなくなった現在、龍蛇さんも漂着しなくなったといわれる。現代の物質文明は、伝統文化を次々と実行不能に追いやっているようにみえる。

加賀の潜戸(くけど)

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