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17.出雲は神々の流刑地

藤岡大拙

 昭和四十五年、雑誌「すばる」の創刊号に掲載された梅原猛氏の論文『神々の流竄(るざん)』は、古代出雲繁栄説にとどめのパンチをあびせるものだった。梅原氏の()(わく)的な文章は言う。

「出雲の国はいくつかの幻想にみちている。美しい雲、すばらしい入日、そして数々の神秘。そうした幻影の中に、古事記、日本書紀の神話の実在性が信じられる。しかし、すべてそれが、八世紀の大和朝廷の指導者がしくんだ壮大な芝居であるとしたら、どうなるであろうか」

 そして梅原氏は、考古学者小林幸雄氏の説を援用しながら、出雲には北九州や大和のように、巨大な文化の痕跡をしめす遺跡は見られず、考古学的には因幡や石見や但馬などとなんの変わるところもないという。こうして、出雲人が思い続けてきた「古代出雲の繁栄」は一片の反故(ほご)となってしまったのである。

 しかし、一つの疑問が残る。たとえ記紀神話が虚構だとしても、なぜ、その多くの神話が出雲を舞台として語られているのか。梅原氏は言う。

「たしかに、伊勢に新しい神の根拠地が出来た。しかし、古い神々はまだ大和地方に蠢動(しゅんどう)していた。その神々が、大和の豪族どもと結びつき、いつ何時騒乱を起すかもしれなかった。こういう神々を山陰の地に流す必要がある。私は、そういう神流しの場所として、出雲国杵築(きづき)の土地が選ばれたのではないかと思う」

「何故、出雲の土地が神流しの地にえらばれたか。(中略)新しい神の根拠地は、伊勢である。それは東の地である。日の出の美しいところである。この東の方、伊勢に対し、神々の流竄の場所であるべきところは、正に西の方でなくてはならなかった。それは入り日の美しいところでなくてはならぬ」

 こうして、記紀の神話作成にあたって、入り日が美しいゆえに、日の出の伊勢に対置するかたちで、出雲は神々の流竄の地となったというのである。

  大和朝廷、特に天武朝の宗教政策に従わなかった大和の豪族たちが(いつ)く古い神々を、大和朝廷が作った新たなドラマ(記紀神話)に出演させることにした。再び梅原氏の言い分を聞こう。

「そのドラマには、古い神々の住んでいる場所は、始めから出雲であったというように書かれねばならぬ。そしてそういうドラマによって、古い神々を、永久に山陰の地に、出雲の地に、日本の片田舎に止めておかねばならない。古い神々が新しい日本国家の建設をさまたげては困るのである」

 氏によれば、この古い神々こそ、スサノオノ命やオオクニヌシノ命など、出雲神話に現れる神々なのである。その神々は出雲の神ではない。大和の神々である。だから、従来出雲神話と言われる神話があるからと言って、古代出雲が繁栄していたという証拠にはならないのである。

 その出雲に、衝撃が走ったのは昭和五十九年のことであった。しかも、二度までも。

 この年の正月、岡田山一号墳(松江市大草町。前方後方墳)出土の鉄製大刀から、X線写真により象眼の文字が浮かび上がったのである。そのなかに、「(ぬか)()(べの)(おみ)」と判読できる文字があった。六世紀半ばに作られた大刀の銘文は、部民制、氏姓制の実在を証する最古の史料として全国紙の一面を飾った。

 夏になると、出雲市斐川町神庭(かんば)西谷(さいだに)の奥部、荒神谷の丘陵から、三五八本という驚異的な数の中細型銅剣が発見された。研究者のなかには出雲銅剣と呼ぶ人もいる。今までに発見された銅剣の総数は約三百本と言われているから、荒神谷の銅剣がいかに大量か容易に想像できよう。

 ついで翌六十年の夏、銅剣出土地点の向かって右七㍍の所から、今度は銅矛一六本、銅鐸六個が発見された。銅矛も一か所の出土数としては日本一である。遺跡は荒神谷遺跡と名づけられ、弥生中期、一世紀前後の稀有な遺跡として、国指定史跡に認定された。出土した青銅器三八〇個は一括国宝に指定された。

 青銅器の多さに、研究者も一般市民も絶句した。誰が、何のために埋めたのか、(なかご)のX印は何を意味するか、等々の謎は今も十分解明されていない。しかし、一、二世紀ごろ、大量の青銅器を保管する強力な王権が荒神谷のあたりに存在した可能性は高くなった。

 もう一つの注目点は、北九州を中心に銅剣・銅矛文化圏、大和を中心に銅鐸文化圏を想定し、出雲は両文化圏の端っこに位置づけられていたが、あたかもそのことを裏づけるように、出雲からは銅剣も銅鐸も全くと言ってよいほど出土しなかった。まさに両文化圏のはざま地帯であった。それが、一朝にして青銅器文化の中心地に躍り出たのである。

 荒神谷遺跡の発見から十三年後の平成八年の秋、荒神谷の南東三・三㌔の地点、雲南市加茂町岩倉の道路工事現場から、銅鐸三九個が入れ子状で発見された。もとより数において、滋賀県野洲(やす)市の二四個を抜き去って、最多出土地となった。

 荒神谷遺跡の発見以後、山陰地方ではたてつづけに大規模な弥生遺跡が発見された。東の方から上げれば、まず青谷(あおや)上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市青谷町)がある。たくさんの人骨が埋納されているが、骨に損傷があり、戦死者の集団埋葬地ではないかと言われ、『魏志倭人伝』の伝える「倭国大乱」に関係ありそうだ。三体の人骨の頭蓋には、脳味噌が残っていたというので話題になった。

 次に妻木(むき)(ばん)()遺跡(米子市淀江町・西伯郡大山町)は、大規模なリゾート開発の事前調査で発見された弥生の集落遺跡で、その規模は全国最大級。多数の四隅突出型墳丘墓も見つかった。

 松江の田和山(たわやま)遺跡は、市立病院の移転候補地として、事前調査が行われた際、極めて珍しい弥生期の三重の環濠が発見され、城砦のような軍事施設ではないかと注目された。ここも倭国大乱に関係あるかもしれない。

 出雲市大津町の西谷(にしたに)墳丘墓群には、第三号墓のように最大級の四隅突出型墓があり、ひょっとして、荒神谷王権の誰かが埋葬されているのでは、などと言われている。

 このように、荒神谷遺跡の発見以後、わずか二十年たらずの間に、弥生時代の山陰は日本列島の中でも最先進地域とみなされるようになった。驚くべき変わり方である。何が発展の原因だったろうか。恐らく朝鮮半島から直接渡来した先進文化、特に金属文化によるものだろう。

 弥生文化の発達した山陰地方の中でも、出雲がその中心であったことは、遺跡・遺物の出土状態からみて明白である。出雲国風土記の冒頭を飾るあの躍動感あふれる国引きの神話は、記紀の神話と違って、古代出雲人が伝える作為のない神話だとも言われているが、弥生時代の力強い繁栄ぶりをその中に読み取ることが出来るのではないか。

 かくして、出雲の繁栄に否定的であった研究者たちは、困ったことになった。とりわけ、出雲は神々の流刑地だと言い切った梅原猛氏、どうする。

荒神谷遺跡・銅剣358本

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