• ~旅と日々の出会い~
SNSでシェアする

18.『神々の流竄』から『葬られた王朝』へ

藤岡大拙

 荒神谷遺跡の発見は衝撃的なものだった。とりわけ梅原氏にとってはノックアウトパンチだったに違いない。大和の古い豪族たちが斎きまつる神々が、天武天皇の新政の邪魔をすると思った藤原不比等(鎌足の子)一派が、記紀の編纂過程で、古い大和の神々を出雲に流したという梅原氏の奇想天外な推論は、荒神谷遺跡の発見によって、根底から覆された。梅原氏もそのことを認めている。「そもそも出雲神話にふさわしい遺跡がないという通説は、昭和五十九年(一九八四)の荒神谷遺跡の発見によって吹き飛んでしまっていた」(『葬られた王朝』)

 荒神谷遺跡の発見以後、山陰地方ではたて続けに大規模な弥生遺跡が発見された。平成八年の秋、荒神谷の南東三・三キロの地点、雲南市加茂岩倉の道路工事現場から、銅鐸三九個が入れ子状で発見された。もちろん数において、滋賀県野洲町の二四個を抜き去って、最多出土地となった。別添の地図をご覧いただきたい。

 東の方に眼を転ずれば、青谷上寺地遺跡(鳥取市青谷町)がある。たくさんの人骨が埋納されていたが、骨に損傷があり、戦死者の集団埋葬地ではないかといわれ、『魏志倭人伝』の語る「倭国大乱」に関係ありそうだ。

 次に妻木晩田遺跡(米子市淀江町・西伯郡大山町)は大規模なリゾート開発の事前調査で発見された弥生の集落遺跡で、その規模は全国最大級。多数の四隅突出型墳丘墓も見つかった。

 田和山遺跡(松江市乃白町)は、市立病院の移転候補地として事前調査が行われた際、極めて珍しい弥生期の三重の環濠が発見され、城砦のような軍事施設ではないかと注目された。ここもまた、「倭国大乱」に関係があるかもしれない。  

 西谷墳丘墓群(出雲市大津町)には、第三号墓のように最大級の四隅突出型墳丘墓があり、もしかして、荒神谷王権の誰かが埋葬されているのではないかと言われている。

 このように、荒神谷遺跡の発見以後、わずか二十年たらずの間に、弥生時代の山陰は日本列島の中でも最先進地域と見なされるようになった。驚くべき変わりようである。何が発展の原因だったろうか。それは恐らく、朝鮮半島から直接渡来した先進文化、とりわけ金属文化によるものであろう。

 弥生文化の発達した山陰地方のなかでも、出雲がその中心であったことは、遺跡・遺物の出土状況からみて明白である。出雲国風土記の冒頭を飾る、あの躍動感あふれる国引きの神話は、記紀の神話と違って古代出雲人が伝える作為のない神話だと言われているが、確かに、弥生時代の出雲の力強い繁栄ぶりを、その中に読み取ることが出来ると私は思っている。梅原氏も言う。「これらのことを考慮すれば(荒神谷遺跡の発見後、ぞくぞくと弥生の遺跡が発見されたこと)、出雲には壮大な神話にふさわしい考古学的遺跡はないという通説は木っ端微塵に粉砕される」(『葬られた王朝』)。

 そのような認識のもと、梅原氏は前著『神々の流竄』の根幹部分を全否定するのである。

「約四十年前、『神々の流竄』を書いたとき、私は何度も『古事記』『日本書紀』を読んだはずなのに、オオクニヌシという存在が十分理解できなかった。そして、出雲神話はヤマトで起こった物語を出雲に仮託したものであるという説を出した。しかし、これはまったく誤った説であり、このような誤った説の書かれた書物を書いたことを大変恥ずかしく思うとともに、オオクニヌシノミコトにまったく申し訳ないことをしたと思っている」(『葬られた王朝』)

 その結果、再度アタックして書き上げられたのが『葬られた王朝』(平成二十二年、新潮社刊)である。齢八十四歳を超えて、前著の誤りを直して訂正版を出版することは、並大抵のことではない。心身ともに大きな苦痛をともなうものだろう。梅原氏はそれをやり抜き、『神々の流竄』を訂正し『葬られた王朝』を出版したのである。私はその真摯な態度に深甚の敬意を表したい。梅原氏の言葉を聞こう。

「我々は学問的良心を持つ限りは、出雲神話は全くの架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならないことになる。旧説に対する厳しい批判が必要であるが、それは私にとっても大変辛いことである。しかし学者というものは、自分の旧説が間違っていたとすれば、自説といえども厳しく批判しなければなるまい」

 梅原氏の態度は、学者として誠に立派である。しかし、書き改めた本の内容の評価は、別の問題である。実のところ、書き改めた『葬られた王朝』は、あまり話題にならなかった。その理由はいろいろあるだろうが、私の考えでは、前著でないがしろにされていた出雲系の神々が、今度は逆に舞台に躍り出過ぎたからではあるまいか。特にオオクニヌシなどは、擬人化されて現実の政治勢力(出雲王朝)の首長のような扱いをうけている点など、凡百の古代史の読み物と同列に受けとめられたためだろう。

 私も前著『神々の流竄』がよかったと思う。それは伊勢と出雲の二極構図を設定し、大和朝廷はその二極のバランスオブパワーの上にあって、安定した政治力を発揮できたのではないかという考え方に賛成したい。宗教王国出雲がなけねば、大和朝廷は存在しなかったかもしれない。

→「文芸のあやとり」に戻る

→「自然と文化」に戻る