• ~旅と日々の出会い~
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19.出雲の霊威力は平安中期で終わったか

藤岡大拙

 初めにお詫びしたいことがあります。

 筆者は前回(一八回)において、梅原氏が八十歳を超えてから自説を改め、『葬られた王朝』を発表されたことに、深く敬意を表しました。だが、内容的には、前著『神々の流竄』のほうがよかったとし、「伊勢と出雲の二極構図を設定し、大和朝廷はその二極のバランス・オブ・パワーの上にあって、安定した政治力を発揮できたのではないかという考え方に賛成したい」と書きました。実は梅原氏はそこまで論じてはいません。彼の論述のポイントは、何故、出雲が伊勢の対極になったかという点を、出雲側から説明しようとしたことにとどまりました。したがって、伊勢と出雲の霊威性が、互いに作用しあって、大和政権を支える役割を演ずる、などということは論じられていません。

 以上のことをお断りし、訂正させていただきます。さて、本題に入ります。

 昭和四十五年に発表された『神々の流竄』は、荒っぽい推論ながら、伊勢神宮と杵築大社を対極ととらえる視点は斬新で魅力的であった。あれから四十年、平成二十一年に発刊された民俗学者新谷尚紀氏の『伊勢神宮と出雲大社』も伊勢と出雲を対極としてとらえている。新谷氏が梅原氏の影響を受けているかどうかは知らないが、氏の所論によれば、伊勢神宮と杵築大社(出雲大社)は対をなし、大和政権を支えている。新谷氏は言う。

「記紀になぜ出雲神話が存在するのかという問題も含めて、出雲大社の祭祀と対をなすものととらえるとき、はじめて大和王権の祭祀世界が見えてくるのである。そのとき<外部>としての出雲、という概念設定が有効になる」として、八項目を指摘している。一部を紹介してみよう。

 第一に、「大和から見て東方に昇る太陽、海上から昇る清新な太陽を拝することができる地、伊勢に自らの皇祖神天照大神を祭った天武と持統の大和王権が、その対比として強く意識し、記紀の神統譜の中に特別な位置を占めるかたちで設定したのが、西方の海上に赤く輝く美しい太陽が沈み行く、天日(あめのひ)隅宮(すみのみや)とも呼ばれた大己(おおあな)(むちの)(かみ)を祭る杵築大社を中心とする出雲の神々の世界であった」

 もう一項目紹介しておこう。

 第二に、「天武・持統が必要としたのは、朝鮮半島と大陸に面するという緊張世界、辺境世界にあって、毎年、西方からの荒れる海流に乗って寄り来る霊妙な龍蛇を迎えて祭る龍蛇神祭祀という自然信仰的で呪的な霊威力更新の術を保持していた出雲の地方王権の祭祀王としての属性であり、それを大和王権の神話世界へと取り込むことであった」

 皇室の祖神天照大神を祭る伊勢神宮が<内部>に、出雲大社(杵築大社)は<外部>にそれぞれ位置づけられる。この内部と外部が互いに補完しあって、天武・持統の大和王権を支えているという論理である。出雲大社および出雲王権は、大和王権に征服されながらもなお、強い存在感を保持することになった。しかし、新谷氏によれば、出雲のこのような立場も、九世紀の藤原良房による幼帝清和天皇の擁立によって、霊威力によって支える<外部>としての出雲に変わって、摂政関白がその機能を担うことになり、出雲の<外部>としての役割は終わったとされる。その後、出雲の役割が完全に消滅したわけではないにせよ、出雲の存在感は大きく衰退したというわけである。果たしてそうだろうか。

 話は約五百年ほどくだって、鎌倉末期の頃のこと。

 元弘の変で捕らえられた後醍醐天皇は、元弘二年(一三三二)隠岐配流となったが、強靭な意志と強運のお蔭で、在島わずか一年で脱出に成功し、伯耆の名和長年に擁せられて、船上山(せんじょうさん)に立てこもった。出雲守護塩冶髙貞も、一族の布志名(ふじな)義綱ら千余騎を引き連れてはせ参じ、天皇の勝利に貢献した。

 前途に光明を見出だした天皇は、元弘三年三月十四日、船上山の(あん)在所(ざいしょ)から、出雲大社に「王道再興綸旨」を発し、王道再興(天皇親政の復活)のためには、なによりも出雲大社の加護が必要であると説いた。

 その三日後、宸筆による宝剣代綸旨を発し、出雲大社に宝剣があれば、献上するようにと要請した。つまり、自分が都へ帰還して、皇位に服した時、三種の神器の宝剣が必要だが、現実的には持明院統(北朝系)の光厳天皇が所持している。代わりの剣が欲しい。そこで出雲大社に三種の神器の剣の代わりの剣を求めたのである。

 何故、後醍醐天皇(この段階では天皇ではない。太平記は正しく先帝と表現している)は王道再興を出雲大社だけに祈願し、何故、宝剣を出雲大社だけに求めたのか。非常に重要な問題であるが、そのことを考究する前に、少々横道にそれることをお許しいただき、天皇の隠岐における行在所について、簡単に触れておきたいと思う。

 後醍醐天皇の行在所については、隠岐島誌(昭和八年刊)に「島前(どうぜん)はもとより、島後(どうご)の人民皆別府説を確信して、島後の国分寺説を信ずるものなし」とのべているごとく、明治前半までは、別府の黒木御所説を疑う者はいなかったのである。

 明治三十年代に入って、歴史学者吉田東伍や喜田貞吉が国分寺説を主張したが、発表が「歴史地理」という学術雑誌だったため、大きな話題にならなかった。たまたま、島根県史編纂係の野津左馬之助が、明治三十八年ごろ、鰐淵寺文書を調査することがあったが、そのとき、一通の文書に巡り合った。それは、頼源僧都が貞治五年(一三六六)三月二十一日、弟子の浄達上人に与えた送進文書目録(譲状)であった。この文書は頼源自筆の文書として、後に重要文化財に指定されている。文書の冒頭に後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を載せているが、その割注に、「元弘二年八月十九日、於隠岐国国分寺御所、被下之」とあった。野津は恐らく驚きの声を上げただろう。彼はこれを以て国分寺説の決定的証拠とし、明治四十年刊行の『島根県史要』のなかの「別府黒木御所の遺址」において、頼源文書を援用し、国分寺説の正当なることを主張した。

 これに対し、杵築中学の教師後藤蔵四郎は、黒木御所説を擁護して反論したが、野津は昭和二年刊行の島根県史第六巻において、「隠岐行宮(あんぐう)」の項をもうけ、古文書・史籍古記・考古学的研究などを援用し、「後醍醐帝の隠岐御在島一ケ年の行在所は、島後池田の国分寺なること明確なりとす。島前各地に行在所址を伝ふれども確実なる史料を存せず」として、国分寺説を断定したのである。この論文が島根県史に掲載されたことは、国分寺説が公的に認められたことを意味する。かくして、国分寺行在所は昭和九年国指定の史跡となり、行在所問題は一応落着した。

 ところが昭和四十四年発表された郷土史家藤田一枝の論文「後醍醐天皇の行在所に就いて」(『行啓記念黒木御所論文集所収』)は、今までの論点に見られなかった新しい視点を提示した。その内容は多岐にわたるが、一点だけにしぼって紹介してみたい。

 野津の発見以来、金科玉条とされてきた頼源文書には、冒頭の部分に貼紙があることを、野津はことさら無視している。その貼紙には、「鰐淵寺々務井福院衛門督律師執行自筆、法橋筑兼ハ律師御房祗候」とあり、頼源文書は井福院衛門督律師が書いたもので、筑兼なるものが側に祗候していた、と解釈できる。従って、この文書は頼源のいない場所で、衛門督律師と法橋筑兼が作成し、のち頼源の署名を求めたものではあるまいか。衛門督律師は増鏡の記事を念頭において、勝手に国分寺と記入してしまったのではないか。藤田の論文は、貼紙は誰がしたか、内容は信憑性があるのか等々、詰めなければならない課題が多いが、いっぽう、頼源文書をもう一度見直し、再吟味する必要性を提起している点で重要である。だが、その後ほとんど受け継がれていないように思われる。

夕陽にそまる稲佐の浜

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