藤岡大拙
島根つれづれ草 (3)
第三の謎は、画僧雪舟等楊は何処で亡くなったかという問題である。
益田市は中世土豪益田氏の居城のあったところとして知られているが、地元の郷土史家矢富熊一郎氏によれば、雪舟は益田を二度も訪れているという。しかも、二度目の来訪のときは、この地で終焉を迎えたというのである。その根拠として、次のようなことが挙げられている。
以上のことから、少なくとも文明十一年前後、雪舟が石見益田に滞在していたことは確かであろう。
問題は、二度目の来訪と、この地で終焉を迎えたという伝承である。これについて矢富氏は大略次のように言っている。
以上のことから、矢富氏は次のように結論した。
「雪舟の終焉地が、東光寺であることの確証には、熊谷宣夫氏説の如く、やや薄弱な点が存在しないでもないが、現に古来からの伝説が、懐州の手によって記されて居り、又墓地が存在する以上此の地を全然彼の終焉地として、否定する何物も無いであろう。先ず従前通り、此の地を彼の終焉の地と信じて、何等差支えは無いであろう。」(『益田町史 上巻』昭和二十七年刊)
しかし、学界は益田説に消極的である。こころみに、手元にある二つの資料を上げてみよう。
『国史大辞典』(昭和六十二年刊)には、「永正三年(一五〇六)に雲谷軒で没したと推定される」。『別冊太陽 雪舟』(令和二年刊)には、「没地については周防の雲谷庵、石見国益田(特に東光寺にて)、『也足外集』によって雪舟との関わりが想定される千畝周竹が開創した備中国井原の重玄寺があげられる」(八田真理子氏)とある。
益田説を主張するためには、もう少し証拠資料を集める必要があろう。