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3.雪舟

藤岡大拙

島根つれづれ草 (3)

 第三の謎は、画僧雪舟等楊は何処で亡くなったかという問題である。

 益田市は中世土豪益田氏の居城のあったところとして知られているが、地元の郷土史家矢富熊一郎氏によれば、雪舟は益田を二度も訪れているという。しかも、二度目の来訪のときは、この地で終焉を迎えたというのである。その根拠として、次のようなことが挙げられている。

  1. 雪舟が描いた益田城主益田兼堯(かねたか)寿像(国重文)の賛文によると、賛を書いたのは、文明十一年(一四七九)十一月、益田東光寺の住持(ちく)(しん)(しゅう)(てい)であった。とすれば、雪舟は文明十一年の少し前、益田に来て、東光寺あたりに滞在し、兼堯の像を描いたものと思われる。なお、臨済宗東福寺派の東光寺はその後退転し、元禄三年(一六九〇)その跡に曹洞宗の大喜庵が建てられて今日に至っている。
  2. 石見には、雪舟の作庭と伝える庭が多い。小川家(江津市)、大麻山神社(浜田市)、万福寺(益田市)、医光寺(益田市)の庭がそれである。このうち益田の万福寺、医光寺の庭については、まず間違いないというのが、庭園史家の通説である。

 以上のことから、少なくとも文明十一年前後、雪舟が石見益田に滞在していたことは確かであろう。

 問題は、二度目の来訪と、この地で終焉を迎えたという伝承である。これについて矢富氏は大略次のように言っている。

  1. 雪舟没後二百年を経た宝永二年(一七〇五)懐州(かいしゅう()(ぎゅうの著した『石州大喜庵記』によれば、雪舟は東光寺において八十七歳で示寂したという。一等史料とは言い難いが、筆者懐州が伝承にもとづいて記述したものであるから、まんざら作り話ではあるまい。なお、大喜庵には雪舟のものと伝える墓も存在する。
  2. 医光寺の傍らには荼毘(だび)に付した灰塚なるものが遺っている。なお、雪舟が来訪したころは医光寺はなく、その地に東福寺派の(すう)観寺(かんじ)があった。益田氏の氏寺として崇敬されていたが、後退転した。天文年間(一五三二~五五)同寺の後継としてその傍らに医光寺が建立されたのである

 以上のことから、矢富氏は次のように結論した。

 「雪舟の終焉地が、東光寺であることの確証には、熊谷宣夫氏説の如く、やや薄弱な点が存在しないでもないが、現に古来からの伝説が、懐州の手によって記されて居り、又墓地が存在する以上此の地を全然彼の終焉地として、否定する何物も無いであろう。先ず従前通り、此の地を彼の終焉の地と信じて、何等差支えは無いであろう。」(『益田町史 上巻』昭和二十七年刊)

 しかし、学界は益田説に消極的である。こころみに、手元にある二つの資料を上げてみよう。

 『国史大辞典』(昭和六十二年刊)には、「永正三年(一五〇六)に雲谷軒で没したと推定される」。『別冊太陽 雪舟』(令和二年刊)には、「没地については周防の雲谷庵、石見国益田(特に東光寺にて)、『()足外集(そくげしゅう)』によって雪舟との関わりが想定される(せん)()(しゅう)(ちく)が開創した備中国井原の重玄寺(ちょうげんじ)があげられる」(八田真理子氏)とある。

 益田説を主張するためには、もう少し証拠資料を集める必要があろう。

小川家 雪舟庭園

 

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