藤岡大拙
斉明天皇五年(六五九)の杵築大社修造にあたって、数々の不吉な事件が起こり、これらはいずれも天皇崩御の前兆とされた。おそらく、杵築大神(出雲大神)の祟りと見なされたに違いない。何故なら、国譲りの約束を天つ神たち(大和朝廷)が守らなかったからである。国譲りの約束とはなんだろう。記紀神話によれば、「底つ岩根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治めたまはば、僕は百足らず八十坰手に隠りて侍らむ。」(地底の岩盤に宮柱を太く立て、大空に千木を高々とそびえさせた神殿をお造りくださるならば、私は遠い遠い幽界に引退いたしましょう)ということであった。つまり、国を献上する代償として、天つ神の子孫らの住まう壮大な宮殿と同じような規模の神殿を建ててくれというのである。高天原ではこれを了承し、建設を約束したが、壮大な建築は建てられなかった。ただし、実際の約束はそのようなものではなく、出雲勢力に一定領域の支配権を保証することではなかったろうか。というのは、出雲国風土記意宇郡母理郷の条に、次のような地名神話が載っているからである。
越の八口を平定して帰還したオオクニヌシの命が、長江山(安来市伯太町)まで戻ってきたとき言われた。「私が平定した国々は、平和に治めてもらうことを条件に、天つ神の子孫に譲ってもよいが、出雲は私の鎮まる国だから、青山を垣根のようにめぐらせて、玉の如く愛し守っていくのだ」と。つまり、平定した外部の国々は譲ってもいいが、出雲だけは確保するというものである。まさにこれが国譲りの条件であり、約束であった。大和朝廷はこの約束をいったん了承しながら、最終的には全土を没収した、つまり約束不履行をしたのである。出雲の神も王も人民も、深くそのことを怨み、その怨念は時代と共に深まっていった。その約束不履行の内容が、いつしか出雲国風土記から古事記に変容したのではないか。
だが、その後しばらくの間、祟り神はなりをひそめていたようだ。というのは、奈良時代には、杵築大神の祟りの話も、杵築大社の巨大化の話も、文献に出てこないからである。もちろん、杵築大神に代表される出雲勢力は、巨大化の要求を続けたであろうが、大和朝廷はそれを無視または拒絶したのである。有名な小野老の歌のごとく、「咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」の奈良政府は、出雲側の要求を突っぱねる力を、十分に具備していたのである。
それならば、次の平安時代はどうだったのか。
日本の歴史のなかで、平安時代ほど地方の歴史がわかりにくい時代はないだろう。中央の京都はそれでも、政府関係文書、皇族・公家や大社寺の古文書・日記等がかなり遺っているが、地方に至っては、資料の残存はほとんど皆無に等しい。わが出雲でも、杵築大社や鰐淵寺等に平安末期の古文書が若干遺っている程度である。あとは中央貴族の日記に、断片的記事が散見されるくらい。したがって、出雲の歴史を通読するとき、平安時代は空白に近いと言っても過言ではなかろう。
ところが皮肉なことに、この平安時代、出雲では興味深い事件が、次々と生起しているのである。しかもそれは、すべて杵築大社に関連する不思議な出来事である。ひょっとして、杵築大神の祟りと関係しているかもしれない。
それでは、その不思議な事件を一つ一つお話してみよう。
一、出雲国造が本拠地を大庭から杵築に移す。
出雲の国造(出雲国では「こくそう」と清音で言う)である出雲臣氏の本拠地は、もともと意宇郡大草郷(現在の松江市大庭町・大草町のあたり)であった。出雲臣は代々出雲国造となり、意宇郡の大領(郡司の筆頭)に任ぜられるとともに、熊野大社・杵築大社の宮司を兼任し、強勢を誇っていた。彼らがどれほど強勢だったか。和銅六年(七一三)奈良政府によって風土記撰進令が出され、これを受けて全国では風土記の作成作業に入り、やがて政府に提出した。その時の提出者は本来国守であったが、独り出雲だけは、意宇郡の大領出雲臣廣嶋の名で提出されている。これをもっても出雲臣の勢威を知るべきである。
ところが、延暦十七年(七九八)、平安政府は出雲臣の意宇郡大領と国造の兼任を禁止したのである。兼任の特権が認められていたのは、出雲国造と宗像国造だけであったが、両者とも禁止された。かくて出雲臣は、郡司職(意宇郡大領)を選ぶか、国造として熊野・杵築両大社の宮司職を選ぶか、二者択一を迫られたのである。苦しい判断の末、出雲臣は国造職を選んだのであった。そして、やがて大庭の地を捨てて、出雲郡杵築郷に移ったのである。そこには杵築大社が鎮まっている。
杵築郷は出雲郡の西北隅にあり、海には近いものの、山と沼沢に囲まれた、生産性の低い葦原だった。出雲臣の故地大庭は、生産性の高い意宇平野の一角にあり、古代文化が栄えていた。そんな場所を捨てて何故未開の地に移ったのか。しかも、熊野大社からも遠い場所へ。あくまでも想像だが、その理由を考えてみたい。
まず考えられることは、国衙勢力との対立である。中央政府から派遣された国守を始めとする国衙役人と、生え抜きの土着豪族である出雲臣が、いつまでも蜜月状態でいるとは考え難い。いわんや、大草の官衙群には国庁と郡家が隣接していた。出雲臣は対立の煩わしさから距離をおいて、新しい土地で活躍したいと考えたのではないか。
その新しい土地とは、国譲り神話の故地でもある杵築大社の所在地、出雲郡杵築郷であった。出雲臣の斎まつる杵築大神は、壮大な神殿建設の約束を守らない大和朝廷に対し、祟り神となって追及する神である。出雲臣がその大神のもとに移遷するのはごく自然ではなかったか。しかも、杵築郷は神門水海の岸辺や斐伊川・神戸川(神門川)の氾濫原のような、未開の肥沃地が広がっており、生産性の向上が見込める、有望な土地柄であった。ただし、大庭の地を完全に捨てたわけではない。邸内社の伊弉冉社(神魂神社)や私領は残した。
以後、出雲臣は出雲西部の荒蕪地を開拓し、社領の増大に努めたが、反面、熊野大社の経営に手が回らなくなり、次第に衰微していった。そもそも、奈良時代から平安中期ごろまでは、熊野大神の方が大穴持命(杵築大神)より上位に格付けされていた。例えば『三代実録』貞観九年(八六七)四月八日の条に、「出雲国従二位勲七等熊野神、従二位勲八等杵築神、並びに正二位を授く」とあり、熊野神が一等上位だった。それが平安中期以降になると、逆転するのである。出雲国造西遷の影響が、熊野大社についてはモロにあらわれたと言えよう。
当然予想されるそのようなデメリットを承知のうえで、出雲臣は西遷を断行し、約束不履行の戦いを強化しようとしたのであろう。まことに、したたかな戦いであった。
これに対し、平安政府(大和朝廷)は意外な反撃に出るのである。以下は次回のお楽しみに。
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