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9.祭神の変更祭神の変更

藤岡大拙

 平安時代の不思議な出来事の第二は、出雲を代表する大社、熊野大社と杵築大社の祭神が変わるという事件である。

 出雲国風土記に載る神社は、官社(神祇官登録社)・国社(国庁登録社)合わせて三九九社である。古代には一社一神が原則だから、出雲国内には三九九柱の神が存在していたことになる。もっともこれ以外に、風土記に記載されない神社の存在も指摘されているから、神の数はもう少し多かったかもしれない。重要なことは、その神々はほとんどすべて土地の神(国つ神)であって、記紀神話にでてくる神(多くは(あま)つ神)は、スサノオ・イナタヒメ・オオクニヌシ・スセリヒメなど、十指に満たない数と思われる。

 大和朝廷は、支配地にはできるだけ天つ神を祭らせようと企図していたに違いない。日本書紀「葦原(あしはらの)中国(なかつくに)平定」一書第二によれば、国譲りの後、高天原(たかまがはら)の大神タカミムスビが、オオモノヌシ(オオクニヌシと同一神と見なされている)に次のように言っている。「そなたが、もし国つ神を妻にするならば、私はそなたがまだ心から私に心服していないと思う。そこで今、わが娘のミホツヒメをそなたに(めあわ)せて妻にしようと思う。どうか、八十万(やそよろず)の神々をひきつれて、永く皇孫(すめみま)のために守り仕えてくれ」と。

 征服地を安定的に支配するために、自分たちの神を相手に崇拝させることは、支配の常道である。大和朝廷は其の上に、国譲りの約束の不履行を責める祟り神、出雲大神を変える必要があった。

 被征服地の出雲側は、それに従わなければならなかった。だが、伝統的な神の信仰を、別の神に変更することは、非常に困難なことであった。特に、大和朝廷が重視した、熊野大社・杵築大社の祭神変更は、出雲側にとって至難の業だったに違いない。

 既述のごとく、奈良時代の出雲には、三九九社の神社が存在した。その数の多さは全国的にみてもトップ級である。ところが、その中で「大社」を称するものは、熊野大社・杵築大社のたった二社である。他国では大社の数はもっと多かったはずである。他国に風土記がほとんど残存しないので、正確なことは言えないが、二百年ほど後の延喜式神名帳(じんみょうちょう)を参考にすれば、大和国は神社数二八六社の内、大社は一二八社で四五%、山城国は一二二社のうち五三社で四三%、隠岐国は一六社のうち四社で二五%である。それに対し、出雲国は〇・五%に過ぎない。

 出雲はなぜ大社が少ないのか。理由はいろいろあるかもしれないが、少なくとも注目すべき理由は、この二大社の祭司権を独占している出雲臣氏が、出雲に於いてダントツの在地豪族だったからであろう。だが、強豪といえども、大和朝廷の軍門に降ったのは疑いない。そして、遅くとも平安のはじめ頃までに、二大社の祭神は変更されたのである。

 平安初期に成立したといわれる先代(せんだい)旧事本(くじほん)()によれば、熊野・杵築両大社の祭神はスサノオとされている。激しい抵抗が予想されたが、そのような事実は見出されないので、比較的スムーズに変更がなされたと思われる。おそらく、出雲臣の画策があったものと推察される。

 石塚尊俊氏によると、スサノオへの変更は、まず熊野大社で始まり、ついで杵築大社に及ぶとされる(『出雲信仰』)。熊野大社の祭神熊野大神は、紀伊の熊野信仰とは全く別で、出雲国の熊野地方(松江市八雲町)から意宇川流域(松江市大草町あたり)の人々が信仰する地方神、すなわち国つ神であった。しかし、出雲国風土記の「意宇(おうの)(こおり)出雲神戸(かんべ)」の条に、「伊弉奈枳(いざなき)麻奈(まな)()()(くま)()()()()()命」と記され、熊野大神が天つ神イザナキの最愛の子だったとされている。したがって、少なくとも出雲国風土記が成立した天平五年(七三三)ごろには、熊野大神は天つ神と認識されていたのである。いっぽう、スサノオも記紀神話ではイザナキの子であるから、熊野大神=スサノオという考えは成立しやすかった。この関係は比較的早い時期に生れ、出雲の人々にもスムーズに受容されたものと思われる。本地垂迹説と同じ論理である。今も熊野大社では、スサノオがご祭神として祭られている。

 杵築大社の祭神オオクニヌシは、国つ神の代表的存在として、古代出雲人の心に深く定着した神である。熊野大社の祭神が熊野大神であったのに対し、杵築大社の祭神は杵築大神、後には出雲大神と称せられ、出雲国風土記では所造(あめのした)天下(つくらしし)大神大穴持(おおなもち)(のみこと)というふうに、最高の崇敬をもって記してある。当初の杵築大神は勿論オオクニヌシであるが、その神を天つ神に変えよと要求されても、無理な話である。でもやらねばならぬ。ここでも、本地垂迹の論理が用いられた。

 まず、オオクニヌシに近い天つ神を探すこと。となるとスサノオをおいてほかにはあるまい。なぜなら、記紀神話では、オオクニヌシはスサノオの子(紀の本文)とか、六世の孫(記・紀の一書)とされ、また、嫡妻スセリヒメはスサノオの娘(記)とされ、最も太いパイプでつながっている神だからである。こうして、信仰上の大きな変動が、比較的スムーズなかたちでおこなわれたと思われる。

 しかし、祭神がスサノオに変わったとしても、スサノオは天つ神そのものではない。記紀神話のオロチ退治の前段のように、大和朝廷に反抗する一面を持っていた。一方、オオクニヌシは杵築大社から完全に姿を消したわけではなかった。表向きはスサノオが杵築大神(あるいは出雲大神)となったが、実際には二神併祭のかたちであり、オオクニヌシの神威は、隠然と存在していたのである。したがって、大和朝廷が期待した祟り神の更迭は成功せず、国譲りの約束の不履行を追及する出雲大神の祟りは、依然として存続したのである。

意宇(おう)の杜

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