• ~旅と日々の出会い~
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6. 出雲弁の出会い

― 旅は情と言葉との出会い ―

湯治場でのこと

旅の魅力のひとつは、その地の情と言葉がつくる物語にあります。

津軽・黒石から十和田湖に向かう途中にある温湯(ぬるゆ)温泉。そこの湯治場(客舎)で会った農家の若夫婦とのことです。ともに過ごしたのは僅か二泊。「テレビ」と数語の言葉しか理解できない私でしたが、一緒に公共の湯につかり、二級酒を交わし、近くの民家で開かれる怪しげなストリップを想像した笑いで盛り上がり、私より若い奥さんの作るサメ汁で楽しい時を過ごしました。手まねで教えてくれる地元の踊り、しまいには一緒に寝ようと二人の布団の真ん中を指さされ、尻を振りつつ逃げかえりました。

東北の湯治場巡りは、方言からの誤謬から始まる松本清張作『砂の器』の映画化(1974年)の数年後のことでした。

映像と音楽の中に活きた出雲弁

『砂の器』は、島根県奥出雲の「亀嵩」と秋田県由利本荘市の「亀田」のイントネーションの誤解からはじまります。

野村芳太郎監督、脚本橋本忍・山田洋二のもと、ピアニスト役の加藤剛、その父役の春日和英、亀嵩の巡査役緒形拳によって苦界という現実が描き出され、終盤20分のピアノ協奏曲「宿命」とカットバックよる自然の映像によって差別と貧困、生へのこだわりと愛が幾重にも練りこめられます。東山紀之や中居正広の作品も工夫され特徴はありますが、音と映像によって織り成された野村芳太郎の作品を越えるものではないと思います。だからこそ、音と光の中に仁多弁(出雲弁)が冴えわたったのです。

砂の器の碑(亀嵩)
京都駅0番ホーム・山陰本線

学生時代、バイトの金は本か飲み代に消えた私が、京都から郷里の島根に帰る方法は、今はない京都駅0番線ホーム出発の夜行急行列車でした。22時ごろでしょうか。

夏はいつもデッキまで客と荷物で溢れていました。海水浴に出かける学生です。京都弁に、関西弁に、大阪弁、にわか関西弁・大阪弁と京都弁が、この世の花よと咲き乱れ、幕末の動乱の京の町でした。そんな彼らが下車すると、朝焼け前に乗って来るのが風呂敷で包んだ竹の籠を三段、四段に背負った行商のお婆軍団です。

暫くはこそこそ話しで静かです。ところが車掌が姿を現すと社内はお婆軍団の高笑いと潮風で煮しめた臭が一挙に溢れます。懐かしい山陰の海岸線の方言と潮風です。握り飯や沢庵とイワシの臭いに、若い私の胃袋は遠慮なく鳴くのです。「くうだわ」「くうなさい」

食い終わるころ、ドジョウすくいでも踊るような腰を砕けるように落とした猫背の、まるで田んぼのあぜ道でも歩くような中年の労働者が乗ってきて、美味しげにタバコを吹かします。やがて行商のお婆たちの姿も減り、通勤通学の若者や学生が乗ってきます。ここはもう「出雲弁」の歓楽街です。

いろんな方言が潮目のように変わり、そして交じり合うのが山陰本線です。東京に暮らし、京都に遊ぶ、島根を忘れかかった私はどんな言葉を話していたのでしょうか。

山陰本線・宍道駅(現在)

私の田舎は、山陰本線を宍道で降り、中国山地へと向かう木次線の終点近くです。勾配があり曲がりくねる「せつい」木次線です。渓谷に沿ってゆっくり走る二両連結の列車は奥に進むにつれ、争いごとを忌むのどかな出雲弁が乗って来ます。「仁多弁」

仁多弁は、動くことのない唇から漏れる聞きとりにくい、でも小さな子を、老人を気遣う看護師さんや保育士のようなおだやかな余韻があります。

二十代の頃です。それはそれは綺麗な仁多弁(横田弁)を話すお婆さんがいました。綺麗とは言葉が心地好い意味です。天狗松に夕陽がかかるころ、中学校のグランドの片隅でお婆さんの話を聞きました。半分も聞き取れない話でしたが、町の政治であり、町の民衆史でした。

それは、音として私の思い出の中に残っています。

木次線の継続

それでは、今回(2023年2月)の取材旅行で出会った「出雲弁」の書籍等について紹介します。

書籍・DVD一覧
藤岡大拙「出雲弁保存会」

山陰ケーブルビジョン株式会社・マーブルテレビで、当webサイト『島根国』でも『島根つれづれ』の連載をお願いしている藤岡大拙氏(出雲弁保存会会長)とマーブルの大西友子さんとの出雲弁についてのフリートークが放送されています。
90歳にもなられる藤岡大拙氏、言葉に渋みがありますね。エンターテインメントの出雲弁というべきでしょうか。

藤岡大拙氏には書籍『出雲弁談義』(ハーベスト出版2008/9/29)もあります。

『出雲弁談義』
奥出雲弁研究会『奥出雲ことば』(A4、68頁)

「第1部 奥出雲ことばではなしてみよう+コラム」、「第2部 奥出雲ことばをもっとしろう」の二部で構成されています。

1部は、高校生の生活をベースに11課に分けられ、練習問題も添付されています。大人の生活というよりは、高校生の課外活動で楽しめるのが素晴らしい。もちろん昔を思い出して中年・壮年の皆様もチャレンジして頂きたい。

2部は、学識者の皆様の奥出雲弁について考えが寄せられています。みなさま楽しい意見でしたが、野間純平氏の「『~ダ』から考える出雲弁の文法」は現在企画中の『在野学』に参考になりました。

各ページに散りばめられた奥出雲の写真も、奥出雲の文化・自然を理解する意味で貴重です。

・問合せ先 事務局 奥出雲多根自然博物館 0854-54-0003)

『奥出雲ことば』
とうほん倶楽部『出雲弁で゛はなさや゛』

インバウンドを射程に置いたというより、海外の観光客と地元の人との「出雲弁」を通したコミュニケーション冊子かもしれません。

出雲弁を英語・仏語・ドイツ語に対訳し、海外から来られた方と楽しく遊べて学べる構成です。付録に佐野史郎氏を初め、海外からの松江市国際交流員の皆様の考えが掲載されています。海外の皆様のお国の方言について文は、「方言」という概念をあらためて考えるきっかけとなりました。

『出雲弁で゛はなさや゛』 発行:とうほん倶楽部
森まゆみ『自立独立農民という仕事』

出雲弁の紹介書籍ではありませんが、出雲弁に関わる面白い表記がありましたので、あわせて紹介します。

森まゆみ氏が、『佐藤忠吉と「木次牛乳」をめぐる人々』についてまとめた書籍です。2007年に東京のバジリコ㈱より出版されました。

バスチャライズの「木次牛乳」。こだわりの店などで見かけたことがあると思います。その木次牛乳の誕生前からの物語です。

書籍のあとがきのあとがき「半農半筆へ」に、佐藤忠吉氏からなかなか戻ってこないゲラに仲介者に訳を尋ねるとこんな返事が戻ってきました。「ずいぶん出雲弁がちがうといっておられます」

製品を大切にする、その根底にある思想と活動。それを文章化されたときに、自分の言葉(出雲弁)の正確さにこだわらなくてはならなかった。言語としての出雲弁ではなく、思想としての出雲弁。それが佐藤忠吉氏の哲学であったのです。木次に暮らし、根気強く対応された森まゆみ氏にも敬意を表します。

さて木次牛乳は、島根県雲南市木次にある牛乳・ワイン・パン・野菜に卵と多岐にわたる企業ですが、私には生産者としての提供者ではなく、「食」を通した「生きることにこだわる」哲学の伝道者だと思っています。それが「赤ちゃんは母乳で育てましょう」の言葉にも表れています。

島根に行かれた折には、「食の杜」に是非お出かけください。

・書籍問合せ バジリコ株式会社

『自立独立農民という仕事』
出雲弁保存会VDV『出雲弁でラジオ体操』

NHKのラジオ体操第1と第2を出雲弁で歌っています。あわせて、出雲弁井戸端雑談やラジオ体操の思い出も収録されています。

『出雲弁でラジオ体操』 有限会社ビデオライフ
おわりに ―方言は言語という枠を超越する―

島根県にはいろんな出雲弁があります。ひとつではありません。しかし、出雲弁に限らず方言は随分消えてしまいました。それは話しているご老人が亡くなったとか、意識して継承しなかったというよりは、文化や関係という繋がり(村落共同体)がなくなったからだと私は思います。

今回紹介します出雲弁の書籍など、いろんな人達の努力と粘りで記録され、継承されています。素晴らしいことだと思います。そこに、みんなと寄り合う場が生まれ、寄り合いという文化が芽生え始めたら「出雲弁」という世界が復活するのだろうと思います。

「だんだん ね」と手を握ったあのお婆。それは「ありがとう」ではない、天狗山に落ちる夕陽を浴びた「だんだん」なのだ。「ね」は丁寧語にするためにつけたお婆の知恵。あえて標準語に訳すなら、「ありがとう、ね。良い思い出になったわ。元気でね。また会いたいね。それでは、帰るね。そうだ、最後に、本当に楽しかったわ」だろうか。

私は思う、方言は言語ではない。人と自然と文化に織りなされた魂なのだ。これからの皆様の活動を楽しみにしています。

宍道湖と雲

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