• ~旅と日々の出会い~
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7. 永井隆博士記念館(島根県雲南市)

伝えられし心、「如己愛人」「長崎の鐘」

はじめに

平和とは何でしょうか? 生命とは? 科学とは? 存在とは? 答えはひとつではありません。しかし、他者の生命や存在を奪うことは何人たりとも許されることではありません。共に生きる営為にこそ私たちは学び、自分の生き様に照らし合わせ考えるのです。

永井隆。1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾によって被爆。重傷を負いつつも被爆者の救済にあたり、三日後の11日、帰宅した永井隆は骨片となった妻・緑を発見しました。義母と子供たちのもとで救済活動をつづけましたが、9月10日、昏睡状態に陥ります。その後、奇跡的に一命をとりとめ、赤貧の中で救護と著作活動を続けます。1951年5月1日、「祈ってください」と叫び、息を引き取りました。

万人が認め、万人が評する生き方はありません。しかし、被爆の苦しみ、子供を残す苦悩のなかで、「どう生きようとしたか」、そして「どう生きたか」、そこから私たちは考えることが出来ます。「平和とは何か」「命」「信じる」。永井隆記念館を通して、あなたの知と感性で考える切っ掛けとなればと考えています。

長崎の浦上教会の近くに『長崎市永井隆記念館』と『如己堂』があります。平和公園や長崎原爆資料館を訪れた方、旅行で長崎を訪れた方は足を運ばれたことでしょう。永井隆の活動と思いを残す『永井隆記念館』と『如己堂』は、島根県雲南市にもあります。それは永井隆が松江に生まれ、現在の雲南市で育ち、旧制中学(現在の松江北高校)まで島根で過ごしたからです。

しかし、長崎にも雲南にも『永井隆』自身はいません。後世の人が考え、願いをもって再編した『永井隆』がいます。私たちは再編された『永井隆』を見、自分の感性や見方・考え方で『永井隆』を描きます。
感動し共感したなら掘り下げてみましょう。ときにあなた自身の考え方を変えなくてはならないならば謙虚に受け入れましょう。賛成できないことがあるとしたなら、なぜ反対なのか冷静に考えましょう。誰からも好かれる人などいるはずもないのです。ただ私たちは「明日」とい未来に向かって生きているということです。それが先人から「学ぶ」という行為です。永井隆記念館は私たちに多くのことを伝えてくれるはずです。

※ あわせて動画もご覧ください。館内の展示品とともに館長の藤原重信氏の案内もご覧いただけます。

永井隆記念館入り口と藤原重信館長
『長崎の鐘』

・歌:藤山一郎、作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而

ご年配の方なら耳に残っていることでしょう、藤山一郎が歌った『長崎の鐘』。作詞はサトウハチロー、作曲は古関裕而で、1949年(昭和24年)にリリースされた歌です。年末の紅白歌合戦でも1951(この年は1月3日)、1964、1973、1979年と歌われた曲です。2020年のNHK朝ドラマ『エール』をご覧になった方なら永井隆を思いだされるでしょう。

事象のない抽象的な歌詞と感情を抑制した旋律に、若い人は意味を追い求めることでしょう。しかし、『戦後』(第二次世界大戦)が色濃く残る昭和20、30年代(1950/60年代)を過ごした方には、藤山一郎の姿と美声の先に投下された原子爆弾(1945年8月9日)によって崩れ落ちる浦上天主堂を描く方もいらっしゃることでしょう。

それでも『長崎の鐘』が、原爆によって生活も生命も夢さえも奪われながらも救護と子のために生きようとした、とある人物の物語であることに気づく人は少ないと思います。

『長崎の鐘』は、サトウハチローによる細かく切り裂かれた感情を丁寧に再編した言葉と、古関裕而のやがて訪れる陽光を知らせる静かな旋律、そして藤山一郎の耐え忍ぶ美声によって、戦後の大衆の感情を表現しきったのです。

美しく仕上げられた曲であるがゆえに、本来の意味が消えたのかもしれません。その意味では、1949年当時、日本を占領下に置いたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の思惑は達成されたのかもしれません。しかし、そうであるが故に人々の心に深く情念として染み入ったのも事実です。

歌『長崎の鐘』は、長崎に投下された原子爆弾で妻を失い、自らも負傷しながらも救護と治療にあたり、赤貧の中で幼い子を残して亡くなった永井隆の書籍『長崎の鐘』をモチーフとした作品です。

GHQは『長崎の鐘』の出版を許可することもなく(後日、条件付きで許可)、歌にするにあたっても直接的な表現を認めることはなかったのです。

著作権の関係で歌詞を引用することが出来ません。皆様は、本文へと進む前に、是非、藤山一郎の『長崎の鐘』をお聴きください。その言葉、音、旋律一つひとつを紐解くように『永井隆』を描いていただければと思います。

記念館の「長崎の鐘」

・著者:永井隆

永井隆著『長崎の鐘』(アルバ文庫)の冒頭の文です。
「昭和二十年八月九日の太陽が、いつものとおり平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのであった。」(※補足・原爆投下の日)

そして、最終部分の文章です。

「『カーン、カーン、カーン』
鐘が鳴る。暁のお告げの鐘が廃墟となった天主堂から原子野に鳴りわたる。(中略)岩永君らが朝昼晩、昔ながらの懐かしい音を響かせる。(中略)
『カーン、カーン、カーン』澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁じられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終わりのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、『カーン、カーン、カーン』とまた鳴る。」

藤山一郎の『長崎の鐘』を聴いた永井隆は「新しき朝」と題する短歌を詠みました。
「新しき 朝の光の さしそむる 荒野にひびけ 長崎の鐘」
藤山一郎も『長崎の鐘』の三番を歌い終わると「新しき朝」に節をつけて歌ったのです。

永井隆が亡くなったのは、1951年5月1日(享年43)。まだ戦争の爪跡が大地にも心にも深く残るころです。

雲南市『永井隆記念館』へ

朝霧に濡れるJR木次線の大東駅に、大東高校に通学する高校生たちとともに降り立ちました。廃線の噂のある木次線、今年度定員割れした大東高校。都市部への人口の集中化と少子化は残酷なまでに地方を弱体化していきます。

彼らに「夢」を聞きました。単語帳を閉じ少年は照れくさそうに答えました、「東京の大学に進み、ゲームの開発をしたい」と。永井隆記念館に行ったことはあるかと尋ねると、四人みんなが首を縦に振りました。

取材まで時間があり、迎えに来た地元の友人の車で木次乳業が経営する「食の杜」に向かいました。轍には雪が残っています。車中、知人から「赤ちゃんには母乳を」と掲げる木次乳業の社長の考えを紹介した書籍『自立独立農民という仕事―佐藤忠吉と「木次乳業」をめぐる人々―』(森まゆみ著、バジリコ)を渡されました。「人だけでなく、地域も見なさい」という彼らしい永井隆記念館訪問前のアドバイスです。

早く着いた私は、永井隆記念館を遠目に眺めながらかつて訪ねた広島の平和記念館を、長崎を、思い浮かべていました。

モニュメント

・永井隆博士の日々

簡単に永井隆博士の人生を時間軸にて紹介します。(「雲南市役所サイト」より抜粋)

明治41年(1908)松江市で生まれる
明治42年(1909)飯石郡飯石村(現雲南市三刀屋町)に移住
大正9年(1920)飯石小学校を卒業し、旧制松江中学校に入学
大正14年(1925)旧制松江高校入学
昭和3年(1928)長崎医科大学に入学
昭和9年(1934)カトリックの洗礼を受ける。森山緑と結婚
昭和15年(1940)医大の助教授となる
昭和20年(1945)6月、白血病と診断される。8月9日、長崎に投下された原爆により、頭部動脈切断の重傷を負いながら、救護活動にあたる。緑、死去。
昭和21年(1946)「長崎の鐘」脱稿
昭和26年(1951)長崎医科大学附属病院に入院、午後9時50分逝去。享年43。

・永井隆記念館のあゆみ

永井隆記念館のはじまりは、昭和43年(1968)7月のことです。
永井隆の母校である飯石小学校の有志から三刀屋町(当時)に、永井隆の碑の建設要望が提出されました。
検討を重ね、昭和45年(1970)10月、三刀屋町立「永井隆記念館」が竣工しました。あわせて長崎市の永井隆記念館と姉妹館となりました。

平成16年(2004)11月、市町村合併で「雲南市永井隆記念館」となり、平成20年(2008)5月に永井隆博士生誕100年記念事業として、長崎市・永井隆記念館の協力のもと如己堂(複製)が建設されました。
令和3年(2021)  4月20日にリニューアルオープン。「平和の鐘」モニュメントを設置。

永井隆記念館展示場

永井隆記念館は、展示場・図書館・如己堂の三か所とロビーの展示物、そして外のモニュメントや碑で構成されています。順を追って紹介します。

・入り口「如己愛人」

展示館内に入ると最初に目に着くのが『如己愛人』です。マルコ福音書12章の「己の如く隣人を愛せよ」。
次に飛び込むのか辞世の句、「白ばらの花より香り立つごとくこの身を離れ昇りゆくらむ」です。
辞世の句に接するたびに、永井隆著『この子を残して』の一節を思いださずにはおれません。「この子を残して―――この世をやがて私は去らねばならないのか!母のにおいを忘れたがゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり・・・」
その香りさえ旅立つというのです。

如己愛人

・展示場 永井隆博士の生涯と交流

永井隆誕生から日々の記録だけでなく、永井隆の人生の記録やそれぞれの日々での功績、また人々との交流などの絵手紙や作品と映像資料を通して、永井隆の考えと精神を伝えています。陳列の品から永井隆の人となりを、また哲学を垣間見ることが出来ます。

長崎の永井隆記念館のご協力のもと複製された、原爆で亡くなった緑夫人が身につけていたロザリオの展示には、暫し考え込んでしまいました。
【動画にて是非、ご覧ください】

館内風景

永井隆記念館を、思いを持って計画・建設された人々、陳列の品々の言魂を拾い上げ丹念にクリエイトされたデザイナーの人たち、そしてなによりも日々、息づく記念館を運営管理される皆様の思いを感じることが出来ました。それは、永井隆記念館を訪ねた見学者皆様の人間性の集積かもしれません。

・図書室「うちらの本箱」・顕彰図書室

戦後、永井隆は救護と治療の中にあって、知識と活字に飢えた子どもたちのためにと「うちらの本箱」と名づけた図書室を自宅横に開設しました。この精神にならい、館内にも図書室が設置されています。

幼児向けの絵本や児童書などを中心に約一万三千冊が所蔵されています。顕彰図書室には、永井隆の著作や平和に関連する書籍等を所蔵されています。こうしたところにも永井隆への思い、そして何を伝えるべきかの願いをみることができます。

見学した子供たちの千羽鶴や永井隆の机は、日の光に照らされ明日という生きかたを感じさせられます。

図書館

・如己堂

永井隆と子供たちが暮らしていた「如己堂(にょこどう)」は長崎市にあります。
妻と全財産を失った永井隆が、白血病の療養とともに執筆に専念した家屋です。被爆から約3年後の1948年(昭和23年)、赤貧の生活の永井隆親子のために、浦上の人達やカトリック教会が建てた二畳一間の建物です。皆が財産を失い苦しい生活の中で永井隆親子のために建てた行為に感銘を受け、「己の如く隣人を愛せよ」という意味を込めて「如己堂」と名付けたのです。

平成20年(2008)5月、雲南市の永井隆記念館にも「永井隆博士生誕100年記念事業」として、長崎市・永井隆記念館の協力のもと複製の「如己堂」が建設されたのです。

展示品を見、ここの濡れ縁に座り敗戦直後の生活を想像してください。

脇には、これも長崎の如己堂と同じように長崎から送られたバラの花が咲いています。長崎のバラは昭和24年、広島にも永久平和の願いとともに贈呈されています。

如己堂とバラ

・ロビー

入り口のロビーの壁に掛けられた「南天の花」の詩。
永井隆の詩に山田耕筰が曲をつけ、昭和25年(1950)にリリースされました。翌26年に永井隆が亡くなると山田耕筰は永井隆を偲び、「白ばらの歌」を作り、浦上天主堂での葬儀の席で歌われました。


「南天の花」詩の元は、妻・緑の居間の軒下にあった一株の南天です。その後、如己堂の脇に移植され、今も季節に花を咲かせています。

南天の花

「長崎の鐘」の映画ポスターや吉永小百合の言葉など、永井隆を語る品品が書籍とともに展示されています。書籍の購入をお薦めします。

・モニュメントと碑

モニュメントの『平和の鐘』は、永井隆の理念や「平和を」への祈りの象徴として、多くの方の寄附により建立されました。

旧浦上天主堂から毎日響いた鐘の音を聴くことはできません。しかし、記念館を見学して出た私たちには、幻聴に間違いないのですが、鐘の音が聞こえたのです。それは藤山一郎の歌声かもしれません。

記念館の入口の右側には、永井隆をたたえた「頌徳碑」と、長崎医学同窓会島根県支部からの「歌碑」が並でいます。

おわりに

原爆の投下、そして戦争そのものに対する考え、それは今なお続く課題です。

戦争に関わる施設を見学するたびに思いだす映画があります。スタンリー・キューブリックが監督した、1968年の叙事詩的SF映画『2001年宇宙への旅を』です。
画面いっぱいに広がった衝撃的な始まり、人間の先祖と思えし猿人類が、他の部族から己を守るために振り下ろした武器としての骨。骨を道具・武器として使うことに目覚め、相手を殺害する。宇宙船のコントロールであり支配者のコンピュータHAL( IBMの上をゆく)は、暴走するコンピュータを破壊しようとする人間を、意思をもって殺そうとします。ヒトの殺害の意思は思考の中にDNAとして根付いているのです。

猿の浅智恵に戦争犯罪の責任をすり替えようとするのではありません。しかし、人には己の欲のなかに他人を殺してでも獲得しようとする質を持っているのです。だからこそ、「知恵」、それも主体的な英知が、そして「対話」が求められるのです。

「平和を」「如己愛人」を訴え続けられた永井隆の人間性や考えに接し、ともすれば忘れがちな自分と世界、そして生き様と関係を考えるきっかけとなるのでした。

近々掲載します動画「永井隆記念館」を是非ご覧ください。当サイトとYouTubeにて同時掲載します。

緑夫人のロザリオ(複製)
アクセス

〒690-2404 島根県雲南市三刀屋町三刀屋199-3
電話・FAX (0854)45-2239     E-mail  un-nagai@bs.kkm.ne.jp
開館時間および休館日は直接お尋ねください。

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