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『明治の津和野人たち』あのひとは帰ってこない

― 激動の幕末から明治初期、時代と対峙した津和野人 ―

書籍紹介

明治の津和野人たち―幕末・維新を生き延びた小藩の物語-』。著者・山岡浩二、発行・堀之内出版、発行日・2016年5月25日、定価・2000円(税別)、四六判326ページ 

書籍表紙

はじめに 実に面白い

津和野は実に面白い、足を止め立ち向かうと更に面白い。小さな町に凄い人物が誕生し、時代の流れに深く関わっています。二泊三日の旅でしたが、津和野の町から受けた感想です。

『明治の津和野人たち』は、津和野町日本遺産センターで買いました。
いつもの旅なら薄暗くなるとともに町に出、軒下や路地を勘に任せて彷徨い、ピンときた店の暖簾をくぐると地元の酒に酔うのですが、津和野ではビジネスホテルのベッドで読書にふけることとなったのです。

津和野の夜は奇異です。山陰の小京都などと言われる所以のひとつでしょうか。町の夜は早く、造り酒屋が三軒もあるのに飲み屋がなく、迷い込んだ路地裏の民家の軒の続きにぽつんとある闇にとけ入る微かな灯の店も、京都祇園の黒塀の店の如く一見さんを拒んでいるように感じるのです。

津和野なら鮎か、日本海の魚介か、里芋などの山菜料理と思い描いていたのです。結局は地元の方にお願いし、団体貸し切りの宴会を障子で挟む横のカウンターで、親族の集まりで時間延長した喫茶店のカウンターの隅で、夕食と酒を頂いたのです。「鮎には遅い、里芋には早い」「隣町の〇〇ならば」「昼なら、あそこだな」と情報だけは沢山頂きました。

そんな訳で『明治の津和野人たち』は旅の最中に読了し、予定しなかった場所の見学や歴史的な場所で先人のことを偲ぶことができたのです。結果として旅に深みができありがたいことでした。「知る(知識)」だけでなく、大切な「考える(思考)」ことができたのです。

結論のひとつです、津和野を旅する人には是非、事前にこの書籍を読んでいただきたいのです。旅をしてからの知識の補充ではなく、考える旅にするための事前学習としてお薦めします。

夜の津和野

書籍の構成と意図

全体は、三つの章で構成されています。
・第一章 津和野人たちの明治維新
・第二章 明治を駆け抜けぬ津和野人たち
・第三章 津和野と鷗外

それぞれの章で幕末・維新・明治初期を駆け抜けた津和野人たちの成したことや生き様が紹介されています。どのように藩を創り上げたか、新しい日本にどのように関わったか、そして今日的な意味について述べてあります。

各章で取上げられた津和野人を列挙します。長州藩と浜田藩(徳川方)に挟まれた小藩の生き残りをかけた試行錯誤と、生き抜こうとする人びと英知と生き様を俯瞰できます。

第一章 津和野人たちの明治維新
・津和野藩の明治維新前後史 亀井玆監と福羽美静を中心に
 最後の藩主亀井玆監、国学者岡熊臣、大国隆正、行動派国学者福羽美静
・幕末の志士になった天才和算家と津和野藩和算三大家
 天才和算家桑本才次郎、津和野藩の和算三大家の祖堀田仁助、桑本才次郎、木村俊左衛門
・幕府と明治政府の双方で独自の活躍をした 西周
・津和野藩の乙女峠 キリシタン迫害史
 ビリヨン神父、ビリヨン神父

第二章 明治を駆け抜けた津和野人たち
・日本近代紡績業の草分け 山辺丈夫
・日本地質学の父 小藤文次郎
・国産イチゴ第一号の生みの親 福羽逸人
・北海道に生涯を捧げた 高岡兄弟
・島村抱月とともに演劇一筋の劇作家 中村吉蔵
・「趣味講演」を創始した異色の童話家 天野雉彦
・校正の神様として文人に愛された奇人 神代種亮
・短くも華やかな生涯の新劇女優 伊沢蘭奢
・日本脳外科の先駆者 中田瑞穂
・膨大な民俗を記録した在野の民俗学者 大庭良美
・第二回芥川賞候補となった作家 伊藤佐喜雄

第三章 津和野と鷗外
・鷗外、その生涯と津和野への回帰

2023年段階で人口6657人(1950年22499名)の津和野から、これほどの著名な人を輩出したのです。昭和の安藤光男美術館、桑原史成写真美術館なども含めると津和野人物鑑にはそうそうたる人物が並ぶことでしょう。

著者の山岡浩二氏の意図は、幕末・維新・明治初期の人物紹介ではありません。事物を通した彼らおよび周辺の人々の行動と営為の底辺に流れる津和野の気質の分析であり、津和野の風土への洞察です。

また、それぞれの生き様は単独の歴史的な結果ではなく、歴史の運命で深く交じり合い、うがった見方をすれば宿命づけられているのです。それを後々、歴史的必然性と言うのでしょう。

すべてはある一点で繋がっているのです。その一点とは何なのか、それこそが書籍の目的であり、津和野を旅する前に読んでいただきたい理由でもあるのです。

藩校「養老館」

断片を繋ぐ旅行雑誌

「はじめに 実に面白い」で、旅する前に読んでいただきたいと申し上げました。旅行冊子や観光パンフレットではどうしても俯瞰できない世界を、この書籍では人々の関りや事件・出来事の因果性を描くことでそれぞれの必然性を示します。

といっても、どこに何があるのか、どう行けば効率的なのか、事前に計画をたてたいものです。見落とすことなく、出会いの感動をより魅力的な物語にするためにも大切なことです。でも、ここで注意してください。それは、

観光パンフレットやガイドブックに「なぜ」の紹介はないのです。

・5W1H
5W1H、ビジネスに限らず報告書の基本要素です。旅のガイドブックやパンフレットも基本的には気を付けています。

5W1Hとは、「When:いつ(時間)」「Where:どこで(場所)」「Who:だれが(主体)」「What:何を(目的となる人や物)」「Why:なぜ(理由)」「How:どのように(手段)」の思考整理のフレームワークです。これにHow much「いくらで(費用)」を加えた5W2Hの整理方法があります。

ところが旅行冊子やパンフレットの特徴でもあるのですが、過去の出来事、一般的な事実を語ることにとどまっています。5W1Hで言えば「When:いつ(時間)」「Where:どこで(場所)」「Who:だれが(主体)」「What:何を(目的となる人や物)」と経緯としての「How:どのように(手段)」です。「Why:なぜ(理由)」はないのです。暗記中心の歴史の試験の出題に似ていますね。

・なぜ「Why:なぜ(理由)」が大切か
こんな経験がありませんか? 子供に「なぜ」「どうして」を三回続けられたら答えられなくなったことを。「パパとママはどうして結婚したの」(愛し合ったからだよ)「どうして愛し合ったの」(大切な人に思えたからだよ)「どうして大切な人だと思ったの」・・・。

偉そうに振舞っていても「なぜ」を繰返されたら答えられないものです。なぜなら、本人も深く分かっていないし、他人に説明できるほど考えていないからです。

名所旧跡の旅行雑誌も観光パンフレットも看板も、おおむね「なぜ」は表記されていません。「なぜ」かですか? 簡単なことです、分かっていないか、価値観がでるので避けているのです。

「なぜ戦ったか」。事実の羅列は簡単ですが、真の理由は避けたいものです。いろいろな立場があり、見方があり、意見があって、全員の同意を得ることはないのです。批判されないために「なぜ」は表記しないのです。それは不特定多数を対象とした場合の最善の方法です。なによりも反対派から批判され、抗議されることがないのです。結果、旅行雑誌やパンフレットは、結果だけの過去の断片を繋ぐ表記になるのです

whyは次に未来に続くのです。「なぜ、広島に原子爆弾が投下されたの」。理由を述べたら「これからどうするの」のhowになります。という意味ではhowには過去の過程を語る手段と未来に続く具体的な手段の提示の二つの意味があるのです。
そこで過去のhowも簡素化されます。そうすることによって未来へのhowを省略するのです。簡単に言えば書きたくないのです。

・断片をつなぐ旅行雑誌や観光パンフレット

旅行雑誌や観光パンフレットは一見整理された表記に見えます。デザインやレイアウトが上手いのもありますが、事実の羅列には論理的な証明を必要としないので短文ですみます。次に同一地域とか道筋(交通手段)や業種業態でグルーピングし表現します。これがなかなか見やすく、関連性や理由など省いても分かったつもりになるのです。

分かったつもりになる。確かに分類と区分整理は記憶するのに便利で、紐づけも楽です。しかしこれは現象に過ぎないのです。類似性と創意を際立てているだけで本質ではないのです。

これが津和野の観光をするうえで、山岡浩二氏の書籍を読むことを推薦する理由です。
この書籍の意義は、バラバラの人々の列挙に見えるのですが、根底にある共通点を解説したことです。悲運な運命をたどってきた津和野藩の意地と知恵に関わる形で輩出した人びとと、その繋がりと因果関係の根底に津和野藩校「養老館」が存在するのです。そんな謎ときの最終は、キリシタン弾圧の武士階級と庶民の生き様が語られ、今日的な意義が展開されます。きっと皆様の旅も思惟深い旅となるでしょう。

乙女峠のキリシタン弾圧
教会

森鴎外か森林太郎か

そんな謎解きの一つが森鴎外の一生です。
森鴎外(森林太郎)は、1862(文久2)年1月19日、藩の御典医を務める森家の長男として生まれます。1968,年(明治元年)、満6歳の時、藩校養老館の教授村田美実から論語を学び、翌年に養老館に入学します。ずば抜けた優秀でした。
1872(明治5)年6月、10歳の時、西周の推薦もあり父と二人で上京、12歳の1874年現在の東京大学の医学部に入学しました。以降の森鴎外の人生については各書籍にてご確認ください。
1922(大正11)年7月9日亡くなります。享年60歳のことでした。

森鴎外は10歳のときに津和野を離れてから生涯、津和野に戻ることはなかったのです。また文学者として多くの著述をしましたが、津和野に関わるものは僅かです。ところが亡くなる直前に口頭で遺言を残します。その一文が極めて印象的です。
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」

津和野の永明寺の墓は、森鴎外33回忌の前年の1953(昭和28)年、三鷹の禅林寺の墓から分納されたものです。

・余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

謎めいて意味深い一文だからこそ、森鷗外の気性の激しさ、あるいは中央権力内での派閥闘争への悔恨を感じさせます。
生涯再び津和野の土地を踏むことのなかった森鴎外が、なぜ「石見人」「森林太郎」にこだわったのか。多くの作家や評論家をはじめ著名な方が分析しています。本書でも山岡浩二氏の独特な解説が披露されています。ここは是非、あなた自身の思考力で読んでいただきたいと思います。

永明寺
森林太郎の墓

帰ってこない

・石見人森林太郎

この書籍を読み、乙女峠や養老館を暫し眺めながら考えました。森鴎外の旧居から養老館までの川沿いの道を歩きながら想像しました。ときに川を泳ぐ鯉に問いかけました。森鷗外はなぜ、津和野に戻ってこなかったのか。
室生犀星に「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの」の詩句があります。貧困に喘ぐ室生犀星とは異なり森鴎外はある意味成功者です。故郷に錦を飾ることなく、なぜ帰らなかったのでしょうか。なぜ戻りたくなかったのでしょうか。

口頭での遺書「石見人」と自認する心がきになります。津和野の永明寺にある墓は昭和のことです。森鴎外が希望したことでしょうか。

その謎解きの旅の始まりが藩校「養老館」にあると思います。

・キリシタン弾圧

山岡浩二氏は「第一章 津和野人たちの明治維新」のなかで乙女峠のキリシタン迫害からその後の流れを記述しています。目次を引用します。

「津和野藩の乙女峠 キリシタン迫害史」
現在の「乙女峠まつり」/永井隆博士の絶筆『乙女峠』/「乙女峠」という地名について/「津和野本学」とキリスト教/福羽美静、高木仙右衛門と面会する/津和野での「説得」「吟味」「拷問」/迫害の終焉と喜びの帰還/地元住民の感情と交流/「乙女峠」の基礎をつくったビリヨン神父/ビリヨン神父の「光琳寺のキリシタン講演会」/ネーベル神父の思い出/キリシタン追福碑「至福の碑」/進められる列福列聖運動」

キリシタンへの迫害は明治に入っても継続されました。津和野は153名のキリシタンを新政府から受け入れ31人の殉教者をだします。なぜ、小藩なのに多くのキリシタンを引き受け、大量の殉教者を出したのでしょうか。
そこには宗教弾圧ではなく、藩としての存亡をかけた思想的な戦略がありました。明治新政府にあって地位を得ようとした津和野独自の皇国思想「津和野本学」です。その中心をなしたのが養老館でした。

新政府の主流派は津和野に要求します。それほどまでにしっかりした皇国史観「津和野本学」であるならば、その考えでキリシタンを説得し改宗してみよと。しかしキリシタンの指導者たちは意思は固く、さらには水責めなどの拷問にも屈することなく亡くなったのです(永井隆博士著『乙女峠』)。
直接手を下したのは養老館の教授陣ではなくても説得し、指示したのは養老館の考えと教授陣です。やがて拷問の話は漏れ、人の口から伝えられます。江戸時代は藩士の教育機関として、幕末は時代を先取りした組織として評価された藩校養老館への民衆の視線はいかほどのものであったのでしょうか。
森鴎外や西周、そしてここで教鞭をとった目次の人物たちはどう思ったのでしょうか。帰ってこない謎もここにあるのかもしれません。

現在は歴史を掘り起こし、町をあげて供養をしています。そんな武士階級と庶民の資質の違いも明治以降の津和野の文化かもしれません。

さて津和野の名所旧跡には養老館を核とした歴史が必ず関わってきます。山岡浩二氏の指摘もこの関連性にあります。「なぜ」の問いの回答は、この書籍を読み、津和野を訪ねた貴方の五感で考えてください。

森鴎外旧居
西周旧居

おしまい

ブルース歌手、浅川マキ(1942/01/27-2010/01/17)の歌に『夜が明けたら』『赤い橋』があります。津和野の最後の夜、養老館を背にした川辺から山城の津和野城のライトアップを眺めながらiPhoneで何度も聞きました、「夜が明けたら~」「帰らない~」。
そういえば映画『男はつらいよ』「寅次郎恋やつれ」で、津和野に嫁いだ吉永小百合は津和野を捨て東京へ戻ります。

津和野に生まれた山岡浩二氏は学生時代、帰郷すると駅前のレンタル自転車屋でアルバイトをしていたそうです。現在も地域の文化活動と活性化に取り組んでおられます。科画家の安野光雅氏も写真家のカメラマンの桑原史成氏も帰ってきました。沢山の人々によっていろいろな町おこしの活動が行われています。

一方こんな話を聞きました。
島根県では第一号の日本遺産認定の地・津和野ですが、地域をあげての活動や協業がなされていないため取り消しの話も出、継続の施策が町で検討されていることを。

僅か二泊三日の取材の旅の私に深く理解できることではありませんが、なんとなく分かります、津和野人の気質が。津和野の文化歴史は観光のためにあるのではないと。日々の生き様が、歴史に関わる姿勢が、そんな過程と蓄積が津和野の風土だと。

山岡浩二氏にお話を聞き、この書籍を読み、津和野の町を考えて一年。お約束のまとめの編集をしなければならないのですが、どうしても、この津和野気質にぶつかるのです。そのためには前回、訪問しお話しできなかった安藤光男美術館や桑原史成写真美術館、移住された方、高校生をはじめ若者、さらには裏方に徹して話したくないと言われた方にあらためてお話をお聞きしたいところです。
こんな気持にさせたのも、津和野のホテルで『明治の津和野人たち―幕末・維新を生き延びた小藩の物語-』を読み切り、津和野町で考えたおかげだと確信しています。

皆様方にも、観光としての津和野とともに、時代に翻弄された津和野人気質に触れる意味でご一読されることをあらためて推薦します。

津和野城のライトアップ
川辺

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