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方言(訛言)についての二つの史料 内田 融

内田 融(八雲会事務局長)

 出雲人であるかどうかは、出雲弁を話せる、理解できることである。その能力がすなわち出雲人純度であると考えているが、いかがだろう?

 今でこそ方言は地域の個性であるとか、アイデンティティーであるとか言われている。若い女性が方言を使って「可愛い」とされる動画を見ることもある。

 よく知られているように、明治後期から戦後のある時期まで、方言は野卑な言葉とされ学校教育において「矯正」の対象であった。小学校でかなり厳しい指導が行われ、方言をしゃべった児童に「方言札」を頭からぶら下げたという話も各地に残っている。

 最近見た史料に児童文集(「芽生」第14輯、大東町尋常高等小学校・同実業補習学校学友会発行)がある。昭和4年のこの文集の巻末に学校状況等報告欄のうち「風紀部便り」という欄に方言についての記載があった。「言語指導」「当部に於て先づ改善すべき語」「は左の通り」、「わるい言葉」として「あだん あだんちや をら」「思つとう 思つとる」「そげなこと そげやんこと」「ちよつこし」など25語が並ぶ。それぞれ下には「よい言葉」として「私 僕」「思つてゐます」「そんなこと」・・・とある。

 「え、方言だったのか、標準語だと思っていた」という経験は多くの人にとって「アルアル」であろう。外との接触の少ない地域内で生きる人たちにとって何が方言(訛言)かはわからないし、それと一生無縁に過ごす人も多かった。教師自身もわからない状況では指導もできなかったと思う。

 古い新聞史料(松陽新報、大正15年3月27日付け)に興味深いものがあった。「矯音資片」と題する投書?で「島根商業学校内、富岡生」なる人が書いたものである。入学試験で驚いたことを記している。入試問題中「縮む」「叱る」「珍し」「刷る」、「磨く」等の漢字に読み仮名を付ける問題で、(ツヅむ、チヅむ、ツヂむ)(スカる)(メジラし、ミジラし)(シる)(メガく)と不正解回答した多さに驚いたという趣旨である。

 商業学校を受験する子は当時小学校卒業生の「選ばれたる優良児」である。たしかに当時の中等学校進学率は、現代の大学進学率よりはるかに低かった。それでもこの状態である、一般の卒業生の発音の「不正」はどれだけ甚だしいかと警告を発した。

 なるほど、これでは高等教育受験にも決定的に不利である。

【編集部より】

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「出雲弁」について検索してみました。
『奥出雲』第一巻のなかに、「出雲弁」と奥備後(広島県)の歴史・文化の交わりを記した論文が掲載されています。『横田文化』復刊20号(昭和51年12月4日)、広瀬繁登氏(広島県庄原市文化財保護委員)の「奥備後の雲州街道」です。文化・産業の交わりのなかで、中国山地の山向こうの広島側でも出雲弁がつかわれていたのです。方言とは、ある意味、歴史の生きた証人ともいえます。

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