内田律雄(海洋考古学会代表)
新米の季節になるといつも思い起こすことがある。それは奈良時代に編纂され、写本を繰り返しながら今に伝わる『出雲国風土記』の仁多郡三沢郷の伝承である。そこには古代の仁多米を彷彿とさせるアジスキタカヒコノミコトの神話が語られているからである。三沢郷の伝承を要約すると次の様である。
「三沢郷は仁多郡の役所から西南に25里ある。大神大穴持命の御子であるアジスキタカヒコは、髭が長く伸びるまで、泣いてばかりいて言葉がしゃべれなかった。そこで大神が夢占いをすると、御子がものを言えるようになった夢をご覧になった。大神が目覚めてから御子に聞くと、御子は『三沢』と申し上げた。大神はそれはどこかと尋ねると、御子は立ち上がって歩きだし、名川を渡り、坂の上まで行って、『ここです。』と申された。その時、その沢の水が湧き出て、その水で禊をされた。それで出雲国造が都で神吉事を奏上する時に、その水で禊をするのである。古老が言うには、『今もその村の妊婦はこの水で育った稲を食べない。もし食べたなら、子供は生まれながらにして物をいうようになるからだ。』と。だから、三沢と言う。この郷には正倉(官の倉庫)がある。」
アジスキタカヒコの神話もさることながら、古老の伝えはもっと興味深い。その部分の『出雲国風土記』の古写本には次のように書かれている。
「今産婦彼村稲不食若有食者所生千已云也」
これは、「今も産める婦は、彼の村の稲を食わず。若し、食う者が有らば、生まるる千己は、云ふ也り。」と読めるので、妊娠中の女性が、この「三沢」から湧き出る水で育った稲を食べるならば、生まれた稚児は、生まれながらにして言葉をしゃべるようになってしまうので、妊婦はその村の稲を食べない、という意味になる。もちろん実際にはそんな不思議なことはなかったのであるが、神話でもって、難病をも治してしまう「三沢」の水の強い霊力をことさら強調している。それは出雲国造のみに許された天皇の長寿健康を祝福する神賀詞奏上にあたって、国造が禊をするのに最も相応しい水とされたからであろう。
このアジスキタカヒコが大神大穴持命を案内した「三沢」はどこか?諸説があるが、それらに触れている余裕はないので結論を提示しよう。享保二年(1717)に編纂された『雲陽誌』は江戸時代の『出雲国風土記』と言っても過言ではない。その仁多郡の八川村に、
児池 廣サ五尺四方之池ナリ 三井野原ニアリ
三井野原 備後國由木村之堺也
とある。三井野原は現在スキー場となっている高原の集落で、JR木次線の三井野原駅もある。そこに稚児ヶ池と呼ばれている小さな池がある。この稚児ヶ池が『雲陽誌』の兒池であり、現在、五尺四方の池の前に稚児ヶ池神社があって、県境を跨いだ島根県側の三井野原と広島県側の由木の、二つの集落の人々によって毎年11月3日にお祭りが行われている。三井野原の三井は「御井」であり、三沢に通じる。つまり、風土記の伝承が江戸時代には地名として残り、今に伝わり、現在でも地元の人々によって連綿として祭礼が行われているのだ。
三沢郷の「三沢」は、さらに別の重要な問題を派生させる。『出雲国風土記』によれば、仁多郡には三沢郷の他に、三處郷、布勢郷、横田郷があった。これまでの風土記の研究では、三沢郷は、湯村・槻屋・北原・尾原・石村・比羅田・下鴨倉・四日市・原田・鞍掛・乙社・大吉・川内・三成・堅田・大谷・高尾・大馬木・小馬木・下阿井・上阿井の23の村の範囲が通説であって(『出雲風土記鈔』)、ここで推定した「三沢」のある現在の横田町八川の三井野原は含まれないとされてきた。
三井野原は横田町を流れる室原川の上流部にあたり、今日的な地理感覚からはこれを三沢郷としないで、横田郷とするのが自然である。
しかし、律令の戸令は、郷(里)は50戸でもって1郷(里)としており(五十戸一里制)、土地の範囲を規定しているのではない。あくまでも戸という人の集合体を郷(里)としている。その郷(里)には郷長(里長)を一人置いた。そして郷(里)が、山や谷にはばまれ、険しく、遠くて人が少ないところには便宜上、郷長(里長)を別に置いてもよいとしている。三沢郷がこれに該当するかはもう少し検討が必要であるが、古代には広範囲であった可能性が高く、今日的な地理感覚をあてはめれない。このように、三沢郷の伝承は律令国家の地方支配の実態をも解明する手掛かりを含んでいる。
ヤマタノオロチが棲むという斐伊川の源流の一つでもあるこの奥出雲の「三沢」から流れ出た水で育った仁多米。それは神話に裏打ちされた島根のブランド米。三沢郷の伝承の文末にみえる正倉(官の倉庫)は、古代の仁多米で満たされていたに違いない。
こんな歴史が仁多米には秘められている。
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