• ~旅と日々の出会い~
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第二回 とき(時間)の流れに私たちも考えた、世界遺産「石見銀山」

2-1 石見銀山の最盛期は20万人

コメコメ

こんにちは。シマネミコーズのコメコメです。

二回目からは、私たちシマネミコーズが対話形式で、私たちのつたない考え方や感性で「世界遺産の石見銀山」を紹介します。名所旧跡の案内や、美味しいお店屋さんや可愛い食べ物屋さんについては、ごめんなさい、テレビやインターネットの情報番組、それと旅雑誌や書籍で調べてね。

わたちのミッションは、あっ、役割は、散策しながら、こんなことを感じました、こんなことも考えました、あんなことに驚き、不思議に思い、可笑しかった、そんな気づいたことを四人で話し合います。

歴史や観光の専門家ではありません。舌足らずなこともあります。好奇心旺盛でミーハー(もう死語かしら)なだけかもしれません。疑問で終わるかもしれない。でも、それも含めて聞いてください。

誰だったかな?言ってたよね、『気づき』が大切だって。そして調べて仮説を立てることだと(推理することの楽しみ※)。じゃあ、よろしくお願いします。

 (※「温泉と芸能」、「シマネミコーズ、温泉の旅路」も読んでね)

始まるよ、石見銀山、曼荼羅の旅一座の開演だ。

裏三瓶山のススキ原

ところで誰から話す。

(シマネミコーズには遠慮や譲り合う気持はないようだ。我も我もと手を挙げた。シマネミコーズも詳しいことは知らない。はじめに知っていることを披露しておきたいのだろう)

(コトネ)いいかな。年長者のわらわは最後にするわ。それにさ、わらわは『自然の恵み』の『食と酒』のときに、酔っぱらっちゃたよね(※)。その反省も含めて、今日はお茶子で我慢し、最後に話すことにします。

(※「愛酒の日・特集」を見てね)

  • 驚き! 最盛期は20万人が暮らしていた

(カワセミ)じゃあ、私から。いいかな。みんな聞いてください。

私、カワセミ。よろしくね。不思議発見大好き、女子(おなご)です。ということで、石見銀山の規模を想像する意味で「人口」と「面積」からお話します。

江戸時代後期に書かれた『銀山旧記』に、江戸時代前期の最盛期には、誇張があるとしても、20万人の働く人や武士、商人たちが暮らしていました。あんなに狭いところに20万人もいたのよ。それが私の驚きです。

まだ、行ったことのない人のために、一回目に掲載された世界遺産石見銀山の地図をおさらいしましょう。

イメージを膨らませるには、国土地理院の地図か、書籍やインターネットのカラー写真も見てね。

鉱山の石見銀山は山の中よね。そして代官所や商人が住んでいた大森町も、山間を流れる川沿いの僅かな土地にできた小さな町です。平坦なところは凄く限られています。

そんなところに20万の人が一時的でも暮らしていたのです。田んぼや畑も少ないよね。どうやって皆の「衣食住」を支えたのかしら。それがカワセミの気づきです。

(コメコメ)素敵、カワセミの着眼点にはいつも驚くわ。さすが文学少女ね。ただの本好きの夢見る乙女ではないわ。コメコメもいつも思うのよ。生活から見た歴史観や民俗からの解釈が大切だと。ちょっと余談になるけど、宮本常一先生の民俗学の書籍も参考になるわ。

(コトネ)宮本常一の話って、このこと。享保の大飢饉(1732年)のときに、人々を飢えから救うため、薩摩藩からサツマイモを取り寄せて栽培した通称『いも代官』の井戸平左衛門(1672~1733)でしょ。明治の頃に、ここに「井戸神社」が建てられたのよ。ちなみに入り口の額の文字は勝海舟がお書きになったのよ。

旧河島家門
  • 衣食住に必要なものと排泄物

(カワセミ)井戸平左衛門も関心あるわ。でも今日は、代官も含めてここに暮らす人の生活を維持した食べ物などの生活全般の調達ごとにしましょう。

一回目に、ちょこっと説明された三番目の領域の「銀の道」と港町ね。日本海の港の鞆ヶ浦道(ともがうらどう)と温泉津沖泊道(ゆのつおきとまりどう)からの物資の運搬よ。銀を運んだ帰りは、お米や食べ物、そして生活用品や道具などを運んだと思います。

(コメコメ)そうね。人が生活するには、お米や野菜、そして動物性たんぱく質の魚や海藻も大切ね。

(カワセミ)米の消費量も一日1500石(225t)と記録にあるの。お茶碗、何杯かしら。人は米やおかずだけではありません。作業着服や働く人の住むところも必要です。病気にもなり怪我もします。それに家族もいます。当然、採掘や精錬以外の事業や仕事も必要よね。家を建てる人、食事を作る人や産婆さん等々。

(ウサッピ)そうか、そうすると、採掘の道具に、その修繕に使う道具、管理台帳のための紙や筆、それに運搬する馬や牛、その餌や荷車の部品も。銀の産出には直接関係ない服や生活用品も。そしてコトネの好きなお酒も必要ね。もちろん飲み屋さんに娯楽施設、それに殿方の好きな遊郭のようなところもあったとしたら、女性を美しくするための嗜好品や装飾品も必要ね。そうだ、芝居小屋もあったよね。するとお芝居の道具や役者さんもいるわ。もちろん奥さんや子供の品もある。大型ショッピングモールごと運ぶことになるわ。

食べる物や娯楽という消費するものだけでないわ。その後のことも重要なことね。ゴミや廃棄物。

(コメコメ)そうね。あまり話題にはされない、おトイレや下水の問題ってすごく大切よ。

(ウサッピ)あの頃なら「厠(かわや)」「雪隠(せっちん)」ね。今みたいに流してしまう水洗便所ではなくて溜めておく「ぽっちゃん便所」。その処理をどうしたのかしら。肥やしに使っても、一日1500石も食べるのよ。畑や田んぼの耕作地が多いとは思えないし。もしかすると銀山周辺の農家に運んだのかしら。あ、牛も馬もするよね。

(コメコメ)確かにー。そういえば、『出雲神話』のなかで、高天ヶ原で「うんこさん」をばら撒いたスサノヲ(素戔嗚尊)様のお話があったよね(※)。神様だって、食べれば、うんこさんもでるよね。

(※「出雲神話と神々」を読んでください)

(カワセミ)ちょっと、ちょっと、みんな待ってよ。トイレの話も大切よ。でも今は生活一般に広げましょうよ。

(コトネ)そうよ。みんなスサノヲ様に失礼よ。あの殿方について語るのは、そこではないのよ。ヤマタノオロチを退治し、助けたクシナダヒメを奥様にし、お家を建ててお守りし、日本最初の和歌を詠った文武両道の知的スーパースターの話でしょ。暴れたのはほんのすこしよ。それを拡大解釈して、スサノヲ様のイメージを悪くしないで。それを一番知っているのはコメコメでしょう(※)。

(※「出雲神話と神々」を読んでください)

(カワセミ)ちょっと。コトネ。貴女もおかしいわ。今、私は人口と生活について話しているのよ。みんな黙ってよ。

きんぴらごぼう
  • 面積と人口

(カワセミ)では、続けますね。最盛期には20万人も暮らしていた石見銀山(江戸時代前期)。その数は、島根県の県庁所在地、松江市の今の人口に匹敵します。

『銀山旧記』は石見銀山の歴史を知る意味でも、世界遺産認定の経緯を理解するにも参考になるから、概要説明の資料は読んでね。

(ウサッピ)えー。すげぇ。というか、松江市ってそんなに少ないの。ねえねえ、鳥取の商業都市、米子市の人口は何人なの。きっともっと多いわ。

(カワセミ)19.3万人よ。少ないわ。

さて、今の地図では正しく比較できないけど参考にしてね。

大田市大森町と松江市の面積を比較します。松江市の面積は573k㎡で大森町は29k㎡です。そんな面積に一時期20万人もいたのです。あのころ日本の人口は1300万ぐらいともいわれているのよ。どれだけ凄いことか人口からも理解できるよね。人口密集率を生活環境に合わせると、その生活振りも想像できます。ちなみに現在は400名弱です。

(ウサッピ)大森の町は1987年(昭和62)に『町並み保存地区』に指定され、そのままの形で保存することが義務化されているよね。ということは昔と変わらないということね。私、大森町の町並みを見学したとき感じたんだけど、大きなお屋敷はなかったよね。代官所だって小さかった。それにお家だけでなくお庭も小さく、商人のお家は道に接していたわ。

(コトネ)素晴らしい気づきよ、ウサッピ。その着眼がカワセミの話に活かされるのよ。ただ、パンを食べていただけではないのね(※)。あら、ごめんなさいね。嫌味ではないのよ。

 ※大森町にあるパン屋さんのこと

(カワセミ) ウサッピの話で気が付いたわ。次に行くときは、再生された古民家をじっくり見たがいいね。家の作りにも銀山に暮らす人たちの生活を見ることができるね。

『魚店』や『京見店』という地名があったよね。今でいう専門店があったところよ。生活の糧を提供する販売店や道具屋さんなど沢山の職種が存在したのよ。

(コメコメ) 大森町にお店があったとしても、どうしたら20万にも人が 住めたのよ。

  • 天上の鉱山町

(カワセミ) 皆がみんな、大森の町に暮らしていたわけではないのよ。

銀の採掘現場の近くにも沢山の住居跡が発見されたのよ。鉱山で働く人や家族は、ここで暮らしていたの。ある意味では鉱山労働者の鉱山町ね。

(ウサッピ)そうね、二交代制とか三交代制で、常に採掘作業は続けられていた。終わったら家に帰り食事をして眠る。できるだけ鉱山に近い方がいいわけね。

(コメコメ) 詳しいことは憶えていないけどさ、今の労働基準法では、原則として1日8時間、1週間40時間を超えて労働させてはいけないよね。そして少なくても1週間に1日の休暇が義務付けられている。時間外労働については36協定で定められている。

でも、現実は、ブラック企業やサービス残業の強制や派遣社員へのしわ寄せなど沢山の問題を抱えているよね。それが、戦前とか、明治大正ではどうかしら。『女工哀史』とか読むと大変よね。江戸時代だったら、もと厳しかったと思うわ。

(ウサッピ) 丁稚奉公でお店に入ったら、年季明けまで給与なしで、外出も制限されていたという落語もあるよね。

(カワセミ) どこに行っても今と比較してしまうよね。でも、今の感覚で判断してはいけないと思う。その当時の生活感覚で考えることが大切だと。それが過去から学び、何をしなければいけないかのヒントになると思う。だから、そのころの生活文化や生活様式を見るようにしているの。その意味で、保存された森山町の町並みや記念館は素晴らしいことよ。

(コトネ) 過去を単純に否定するのでなく学ぶこと。そうよね。わらわは大河ドラマ『青天を衝け』を見て、渋沢栄一先生の『論語と算盤』を読んだわ。渋沢先生は、明治の頃に、すでに商売をする者には「他利」という社会還元の考えと実行が必須だと、そんな理念というか哲学を説き、率先して実行されていらっしゃったのよ。

マーケテイングというと、すぐコトラーを上げるけどね、すでに渋沢先生が、イノベーションと企業理念の大切さを、利益を社会に還元する形で提唱されていたの。

「論語と算盤」

(カワセミ)そうよね。今の労働法や企業経営理論、あるいは哲学で、昔を批評するのではなく、そこから何をくみ取るかね。それが私たちを導き、次の世代への継承となるよね。

綺麗なことだけや、あるいは不平を語るではなく、どのように社会や自然と関わっていたかを、まず理解することね。

(コトネ)完全なモノなんてないのよ。あれば、それでいいじゃないの。歴史は終わるは。でも、完全はないのよ。だから努力するのよ。今回の石見銀山の旅は、銀山という産業だけでなく、人々の生活を視点に入れることの大切を知るいい経験になったわ。

  • 駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人

(カワセミ)「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」ね。私たちはいろんな人が関わっていることを知っている。でも、つい目先のことに忘れてしま。行列や警護だけを見る。たまにファッションから服や履物を作る人のことを考える。それも見た目だけ。行列の人が休憩する所のお店の人や、もっと言えば休憩所をつくった人のことは考えない。さらには行列の先のことなど考えもしない。

そんな気づきも、石見銀山に働くいろいろな階層、職種のひと、そして間接的に関わる人々がいることを、20万人にもいたという驚きから改めて考えることができたの。視点を変えると、いろんなことを考えるわね。

(ウサッピ)バリューチェーンって知っている。企業の中のさまざまな業務を結びつけることで、価値の創出や改善を考えるマーケテイングの理論よ。最近はね、企業の社会的な役割として、その企業がどんなに自然保護をしていても、仕入れ先が自然破壊をしていたらその企業も問題になるのよ。例えば、社会貢献をしている会社でも、下請けの製造工場が海外で子供を低金賃で長時間に渡って雇用していたと問題にされたわ。

(コメコメ)そうか。ウサッピはこう言いたいのね。古民家の再生や町並みの保存は、見た目が美しいとか、癒されているという外観や保護だけではなく、そこには、この町の人々が自然とどのように向き合い、共生のいろんな活動をしているか、その関係や流れを知ることが大切だと。

(カワセミ)旅とはそこにある見た目だけではないわ。社会や自然とどのように関わってきたか、それを知ることで学ぶこともあれば、反省することもある。それが旅にとって大切なことよね。

(コトネ)その意味では、一日だったけど、いい経験になったわね。銀山の歴史を学ぶだけでなく、古民家の美しさや再生の意義を学ぶことを通して、自然との共生の現実的な課題や実行することの大切さを知ることができたから。みんな頑張ってね。

(ウサッピ)でも、うんちのこと気になるな。あれ、コトネ、酒臭くない。

(あわてて地元の酒を隠すコトネであった)

   

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