• ~旅と日々の出会い~
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帰り途は遠かった、来た時よりも遠かった

匿名希望     


そろそろ電話があるかなと不安と妙な期待で『島根国』を読んでいました。
ありました。でも、『島根国』からではなく、『友達の輪』からです。昔、タモリさんの『テレビショッピング』がありました。そんな連絡網『友達の輪』からです。

「書いてあげて、頑張っているのだから」。頑張っているのだからと言われても、頑張っているのが木次線継続の運動なのか、『島根国』の「木次線の思い出」の連載なのか、もしかし島根のため頑張っている『島根国』なのかは不明でした。でも、みんな頑張っているのは確かなことです。私は勇気をもって「いいよ」と告げました。

■大失恋

松江で勤めていた私は、三十代の時に人生最後の大失恋をしました。もう恋なんか決してしないと、まるで演歌やシャンソンの詩のような誓いをしました。そして、朝一番の列車に乗って木次線沿いにある実家に向かいます。もう、彼のことも、松江のことも忘れようと決め、数日分の服を白の鞄に詰めたのです。

小雪の舞う朝でした。
それなのに、山陰本線下りの車両の中では彼が来るのではと期待をします。何度も何度も車窓越しにホームの人影に視線を送ったのです。来るわけないのに。次の乃木駅についても、改札口に無意識に彼を探していました。動き始めると、もしかしたら乗っているのではと人もまばらな車両を見渡しました。絶対に来るわけないのに。

■自分を隠す木次線

木次線に入ると顔を隠しました。誰にも見られたくない。誰にも気づかれたくない。そして誰にも声を掛けられたくない。冬なのにサングラスをして、トレンチコートの襟を立て、スカーフで頭を包んだのです。まるで『雨のアムステルダム』の岸恵子みたいです。いつまでも夢と流れに酔っている。
私はそんな女。そんな気取った女。本当の自分に気づかない滑稽な女。見た目や恰好ばかりの意地っ張りな女。みんな分かっていました。彼に言われなくても分かっていました。でも本当の自分でいたくなかったのです。高い化粧品も、高いアクセサリーも、ブランドの服も、みんなありたい希望の私を創るための仮装でした。

■ここにも私の居場はない

突然の私の姿に父も母も、兄も義姉も驚きました。喜んでくれたのは兄の子供だけでした。でも私の部屋は姪っ子の部屋になり、私の私物はすべて納屋に仕舞われていました。夕食後に「どうしたの」と尋ねられるのではなく、「いつ帰る」でした。
ここに私の居場所かないのではなく、邪魔な存在だったのです。私が去るのを待っているのでした。

家を出た弟が車でやってきて、「姉貴、帰ろう」とドアを開けたのです。泊めてもくれないのだ。

たしかに実家を顧みることもなく、生活費のためにと送金することなく、派手な生活をしていた私。「邪魔なのかな」

大人になった弟は笑って言いました、父は兄に気兼ねし、母は義姉に気遣っていると。農家の両親にとって共稼ぎの兄と義姉の夫婦は現金収入の大黒柱。家の改装も、家族旅行も、そして近所に羨ましがられる生活もみんな兄夫婦のお陰です。

弟はここまでで勘弁してくれと、隣りの駅で降ろしたのです。弟も養子に入った家に気遣っているのです。みんな気遣っている。

■永遠の別れ、木次線と

誰も乗っていない上りの最終列車。スチームのシューシューする音と独特な乾いた風。松江に帰っても誰も相手にしてくれないでしょう。実家も帰るところはありません。通学で使った木次線が、こんな形で終わると思ってもいなかった。
遠くの町に行き、独りで頑張りました。いろんなことがありましたが、退職とともに帰ってきました。でも、木次線に乗る勇気も懐古もありません。じっと過ぎていくのを待っていました。

■ある日、突然、・・・

中高の同窓会も、還暦も、ずっと不参加。昔とは永遠に手を切って、独りで生きてきました。でも幸せでした。気ままであるというよりは、両親に、兄弟に、そして故郷に気遣って生きて来たことが、私に生きていく喜びを教えてくれたのです。

数年前のことです。弟から電話がありました。「〇〇さんを知っているか」と。タクシーの運転手をする弟に「同級生にも同じ苗字の女性がいました」と尋ねられ、話していくうちに「姉です」と答えたと。名刺を頂いたがどうするかと。断りました。だって会いたくないし、思い出したくもなかったのです。それに親しい関係ではありません。「じゃあ、見てあげてよ」と、webサイト『島根国』のことを告げられたのです。

不思議ですね。コロナの開ける頃でしょう、何気なくフェイスブックを検索したのです。顔写真はありませんが、きっとそうなのでしょうね。『島根国』、頑張っているのだ。そんな人でした。いつも道の端を歩いているのに目立つ人だった。

■勇気を頂きました

木次線か。行ってみましょう。『島根国』も頑張っているのだから。
今年のお盆が過ぎたら、弟と一緒に両親とご先祖様の墓参りに行くことにしました。何十年ぶり。そして、雪の積もり始めた木次線に乗って故郷と永遠に別れた以来です。

弟は車で、私は『島根国』とのご縁で木次線を使って。ただし、一つ手前の駅で降りて弟の車に乗ります。義姉家族に迷惑をかけたくないし、近所の人にも会いたくないのです。
お墓参りが終わったら帰りは弟の車で奥出雲の横田まで行き、出雲そばご本家の小そばで作る割り子そばを頂き、出雲横田駅から帰ります。少しは「木次線全線継続」の協力の真似事をしてみます。

他人になった木次線。この原稿も原稿用紙に書いて友達に投函して頂きます。木次線もこれが最後かな。貴重な思い出にします。

最後に、『島根国』さん、ずいぶん変わったね。ずっと応援します。もちろん木次線もです。

『私はあなたたちの側(そば)よりも、雲州横田の蕎麦(そば)がいい』

奥出雲の割り子そば

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