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「聖地」亀嵩は『砂の器』とどう関わってきたか?

村田 英治     


はじめに

 1974(昭和49)年の公開から半世紀を経てなお、世代を超えて多くの人々の心を捉える映画『砂の器』の特別上映会が、10月17日(土)に島根県奥出雲町の亀嵩(かめだけ)で開催される。

 単に作品の舞台の一つというだけでなく、亀嵩はその地名自体が謎解きの鍵となっており、これを欠いては物語が成立しない特別な場所である。この「聖地」亀嵩を目指して全国からはるばる訪れる『砂の器』ファンは、令和になった今も絶えることはない。

 <『砂の器』といえば亀嵩、亀嵩といえば『砂の器』>と言われるほど、両者は切っても切れない関係にあるが、その具体的な関わりについてはあまり知られていない。

 本稿では『砂の器』の小説執筆および映画化のプロセスにおける作り手たちと亀嵩との接点を、映画公開後の動きも含めて、時系列に沿って簡潔に整理する。映画をより深く味わうための参考になれば幸いである。内容に関してさらに詳しく知りたい方は、拙著【『砂の器』と木次線】をお読みいただきたい。

小説執筆と出雲弁校正(1960年9月)

 戦後の日本を代表する人気作家、松本清張が小説『砂の器』を読売新聞夕刊に連載したのは1960(昭和35)年から翌年にかけてだった。

 当時50代初めの清張は、実はそれまで亀嵩を訪れたことは一度もない。また既に東京で売れっ子作家となり日々原稿の締め切りに追われていたため、自ら亀嵩へ取材に出かける余裕もなかった。(本人の後年の講演によれば、結局清張が初めて亀嵩に足を運んだのは、映画が作られた後のことだったという。)

 しかし小説のディテールを書き込むには、亀嵩がどんな土地なのか、具体的な情報がそれなりに必要になる。また、亀嵩の場面に登場する人物、桐原小十郎が話す出雲弁の台詞については、清張がいったん共通語(標準語)で書いた原稿を、誰かに出雲弁に「翻訳」してもらわなければならなかった。そこで読売新聞の担当編集者と松江支局を通じて、地元の協力者への依頼が行われた。

 協力したのは、伝統産業である雲州算盤の製造を手がけていた亀嵩算盤合名会社の社長、若槻健吉氏と役員を務める2人の弟だった。兄弟は1週間ほどかけて出雲弁の台詞の校正を行ったという。当時の会社の営業日誌(1960年9月)を見ると、9月1日の欄に〈松本清張の推理小説の舞台、亀嵩となる。『砂の器』。〉、6日には〈社長 専務 出松 砂の器 原稿訂正の件〉との記載がある。「出松」とは「松江へ出る」の意で、出雲弁の校正作業のために社長と専務が松江支局へ出向いたことを示す。

 後日、若槻氏らは東京の清張に雲州算盤を贈った。清張から直接の反応はなかったが、しばらくして連載中の作品の中に算盤が登場(第11章第4節)し、亀嵩の人々は大いに喜んだという。

映画化に向けたシナリオハンティング(1962年2月)

 『砂の器』を映画化する構想は、清張が新聞連載を始めた初期の段階から、松竹で進められていた。連載終了の翌年、1962(昭和37)年2月には、脚本を手がけた橋本忍と山田洋次ら松竹関係者が、シナリオハンティングを目的に木次線と車を乗り継いで1泊2日で亀嵩を訪れている。

 当時、仁多町(現・奥出雲町)役場の総務課長として一行の案内役を務めた宇田川實氏の手帳によると、2月1日に木次線の列車で出雲三成駅に到着した橋本たちは、三成の警察署などをまわり、亀嵩の村上旅館に宿泊した。橋本は後年の講演で、この時旅館で食べた米や餅、そばが非常に美味しく感動したと語っている。翌2日、橋本たちは亀嵩の算盤会社や職人の工房、駐在所などを見て、出雲三成駅から午後4時過ぎの快速列車で帰途についた。

 同年には一部のシーンの撮影が始まったが、ほどなく松竹は社長命令で『砂の器』の製作を中止した。紆余曲折の末、最終的に橋本が設立した橋本プロダクションと松竹の共同製作が決まり、正式にクランクインするまでには小説発表から14年もかかった。

島根・木次線沿線で映画ロケ(1974年8月)

 野村芳太郎監督が率いる映画『砂の器』の撮影隊が、亀嵩など木次線沿線の各地でロケを行ったのは、1974(昭和49)年の8月22日から29日にかけてである。俳優では主演の丹波哲郎をはじめ、加藤嘉、緒形拳らがこのロケに参加している。

 亀嵩の上分地区では、今西刑事(丹波哲郎)が桐原老人を訪ねるシーンが、地元の旧家を桐原家に見立てて撮影され、案内の巡査役は地元のエキストラが演じた。また1300年以上の歴史がある亀嵩の湯野神社では、三木謙一(緒形拳)が、本浦千代吉(加藤嘉)と秀夫(春田和秀)の父子と出会うシーンが撮影され、三成の小学生たちがエキストラを務めた。

 一方で「亀嵩駅」の映像は実際の亀嵩駅では撮影されず、駅舎は同じ木次線の八川駅で、ホームでの撮影は出雲八代駅で行われている。また大東町(現・雲南市)の下久野では、農家の敷地に「亀嵩駐在所」のセットが建てられるなど、「亀嵩」という設定で数多くのシーンが撮影された。

 監督の野村は物語の中の「亀嵩」のイメージを、より観客の心に残る印象的な映像で作り上げるため、ロケの対象を亀嵩地区だけではなく、木次線沿線の周辺地域にまで広げて、ふさわしい撮影地点を探したのである。

「砂の器記念碑」の建立(1983年10月)

 1974年10月に公開された映画『砂の器』は興行的にもヒットし、国内外の賞をいくつも獲得するなど高く評価された。映画の成功によって亀嵩はさらに有名になり、訪れる人も増えた。

 映画公開の9年後、松本清張への感謝と郷土の誇りの証として、地元の有志が中心となり、湯野神社の大鳥居横に『砂の器』の記念碑が建立された。除幕式には記念碑の文字を揮毫した松本清張をはじめ、映画に携わった野村芳太郎、橋本忍、丹波哲郎、緒形拳らが招かれ、大勢の地元の人たちと完成を祝った。

その後~現在

 亀嵩ではその後も、いくつかのテレビドラマ版『砂の器』(1991年テレビ朝日、2004年TBSなど)のロケが行われている。

 また映画公開50周年にあたる一昨年(2024年)は、亀嵩小学校(現在は閉校)の体育館で「砂の器記念祭」というイベントが開催された。映画の上映、トークショー、テーマ曲「宿命」を地元音楽家が演奏するミニコンサートなどが行われ、全国から600人を超えるファンが集まった。

 そして【『砂の器』奥出雲・亀嵩特別上映会2026】として、この秋、亀嵩の地で2年ぶりの上映が決まった。映画公開当時と同じ35ミリフィルムで、スクリーンに半世紀前の亀嵩や木次線沿線の懐かしい風景がよみがえる。名作『砂の器』を「聖地」で鑑賞する特別な体験を、この機会にぜひ存分に味わっていただきたい。

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