• ~旅と日々の出会い~
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第3回 乗客・駅務員・乗務員群像➁『富山の薬売り』

小学校入学祝い

「小学校、入学おめでとう。おじさんからのお祝いだよ」と差し出されたエンピツ1ダース。今でもしっかり脳裏に焼き付いている。黄色の箱の一部が切り取られ紺色のエンピツが覗く、『トンボ鉛筆』。1958年(昭和33年)の旧正月明けの2月のことだ。

中国山地・八岐大蛇伝説の残る船通山の麓、横田町 (現奥出雲町)。根雪の上に雪が積もる冷え冷えとした畳の部屋で、炭炬燵を祖父と両親、その間に私、そして大きな葛篭を横に置く通称「富山の薬売りのおじさん」が囲む。

いつもならば差し出された紙風船か三角錐の紙帽子を手に席を立つのだが、その日は違った。

「そげなことをせんでも」と父が一度、鉛筆を差し戻す。「おめでたいことですけん」と押し戻し、「こうして大きく成らっしゃった、私からの感謝の印ですわ」と私の手に渡す。間があって、「ありがとうございます」と母がよそ行きの言葉で礼を言い、受け取るように促す。(このような会話があったと推測する)

鉛筆は父の使い古しだった。それが自分だけの未使用の鉛筆をもらったのである。嬉しさと共に「富山の薬売りのおじさん」にいつもと異なる興味を持った。なぜ、入学することを知っているのか、なぜ貴重な鉛筆を1ダースくれるのか、不思議だった。

薬の大福帳

置き薬の箱の入った薬と数を台帳とチェックし、それにあわせて集金する。作業をしながら薬ごとの減り具合と家族の健康や日常生活についてたずね、その状況・要望に合わせて補充する。頓服、正露丸、胃薬、赤チン、メンソレータム、サロンパス(?)は常に補充された。あわせて新薬についても紹介する。

おじさんは和紙を綴じた『薬台帳』に墨筆で記入し、置き薬の箱に新しく薬と数量を書いた紙をいれる。その間、祖父や父がたずねることに講談師のように笑いをそえて話す。社会政治だけでない。母にもどこの里の娘がどこそこに嫁に行ったとか、こんな映画が上映されたなど世間話もする。

政治談議に芸能話や世間話は昼食になっても続く。おじさんは決まって竹の皮で包んだおにぎりを開く。母が、作り置きの野菜の煮つけや漬物と焼いた小ぶりの干し魚、冬ならば出来たてのクジラの皮のかす汁をだす。

お客様台帳

食後の番茶をすするおじさんに尋ねた、「どうして鉛筆をくれるの。どうして知っているの」

「ボクだけに見せてあげる」と、薬の台帳とは違う黒くて硬い表紙のついた大判の台帳の紙縒り(こより)を挟んだページを開いた。細かな墨文字が規則正しくびっしりと書かれ、ところどころ墨で線を引かれ書き込みがある。あるいは和紙の切れ端が貼られ文字が書かれていた。

漢字の読めない私に、それが何を意味するか分かりはしない。おじさんは、命よりも大切で、この町のいろんな人のことを書いていると微笑んだ。そこに私のことも書かれていて、いつ入学するかも、体調がどうかも、なんでも分かると説明してくれた。
それが『顧客台帳』であることに気づくのは後のことである。

この思い出が、編集者となり、担当著者をもち、さらには新規に原稿を依頼する著者や先生の「著書・分野・大学コマ数」等を書き込んだカード(著者台帳)を作るときの重要なポイントとなった。「富山の薬売りのおじさん」のように、大切なことは台帳を作ることではなく、相手とどのように接し、何を記録するかであった。

富山の薬売り

・薬売りのおじさんは物売りではない

「富山の薬売り」は、江戸時代から300年以上続く、日本の伝統的な「置き薬(配置薬)」の商売で、「おじさん」はそれを支えた商人(行商・営業)たちのことである。今のオフィスにある「置き菓子(オフィスグリコなど)」や「サブスクリプション」と基本的な仕組みは同じである。

現在なら目新しくもないが、当時は画期的だった。

  1. 「先用後利」。先に使ってもらい(置き薬)、利益は後から(使った分だけ集金)もらう信頼のビジネス。
  2. おまけの「紙風船」。おじさんは、まず、こどもたちにお土産として「紙風船」や簡単な「絵草紙」をくれる。これが1対1の関係ではなく、1対家族(n)の関係となる。さらには、居合せた次の世代や近所の人との繋がりとなる。顧客の深耕と新規顧客の獲得。
  3. 浮世絵風の「版画」。薬の袋やパッケージを彩る浮世絵(版画)を配る。当時、包装紙は大切で、綺麗にはがして丁寧に畳んで保存し、贈り物の包み紙だけでなく、襖の修繕などにも活用した。『主婦の友』の付録や新聞のチラシと根本的に異なる妖艶で古風な絵柄は装飾にもなった。会社のブランド化。

こんなお土産を持った富山の薬売りのおじさんは、物売りではない。なによりも遠くの町の出来事や隣の町や村の冠婚葬祭などの話も持ってくる講談師でもあり、宣伝マンであり、コミュニケータでもあった。町にテレビもない時代のことである。

・始まりの歴史

富山の薬売りの始まりは、元禄3(1690)年、富山藩の2代目藩主・前田正甫が江戸城に登城した際、激しい腹痛に襲われた三春藩(福島県)の藩主に遭遇した。正甫は印籠から富山特産の胃腸薬「反魂丹(はんごんたん)」を取り出して飲ませた。すると腹痛が治まった。これを見た諸大名たちが、欲しいとと望んだことから、富山の薬売りが全国へ広がと伝えられている。

その歴史と文化を体感できるスポットが富山市内にある。池田屋安兵衛商店、富山県民会館分館 薬種商の館・金岡邸。

・木次線と奥出雲と薬売りのおじさん

薬売りのおじさんは木次線に乗ってきた。そして駅前の旅館(旅籠屋)に泊まり、山奥の農家、林業や土木関係者の家々を訪ね歩く。38豪雪の時、雪は4メートルも積もり木次線も道路も遮断され、自衛隊が小学校に駐屯して除雪した。その時も、薬売りのおじさんは長靴にがんじきを着装して薬を運んだらしい。無医村にとって「生命」でもあった。

富山の薬売りのおじさんは1人ではない。もちろん薬屋も1社ではない。どこの家にも置き薬の箱が3、4個あった。

薬売りの組織は多様である。印象的なのは直江薬品だ。興味のある方は調べていただきたい。江戸時代、富山から出雲に来た薬売りが、同じ名前の「直江」村(山陰本線の出雲市駅の隣りに直江駅がある)に運命を感じて拠点をつくったという。また富山の売薬業界が作った廣貫堂の薬を背負って行商する個人行商人たちもいる。これら伝統的な会社に富士薬品なども参加し、現在でも奥出雲地域をカバーしている。

健康管理と日々の問い返し

・待合室に吹く『風』

薬売りのおじさんに限らず、外と内を繋ぐ行商の人は木次線でやって来て、木次線で去る。祭りや儀式・行事の前後となると、多種多様の行商の人が駅の待合室で合流する。そこはいわば無料のサロンである。情報交換をする行商もいれば、商売の具合から政治経済を熱っぽく語る行商もいる。そこに地元の人が混じることもある。

今ならば飲み屋にでも流れることだろう。しかし、その頃は駅前に安い飲み屋や立ち飲みはなかった(今もない)。それに、みんなにも外で飲む習慣も余裕もなかったと思う。

汽車で帰ってくる父を待ちながら行商の輪のそばで話を聞いた。この町とは違う『風』が吹いていた。政治の話に、スポーツ・芸能、そして島根の行く末と。その見知らぬ『風』に触れるだけでわくわくした。

思うに、みんな情報に飢えていた。そして、みんなどう生きるか、日本をどうするかを真剣に考えていたと思う。もちろん今の人たちも同じだと思うが。ただ、あのころは「戦争」と「飢え」、そして「不安」と「希望」が織りなっていた。それに語り合うことが好きだった。ときに行き過ぎることもあったが。

駅の待合室は、そんな異文化と異種人が、情報を交換し、意見を言い合う空間だった。

・老病死生

そんな行商の人の中にあって、健康と身体を担う薬売りのおじさんの話は意味深かった。農村部の重要課題「貧血」と「脚気」「婦人病」、「結核」と「脳溢血」を環境と生活の改善からだと位置付ける。その初期の、わずかなお手伝いができることが置き薬の使命だと話してくれたのが、中学の時だ。

病気になってから記録される医者のカルテとは違って、薬売りの「顧客台帳」には健康な時からの記録があると話してくれたのが、一緒に松江に出る汽車のなかだった。また、お坊さんの説く悟りの「老病死生」とは真逆の、生き抜くための「老病死生」の説教師だとも笑った。

ドラッグストアで薬を求めるとき、ふと思う。ここに、子どもの頃から私の成長を見てきた富山の薬売りのおじさんがいたら、どんな指導をするのだろうと。きっとこういうだろう、「ボクにとって何が一番大切かな」。そしておじさんは、その大切なものを守るために何をしようかという。その一時対処に薬補飲むのだよと諭す。
歯が痛いなら、毎日歯を磨こうね。扁桃腺腫れたら、日ごろから身体を鍛えよう。好き嫌いをなくそう。痛くなったら、それに気づくことだと。

・駅は内と外のコミュニティ

行商の人は善人だけではない。町に来て悪さをする行商もいた。詐欺師や押し売りをする行商もいた。青年団と取っ組み合いの喧嘩をする現場も見た。そんな行商は駅を通して町に来ても、昼間の駅から町を出ることはない。歩いて町を去るか、夜中の夜行列車でいなくなる。
駅は、外と内を繋ぎ、和合する空間でありつつも、外敵を遮断する所でもあった。

しかし、駅の待合室の大きな役割は、また来る人、また来たい人が、次の再会の為に情報を交換するためにある。そして来る人・去る人、ここに暮らす人の三者が、日本やこの町をどのようにしたいか、どのようにするか、そのために何が出来るかを話し合う社交場であった。駅は関所でない。駅は今風に言えば「カフェテラス」である。

木次線の一部廃線が噂される昨今。帰郷の折には一度は木次線を利用し、駅に降りると暫し待合室で時を過ごす。それは思い出を辿るためではない。子どもの頃、少年の頃、憧れた見知らぬ人と出会って語らいをするためだ。しかし、今、語らう人をみない。そして私が外からの人になっている。

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