• ~旅と日々の出会い~
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二十二回 さようなら、闇を裂く須佐之男命の影 岩手県・黒石寺蘇民祭

― 真に輝くのは裏方(運営者)の日々の活動と情念 ―

黒石寺の裸祭り「蘇民祭(そみんさい)」

岩手県を中心に千年以上の歴史をもつ選択無形民俗文化財の裸祭り「蘇民祭」。なかでも日本三大奇祭、日本三大裸祭りに挙げられるのが、蘇民袋争奪戦で話題になる奥州市の黒石寺の蘇民祭です。2008年、上半身裸のポスターの是非をめぐりJR東日本が構内での掲載を認めず話題になりました。

今年(2024年)2月17日、千年続いたこの祭りの歴史が閉じました。夜のニュースでは現地からのライブで、勇姿の褌姿と情念の激突、そして「ジャッソー、ジョヤサ」の雄叫びが肉体から発する湯気とともに配信されました。

黒石寺蘇民祭が継続されないことについて、webサイト「妙見山黒石寺」に住職の藤波大吾氏の挨拶が記載されています。苦渋の選択の心が伝わってきます。是非、ご覧ください。       

残念で無念なことです。千年も続いた地方の文化・民俗が消えるのです。
すべての祭りは、その日のその一瞬の絶頂と安全だけではありません。一瞬のために長期に渡る準備と、終了したのちの片づけと来年への引継ぎの仕事があります。関係者や周辺住民へのお礼もあるでしょう。もちろん仕事を休み、会社を休むことによる金銭的・時間的な負荷もかかります。それをすべて主催者と運営者は黙々と、日々の生活の中でこなすのです。
この決定は、住職、檀家集、町の人々、協力者の皆様の悔恨の話し合いであり苦渋の判断だと推測します。

さて、幕をおろした「蘇民祭」を『島根国』にも留める意味でも、また東北地方に広く伝わる「蘇民祭」に触れ、訪ねて頂くためにも、スサノオノミコト(素戔嗚尊、須佐之男命)との繋がりを紹介します。あわせて関連するこのコーナーの「京都・八坂神社」「東京・素戔嗚神社」もご覧ください。

黒石寺(画像提供 奥州市商業観光課並びに黒石寺)
蘇民祭の蘇民袋と『備後国風土記』の蘇民将来

・蘇民祭の蘇民袋

黒石寺の蘇民祭・裸祭りは、梵鐘の音とともに境内や周辺の雰囲気が一変します。
水垢離(みずごり)をした浄飯米(おはんねり)を持つ祈願者が、「ジャッソー、ジョヤサ」の掛け声とともに、五穀豊穣・無病息災を祈願して本堂を回るのです。そして夜半、褌姿の男たちが松明(柴燈木/ひたき)を手に向かいます。男児が扮する鬼子が福物のを境内に撒き、やがて麻袋の「蘇民袋」をもった男から受け取ると、蘇民袋を切り裂き、なかの福物の小間木(こまき)を撒きます。祭りのクライマックスは、引き裂かれた蘇民袋を褌姿の男たちが奪い合う場面です。肉体のぶつかる熱気と情念に堂全体が白い湯気に包まれ、テレビ画面からもはっきりわかりました。祭りの終わりは、蘇民袋の元にいちばん近い部分を持っていた男がその年の取主(とりぬし)となり、地区の豊作が決まります。まさに身体をはった壮絶な裸祭りです。

古間木を入れた「蘇民袋」の原型は、奈良時代に編纂された『備後国風土記』逸文(鎌倉時代末期の『釈日本記』)とされています。八坂神社の牛頭天王(素戔嗚=須佐之男命)の「茅の輪くぐり」と同じ起源です。

京都 八坂神社

・『備後国風土記』の蘇民将来

『備後国風土記』逸文に記載された「蘇民将来」について、少し長くなりますが意訳された一部を転記します。

備後の国の風土記にいはく。疫隈(えのくま)の国つ社。昔、北の海にいた武塔(むたふ)の神が、南の海の神の女子をよばひに出で、日暮れた。その所に蘇民将来二人いた。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百あり。武塔の神、宿処を借りたというと、弟は惜しみて貸さず、兄の蘇民将来は貧しいながらも粟飯でもてなした。年を経て妻と子供を授かった蘇民将来の前に現れた、「茅の輪をもちて、腰の上に着けよ」とのりたまりし。即夜(そのよ)に蘇民以外すべて亡くなった。「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けよ」と言った。

・蘇民将来つながり

この逸話を基に平安時代中期に、蘇民祭の原形が出来上がったと伝えられています。武塔神の正体も地域により様々で、黒石寺は薬師如来です。疫病や天災など不安定な時代、神に頼る信仰は人々の間に広まり、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり」がそれぞれの地域性や継承の過程で変化したのでしょう。
救うのが誰かでなく、人々が共有しやすい「モノ」ではなく抽象化された「コト」が神となり。「コト」がその地域性であり、民俗なのです。

黒石寺に残されている1773年の「黒石寺書上」にも風土記とほぼ同じ文が残されているそうです。

蘇民祭は黒石寺以外にも東北地方の寺社で行われています。
興田神社蘇民祭(一関市)、長徳寺蘇民祭(一関市)、伊手熊野神社蘇民祭(奥州市)、永岡蘇民祭(金ケ崎町等)、胡四王神社蘇民祭(花巻市)、光勝寺五大尊蘇民祭(花巻市)、早池峰神社蘇民祭(花巻市)等。

黒石寺(画像提供 奥州市商業観光課並びに黒石寺)
茅(ちがや)の輪くぐり

スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた備後国の蘇民将来(そみんしょうらい)との逸話を起源とする儀式が「茅の輪くぐり」です。六月末、また年の瀬、寺社の参道や鳥居などに茅(ちがや)という草で編んだ直径数メートルの輪を置き、これをくぐることで心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願します。この頃はいろんな寺社で見かけます。体験された方も多いでしょう。

・京都・八坂神社の祇園祭と「茅の輪くぐり」

京都・八坂神社は、スサノオノミコト(須佐之男命・素戔嗚尊)と妻の串稲田姫、大国主命が祀られています。また黒石寺同様に薬師如来を本地仏として祀っています。

「祇園さん」と地元で呼ばれ親しまれる八坂神社は、日本三大祭のひとつ『祇園祭』が有名です。7月1日から1ヶ月間に渡って行われる祇園祭は、1100年前に流行った疫病の除去を願って生まれました。
祇園祭を前後ではさむように八坂神社の「茅の輪くぐり」は6月30日の「大祓式(おおはらえしき)」、7月31日の「疫神社夏越祭」に設置され、「蘇民将来子孫也」と唱えながら、健康を祈って八の字を描いて歩き、無病息災をお願いします。和菓子「水無月」と粽のお守り、そして山鉾巡行は京の夏の風物詩です。

『備後国風土記』の「茅の輪をもちて、腰の上に着けよ」「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり」「後の世に疾気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けよ」。
地方の風土、生活、そして自然との関わりによってその地ならではの儀式となり、年月を経ることで洗練された祭りや風習になったのです。その地域性が面白く、また地域性があるがゆえに残ってほしいと思う次第です。また、読むたびに『風土記』の記述は具体的だと思う一方、中央から来た役人が編纂した気風を感じます(『出雲國風土記』は地元)。

『出雲國風土記』(古代出雲歴史博物館)
おしまい

完全になくなるのでしょうか?
費用と人材の確保で継続できるものではなく、伝統と情念、引き継ぐ人の『心』があって成り立つのです。それが地元の伝統と習慣に培われた『風土』であり、共同体の『気質』でしょう。そうであるがゆえに、一年、二年とブランクがあると風土や共同体気質は薄れ、やがて消えてゆき、誰かが残した『マニュアル』と映像だけが唯一の伝承物となるでしょう。

文化は時代とともに変化するという考えがあります。「過去」だけにこだわるのでなく「現在」を大切にする。淘汰され、否定され、あらためられ、新たに形成される文化もあります。そして「現在」だけにこだわるのではなく「未来」も大切にしなければなりません。それは人類が同じ自然破壊を繰り返さないために、未来の世代と文化と自然を共有するために。

今回の廃止という決断は、都市と地方の経済の不均等発展による過疎化を抜きには考えられません。人がいなくなれば「文化」も途絶えます。やがて自然界の摂理と同じで消えてなくなります。なくなったものは再生しないでしょう。

スティープ・ジョブスの言葉です。

「人は形にして見せてもらうまで自分は何が欲しいかわからないものだ」。
消費者や生活者が何を求めているか、その心(夢・欲求)を知り形にして見せるのが企業です。場合によっては、目先の豪華さ、便利さ、用途の可能性等に飛びつくこともあります。しかし本当に生活者の「心」を形にしないと支持される時代ではなくなりました。企業が生活者とコミュニケーションを図るのも、その根底には「心」を大切にするからです。

伝統の祭りや儀式のなかに、たとえかつては貴族や武士階級の慣わしであったとしても、近代以降は人々も参加する祭りや儀式に人々の「安寧」「豊作」「無病」「幸せ」といった「心」が込められているのです。

いつの日か、せめて形だけと資料館が建設され、たとえばデジタルサイネージとAIで充実したコンテンツで満たされます。これも大切なことです。でも科学と技術の発展に、現状の科学と技術の施設は陳腐化するのです。科学が科学を、技術が技術を凌駕するのです。真空管、トランジスター、半導体と変化する中で製品のコンセプトさえ変わり、その変化かが生活様式さえ変えたように。だからこそ記録(コンテンツ)だけでも残すのだと。

しかし、記録の中には千年の間、継承されてきた祭りが醸す雰囲気と情念、そして主催者や参加者の期待と思いを残すことはできません。それは形ではないからです。

その心に触れることはできないのか? すこし体験できます。それは現地、現場を訪ね五感で感じ想像することです。

奥州の地を訪ね、お寺で深呼吸し、大木に抱きつき、テレビや冊子で見たあの光景と熱気を思い出してみるのです。きっと貴方の記憶が、鮮やかな情熱となって、あるいはモノクロの鋭利な感動となって蘇るでしょう。もしかすると薬師如来が、素戔嗚尊(須佐之男命)が現れるかもしれません。
この春、奥州の旅にでかけませんか。そして今一度、文化を「失う」という意味を考えてみましょう。

黒石寺以外の観光名所を紹介します。

・歴史公園えさし藤原の郷

奥州市江刺は、平泉『藤原三代』の初代清衡とその父・経清が暮らしていた土地です。『歴史公園えさし藤原の郷』は平成5年(1993)、藤原氏の興亡を題材にしたNHK大河ドラマ『炎立つ』の撮影を契機につくられた平安時代の歴史テーマパークです。平安貴族の住宅、寝殿造の建物などが再現されています。四季折々の東北の花とともにお楽しみください。

えさし藤原の郷 (画像提供 奥州市商業観光課並びにえさし藤原の郷)

・正法寺

正法寺は、道元禪師よって1348年、開創されました。厳しい禪風のもとに多くの人々を輩出しました。現在も求道の修行の寺であるとともに、多くの人々の憩いの場所として開かれています。伽藍や庭園の佇まいに身を委ね、己を問うてみるのも、またぼっーとするのも安らぎでもあり、もしかすると気づきになるでしょう。

正法寺 (画像提供 奥州市商業観光課並びに正法寺)

そのほかに戸隠神社、愛宕神社、高野長英記念館などあります。平泉中尊寺や松尾芭蕉『奥の細道』等の旅とともに是非、お出かけください。

『島根国』より。

当サイトのなかの「歴史と人物」のコーナー、『義経は天にはばたけ、弁慶は大地に立ちつくす』で、松江生まれの弁慶伝説とともに、源義経は平泉で亡くならずに三陸海岸から青森・北海道を経て大陸に渡った伝説を物語として紹介しています。義経・静御前・弁慶の鼎の物語もあわせてご覧ください。(江刺・多聞寺も紹介されます)

■ 奥州市観光についての問合せ先

奥州市商工観光部商業観光課
〒023-8501 岩手県奥州市水沢大手町一丁目一番地 
TEL 0197-34-1760

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