世界遺産「石見銀山」の大森町に本社と製作現場をもつ、従業員80名程の人工乳房『ビビファイ』で有名な義肢装具メーカー、中村ブレイス株式会社。創業者の会長・中村俊郎氏の感謝とプラス思考、「小さな町から世界へ」の熱い思い、そして「think」を核としたイノベーションで、社員の皆様とともに患者さんに喜ばれる製品の開発に努められました。現在はその意思を社長の中村宣郎氏が引き継いでおられます。
今回、代表取締役社長である 中村宣郎氏 から 、創業者で会長の中村俊郎氏の経験と学び、中村ブレイスの企業理念と患者さんとともに歩む事業活動、そして今回の目的である、大森町の町づくりや古民家再生の活動とフィロソフィーなどをお聞きしました。
中村宣郎(のぶろう)氏 略歴 1977(昭和52)年、島根県大森町に生まれる 1995(平成 7)年、島根県立大田高校卒業 2000(平成12)年、日本大学経済学部経済学科卒業 2003(平成15)年、早稲田医療専門学校義肢装具学科卒業 2003(平成 15)年、中村ブレイス株式会社入社 2009(平成 21)年、島根大学大学院医学系研究科医科学専攻修士課程卒業 2010(平成 22)年、専務取締役に就任 2018(平成 30)年、代表取締役社長に就任 現在に至る 義肢装具士(厚生労働省)-登録2003年4月8日
かつて世界が認めた銀産出の『ジパングの石見銀山』は、現在の大田市にあります。世界の銀の約三分の一を産出する日本の、そのほとんどがここ石見銀山で産出されたのでした。江戸時代初期には20万人もの人々が暮らしていたといわれていますが、江戸時代中期の1730年を境に産銀量は減少しつづけ、1923年(大正12年)石見銀山は廃鉱となりました。そのころの繁栄ぶりを残すのが大森町の家屋や町並みです。
戦後、日本経済は高度成長期を迎えると都市は地方に暮らす若者を労働力として求め、逆に職のすくない地方の若者は仕事を求め都市へと旅立ったのです。繁栄と経済の集中化は都市と地方の二極化をもたらし、山村の過疎化と崩壊をもたらしました。
それは石見銀山のある大森町も同じでした。活力のあった時代の面影を残す家屋や家並みから、人がいなくなり、住む人を失った家屋は生気を失ったのです。
そんな大森の町が再び美しく活力のある町へ復活するために、地元ではいろいろな活動に取り組んできました。そして続いています。
今回、町役場など古い建物を残せなかった後悔から、「町並み保存」の一助として古民家の再生を自費で手がけておられる中村ブレイス株式会社をお訪ねしました。「会社は地域とともに存在する」を信念に、すでに64軒(2021年10月現在) の古民家を再生されています。
中村ブレイス株式会社。
世界遺産「石見銀山」の大森町に本社と製作現場をもつ、従業員80名程の人工乳房『ビビファイ』で有名な義肢装具メーカーです。創業者の会長・中村俊郎氏は父親の思いと、感謝とプラス思考、「小さな町から世界へ」の熱い思い、そして「think」を核としたイノベーションで、社員の皆様とともに患者さんに喜ばれる製品の開発に努めらました。現在はその意思を社長の中村宣郎氏が引き継いでおられます。
中村ブレイス株式会社のドアを開けると、私は驚き、元気になりました。
「いらっしゃませ」「こんにちは」。元気のある明るい声で迎えられ、私も負けまいと大きな声で名乗りました。温まる出会いでした。
社長の中村宣郎氏からお話をおききしました。
全体は、①「中村ブレイス株式会社」創業者で会長の中村俊郎氏の経験と学び、②中村ブレイスの企業理念と患者さんとともに歩む事業活動、そして今回の目的である、③大森町の古民家再生の活動とフィロソフィーです。
それぞれには壮大なドラマと考えがあり、それぞれが独立しているように見えます。しかし、一つの思いはすべての思いであり、一つの学びはすべての知識となり、それは根底で互いに深く交じり合い、相互に影響し合っています。だからこそ、患者さんとともに、社員とともに、そして地域とともに歩んでこられたのだと思います。
中村ブレイスの本社は、世界遺産「石見銀山」の大森町の代官所(現在の石見銀山資料館)に隣接するもともと代官所の藏があった所に建てた建物です。
「会長が会社を創業した1974年の頃は、大森町はゴーストタウンのような町並みだったと聞いております」と中村宣郎氏はお話されました。
現在、4百人程の人が暮らす大森町に、250軒程の家屋が残っています。
高度経済成長の中、さびれゆく大森町を復活しようと、1957年(昭和32年)、石見銀山の保存とPRを目的に『大森町文化財保存会』が結成されました。1969年(昭和44年)に国史跡指定に導く活動がはじまり、1987年(昭和62年)に大森町全体の町並み保存を目的とした国の『重要伝統的建造物群保存地区』に指定されます。
その後、行政による多くの調査研究や住民参加の活動を経て、秋川雅史の『千の風になって』が流行っていた2007年(平成19年)に、石見銀山は世界遺産に登録されました。中村俊郎氏も県の教育委員長として尽力されました。
町並み保存地区や世界遺産に認定されることは、家屋の建て直しも基準内という規制があります。また住む人もいなくなり老朽化する民家も当然あります。昔の景観を残すということは、何も手を加えないまま自然崩壊を待つということではありません。むしろ昔の景観を再生・維持するために手間も費用もかかります。それだけではありません。
町並みの保護や自然との共存は、過去の人々が生活を通して残した文化をどう受け止め、創意し未来へと継承するとともに、ここに暮らす人々の生活や仕事と調和をとり、意識を育くむかも大切です。町をどのように創るかのアイディアや知恵とともに旅行客も含めた外からの人の『大森町』への意識変革も求められます。
初めに中村ブレイスの事業と事業の根底を形成するフィロソフィーを、会長の中村俊郎氏の人生を通して紹介して頂きました。
中村ブレイスの会長である中村俊郎氏が、大森町に生まれたのが1948年(昭和23年)。中村俊郎氏の長男である社長の中村宣郎氏が生まれたのも大森町で、1977年(和52年)です。お二人とも大森町から大田高校に通学され、少年期をこの大森町で過ごされました。
「社員は80名で、義肢装具の製造・販売業務を行っています。主な製品は、シリコーンゴムを使用したインソールやサポーター、コルセットなどの装具や義手義足などの義肢です。またこの技術と当社のノウハウを活用してオリジナルな義肢装具の開発・製作を行い、日本全国だけでなく世界の各国にも提供しています」
事業の概要をお話された中村宣郎氏は、「入り口のお礼の手紙をご覧になりましたか」と控えめにお話しされた。それは乳癌手術で乳房を失い人工乳房で喜びを取り戻した女性をはじめ人工耳や人工指で幸せを得た人たちのお礼の手紙です。
「1991年、メディカルアート研究所を設立しました。これは乳癌術後用人工乳房『ビビファイ』や、身体のあらゆる部分の欠損や損傷を補正する『スキルナー』の研究・開発から製作を行っています」
「ものづくりだけではありません」と強調されました。
「大切な身体の一部を失い、また不自由される方への義肢の提供だけではありません。患者さんの喜びや励みを再生する協力もさせて頂いています」
「それに、義肢は造って納めて終わるものではありません。患者さんも成長し、あるいはお年を取られます。そんな肉体の変化や、生活環境の変化、そして精神的な変化に、適合しなくもなります。私たちは長い付き合いなのです」
創業者の思い、そして継承者の思い。そこには義肢装具を必要とする人への変わらぬ思いがあります。それは患者さんに寄りそう姿勢と考えです。
モノをつくり提供して終わりではない。そんな姿勢と考え、企業文化を如実に物語るのが、乳癌術後用人工乳房『ビビファイ』の開発から提供、そして販売費への配慮です。
「人工乳房は服の上から見た形だけのものではないことを、教えてくださったのは乳房を失った女性ご自身からでした」
中村ブレイスの社員にとって、それは「ひとの思い」「ひとは一人ではない」という原点に戻る気づきで、試行錯誤のはじまりでした。それが社是であり企業理念の『think』です。
「誰よりも切実に受け止めたのが、ここで働く女性社員たちでした。形だけでなく、その人の肌の色や子供を抱っこする弾力も徹底的に追求したのです」
肉体としての身体ではなく、心の宿る身体であり、子供を愛する関係としての身体であり、なよりも楽しく生きる自信を取り戻す身体でした。
「女子社員の主体的な開発への働きが、これまでの考えや仕事への考え方を大きく変え、そして成長させたのです」
患者さんとの一対一の出会い、お話をおききし、そして考えることが、乳癌術後用人工乳房『ビビファイ』のメディカルアートという、患者さんの日々に寄り添う新たな領域の誕生でした。
人工乳房は機能ではなく、人と共に生きる大切なコミュニケーションの一つでした。それを実現する『メディカルアート』の総意と技術。患者さんにとっては失った喜びを取り戻すとともに、社員の皆様にとっても仕事を越えた患者さんとともに歩む誇りともなりました。この考えと姿勢は、マニキュアの塗れる爪のある指などに引継がれていきます。
「廊下に掲示されている患者さんからの沢山のお礼の手紙は、私たちにとって励みです。その手紙に私たちは今でも耳を傾け、問い続けています」。 (書籍として複数出版されています)。
中村ブレイスの思いは価格にも表れています。その人にあった人工乳房の創作には時間も費用もかかります。すべからく企業は利益をだすことで存続し、社員の生活を維持し、次の患者さんへの責務を果たすことができます。
「私どもは、一人でも笑顔を取り戻してほしいという思いがあります。この人工乳房での利益は考えず、他の販売で経営を維持しています」
部屋に飾られた『渋沢栄一賞』の賞状を見て思い出しました。渋沢栄一の著書『論語と算盤』です。渋沢栄一は、企業は儲けるだけでなく、他利という社会に還元する企業理念(哲学)と活動が大切だと説いています。
そのような社員の姿勢や企業風土が生まれた経緯をお尋ねしました。
「会長がアメリカで学んだことが始まりです」
中村俊郎氏は、大田高校を卒業すると京都の義肢製作会社で6年間働き渡米されました。そこで多くのことを学び体験されたのです。
逆さピラミッドの『CSR』が提唱されるずっと前の、大量生産・大量消費の高度経済成長期です。その頃は、お客様の考えや環境に寄り添うのではなく、製品に人や生活環境を合わす、画一的な考えが主流を占めていました。そして最大多数の健常者を前提とし、経済成長を目標に弱者をお座成りにする時代でした。
そんな時代に、アメリカで多くの人に助けられた中村俊郎氏は、義肢装具製作の科学的理論とともに「人に合わす義肢装具」の考え方を学び、相互扶助の精神を体験されたのでした。
中村家は由緒ある家でした。しかし戦後の農地解放で田畑を手放しました。そんな事情は周りの人たちには分かりません。お金はなくても多額の寄附を求められます。祭りともなれば酒も提供します。そんな父親や母親を見て中村俊郎氏は少年期を過ごしました。
町や社会との関係を第一にする両親の生き方も、中村俊郎氏に影響したのでしょう。
日本に帰ってこられた中村俊郎氏はバブル崩壊の影響もありましたが、生まれ育った石見銀山の大森町に会社を創業しました。
家の納屋を改造した会社を創業したのですが、仕事はありません。しかし、中村俊郎氏の製造技術と開発に掛けるアイディアとイノベーション、なによりも不屈の情熱、そして根っからのプラス思考がありました。やがて素晴らしい製品は、口コミで広がり、お客様が増え、志を同じくする社員が一人また一人と増えていったのです。
会長の仕事への考え、患者さんへの思いは、社員の皆様にも「創意工夫」の哲学として根付いたのです。職人技にたよる仕事は、親方が、棟梁が旗を振ったからといって上手くいくものではありません。経営もトップダウンの命令で実現できることでもありません。社員というボトムアップの活動と提案があってこそ両輪としてかみ合って進むのです。なによりも重要なのは、そのような関係が存在し、切磋琢磨できる環境にあることです。
中村宣郎氏は会社を案内しながらお話をおききしました。
「サポーターを作る製作者は皆ベテランです。けっして手を抜くことはありません。患者さんにとって大切なものであることを十分知っているからです」
「メディカルアートという考えと領域は当社が考えました。製作には患者さんからのアドバイスもありますが、言葉にできない思いに耳と心を向けることも大切です」。
「技術を身に着けていると、例えば結婚や出産で暫く会社を離れても戻って来られます。私たちも復帰されることを奨励しています」。
『think』とは、創意工夫する原点の考えです。
大森の町は銀山川に沿って250軒ほどの木造建築が連なっています。1987年(昭和62年)に「町並み保存地区」に指定され、江戸時代からほとんど変わらない街並みです。
「会長は、子供の頃から父に、石見銀山はかつて世界の銀山だったと、いつも言われ続けていたそうです。また大森町が再生してくれればとも。それは華やかな大森町ではなく、世界に誇れる町です。きっと頭のなかに刷り込まれていたのでしょうね」
中村宣郎氏は微笑まれた。それはまるでご自分も同じ思いでもあるような顔でした。
中村俊郎氏にとって古民家再生活動は、「町並み保存地区」に指定されたから、「世界遺産」に認定されたから取り組んでいるわけではないのです。この町を守る、蘇らせたい思いや考えからはじまったのです。
1974年、中村の家の向かいにある10坪ほどの納屋を改造し、『中村ブレイス』の看板を掲げました。お客様もつかず、大田市や米子市の病院を訪ねる毎日でした。しかし、注文があろうがなかろうが、遠出で疲れた中村俊郎氏に映る景色は、廃れ行く大森の町並みであり、建物でした。
「会長にとっても、祖父が勤めていた町役場が取り壊されたのは辛かったと思います。残せなかった後悔がずっとあったと思います。それが失うことへの悔恨の原点だと思います」
中村宣郎氏から頂いた書籍の中に、会長と役場勤めのお父様の写真が掲載されています。町と共に生きる両親、町並みの写真を撮り続けた父親、それを支える母親。いろいろな思い出が、「残すことのできなかった町役場」の建物に重なったのでしょう。
町役場への思い出を残しつつ、もう後悔はしたくない、思い出の大森町を蘇らせる、それは「小さな町の大森から世界へ」の父の願いであり、中村俊郎氏や中村宣郎氏、そして中村ブレイスを支える社員の皆様の思いです。
「利益が出れば社会に還元する。そのひとつひとつが古民家の再生でした。残したくて再生した古民家もありますが、頼まれた古民家もたくさんあります。これからもまだまだ再生していこうと考えています」
保存のための古民家ですかと意地悪な問いをすると、中村宣郎氏は首をすこし振り話された。
「景観維持のためにも古民家再生は大切です。でも、古民家に暮らし、人々と創る思い出がもっと大切ですね。昔の思い出だけでなく、これからの思い出も含めてです。ここには人がいて、人が集い、語り合う。笑いがあって、やがてそれがいろんな人の知恵と活動でコミュニティーとなり、文化が生まれます」
患者さんとともに生まれた義肢や人工乳房は手渡されると、そこから新しい生活が始まり、新たな思い出も生まれます。その思い出を「手紙」という形で共有する中村ブレイスにとって、古民家は再生して終わる関係ではないのです。人が暮らし、町が蘇り、新たな思い出創造の始まりです。
中村宣郎氏は再生された古民家の幾つかについてお話されました。
●世界一小さなオペラハウス『大森座』
「世界一小さなオペラハウス『大森座』は、旧大森郵便局舎を大改築したものです。往時の大森座より規模は小さいですが、多くの演奏会に活用されています。町の新たな文化の発信場になればと思います」
華やかりし大森銀山の代表的な建物であった大森座が生まれ変わり、ここに暮らす人々と外部の人との文化創造の交流の場として、また文化の発信場となることで、新たな町づくりの拠点となることでしょう。
●宿舎『ゆずりは』
「さきほど乳癌術後用人工乳房『ビビファイ』のことをお話しましたが、本物のように製作するには時間がかかります。待つ間、不安や期待にいたたまれない気持ちにもなることでしょう。そんな皆様に大森の町を散策し、宿泊して頂くために建てたのが『ゆずりは』です」
製品の提供と一緒におもてなしをし、思い出にする、そんな優しい気遣いを感じます。現在は誰でも宿泊できる施設となっています。
●社員のための住まい
中村ブレイスの考えに共感し、また患者さんに寄り添う技術を求めて、県内だけでなく全国から入社を希望する人が来ます。
「社員のためにも再生した古民家を提供しています。空いている古民家があるから使うのではなく、独身者用、家族用とそれぞれ家族構成や用途に分けて古民家を再生しています。それは、家に住むということではなく、この町、大森町に馴染み、この町の人になってもらいたいからです」
義肢に人を合わせるのでなく人に義肢を合わせる考えが見えてきます。
●ドイツパンの店『ベッカライ コンディトライ ヒダカ』
この店は、パン屋さんだった建物を再生するときに、中村俊郎氏がパン屋をやりたい若者を知人に紹介してもらったのです。「軌道に乗るまでは会社の製パン部門の位置づけでしたが、今は人気店となり独立しています」
納品とともに始まる患者さんとの長い付き合い。中村ブレイスの寄り添う姿を古民家再生の一連の活動にも見ることができます。
最後に、中村宣郎氏に、古民家再生の今後についてお尋ねしました。
「今日現在、64軒の古民家を再生しました。これからも必要があり、また依頼があれば、再生する考えです」
古民家再生の実績は全国に伝わり、こんな電話もきます。
「大森町の古民家に興味をもち、空いている古民家を紹介してほしいという電話もあります。またこんなことをしたいのですが、使用できる古民家はありませんかといった問い合わせもあります」
そんな問合せにも丁寧に対応されています。考えが合えば、依頼者の目的にあった再生も検討されるそうです。
「古民家再生の大工さんは、ずっと地元の同じ大工さんです。気心が知れていますので、安心できます。」
行政主導の古民家再生ではないから実行できる、生活する人を中心にした再生です。また自費での再生だからこそ、人の生活感覚にあった等身大のモノ創りになるのでしょう。そこには大工さんとの長い月日で培った関係があるからです。
「家の再生は、町の再生です。そして、自然やひとの息吹を感じることができる生活です。失ったものは残念です。でも、私は過去ではなく、未来を見て進みたいと思っています。それは昔をお座なりにすることではありませんよ。明るく、楽しい、笑いのある町を取り戻すお手伝いです」
「古民家再生は町並みの景観ではなく、大切なことは、文化と自然と調和した活力のある町づくりのお手伝いの一つだということです。会長も私も同じ気持ちです。そして、それは中村ブレイスの方向です」
中村宣郎氏が子供の頃に遊び、思い出に残る高台のお寺「観世音寺」に上りました。
石見地方独特の茶色の石州瓦の屋根が連なり、武士も商人も一緒に暮らした大森の町並みが一望できます。
大森町を訪ねる私たちにとって、大森の町には「世界遺産」「石見銀山」「町並み保存」の代名詞が付いています。「世界遺産」だから訪ねる人もいます。再生される大森の町並みに故郷創生のヒントを求めて訪ねる人もいます。町や自然が好きになり訪ね続ける人もいます。訪問される理由は千差満別です。訪問者が増えれば町の経済は活性化しますが、ゴミや車も増え生活や自然環境にも影響があります。それをどのように調整するかは、皆様で知恵を絞っておられます。
古民家再生に掛ける思いをお聞きした私は、立場を変えて考えました。大森町や暮らす人が私のお客様であったなら、見学に、遊びに来る私はどうあるべきかと。
きっと町を散策しながらお尋ねするでしょう。大森町は今後どうしたいのですが、それは何故ですか、そして誰のためですかと。もちろん、こんな露骨な質問はしません。でも、古民家再生の意味を理解することで大森町や石見銀山との接し方が変わります。それは私だけでなく、ああ、綺麗だなとか、車で走しれないなんて、と思う人も同じだと思います。
お客ですという立場を逆転することで、景観や歴史文化の意味を理解するとは別な、生活する人にとっての再生や保存の意味を考え、石見銀山や大森町の町並みをもっと深く知る出会いとなると思います。
今回、失われた身体の一部を患者さんの心に寄りそって創る中村ブレイスの古民家再生のお話を聞き、観光地を訪問する側の意識の変革や見方の変更も大切だと気づかされました。求めるだけでなく、提供もし、自分も変化もする。相互の関係の創り方、在り方を学ぶきっかけとなりました。
取材が終わり、次の目的地に向けナビを設定していると、中村宣郎氏は丁寧に道順をご説明され、いつまでも見送ってくださいました。その姿は、出会いとはこれからの長い付き合いの始まりですよと示唆されるかのような温かいものでした。
ホームページ http://www.nakamura-brace.co.jp/ 住所 島根県大田市大森町ハ132 電話 0854-89-0231(代表) アクセス 最寄り駅:JR西日本 山陰本線 大田市駅
中村宣郎氏のインタビューの模様を動画でご覧ください。
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