― 小さくても自らの力で輝いてみよ ―
「ディスカバージャパン」(1970年代初頭)という全国の美しい日本を訪ねる旅の一大ブームがあった頃、旅雑誌や旅行案内本の『萩・津和野』を見て、津和野は山口県だと思われた方が結構いらっしゃった。山口線の線路名も関係するが、旅する人にとっては行政区分や境界線など関係ないことだ。ところが島根生まれの私には、そんなことに「ムッ」とする時代があった。この歳になるとお恥ずかしいことである。
津和野は、県境の山間(やまあい)にあって、静かで奇麗な佇まいの町だ。町中には白壁と堀の美しい武家屋敷が並び、堀には沢山の鯉が泳いでいる。小川の淵に咲く野花もどことなく物静かで憂いがある。「山陰の小京都」などと京都の軍門に下ることなく堂々と「津和野」と言えばいいと思う。
40代の頃、津和野に寄り道し、控えめな町並みをたのしんだ。事故でもあったのか列車は遅れ、地元の人を相手にした食堂で待つことにした。陽が落ちるにはまだ早い、油セミの鳴き声も煩い時間帯だった。カウンターには、すでに二人の老人客が距離をおいて座り、チビリチビリと飲んでいた。観光客というよりは、地元か近在の人に見えた。店のオヤジさんは私がひとりであることを知ると、その中間に座るよう顎で指し示した。
コップ酒と冷や奴を注文した私に、左に座る老人が唐突に、「君、津和野出身の西周や森鴎外が、徳川幕府側に付き、時代の変化を拒んだ島根県人に思えるかい。どう見ても日本を変革した長州・山口の気質だよな。それに津和野は長州の風土に包まれちょう」。吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、大村益次郎と司馬遼太郎の小説を思い浮かべ、萩に似た町並みを思い出すに、「島根ナショナリズム」で激昂しつつも指摘の流れに従っても不思議でない気がした。
その幕末好きの老人に釘をさしたのが右側に座る老人だった。カウンターの『初陣』を指さし、「この酒は、初代蔵元が広島藩士として鳥羽伏見の戦いに初陣を飾った。それが酒の名の由来だ。ということは広島だな」。そして二人は私の頭越しに倒幕・維新派同志だと杯をかわし、意見を交えた。初対面の振りをしているが、今日や昨日の付合いでなく長い友のような雰囲気だった。左の老人が「旅ではなさそうだな」と背広姿の私に問うた。「仕事の寄り道ですが、出雲地方(島根県)の生まれです」と返事をすると二人は押し殺した笑い声をあげた。島根出身を待つような、まさに私は「飛んで火にいる夏の虫」だった。
「津和野は島根かな?」。山口とも、広島とも主張せず、まず手を組んだ。きっと山口、広島、島根の立場で鼎談することを楽しみにしていたのだろう。私といえば若くはないが若気の至りで上段の構えから切り落とした。「津和野は津和野、酒は酒。尼子に、毛利に滅ぼされた奥出雲の山猿には、それで十分です」。斜に構えたセリフだったが、二人は好々爺の笑みで問うた、「長州征伐をどうお考えかな」。幕末でも、明治維新でもない、奇異な質問だった。
『初陣』を冷で注文した。分厚いガラスコップに注がれた。噛みしめるように飲む。甘いのではなく甘味を含んだ酒だった。湯飲み茶椀にあう島根の酒だと、その時思った。それも厳冬の季節を耐え忍び、手の切れる冷水とただただ黙して語ってきた、島根独特の「忍」の味だ。「どうかね、味は」と右の老人に問われた。詳細は忘れてしまったが酒自慢をしゃべったことだろう。そして日本の近代化にも口を滑らしたことだろう。
ぬる燗を頼んだ。するとカウンター越しに黒塗りの椀が差し出された。垂れ下がった瞼と皺に埋もれた目が、飲む前に食えと語っていた。蓋を取るとすまし汁に里芋が沈み柚子の細切れが浮いていた。雲に包まれた満月と漁火(いさりび)を灯す小舟に見えた。ふくよかで切り込むような薫りがした。「美味しいですね」。二人の老人は口をそろえて言った「芋煮だよ」。
おやじさんは三人の前にお猪口を置くと丁寧にぬる燗を注ぎ、頷いた。飲めということだろう。私は先輩の二人にお辞儀し飲んだ。芋煮の小鯛の出汁が舌の上で合わさった。さっきよりずっと甘く感じた。その甘さは「無理するな」と諫めている味でもあった。自己主張し過ぎたと後悔した。おやじさんはあらためて初陣のぬる燗を「ちろり」で差し出し、コップに注いだ。それでいいと親父さんの腫れぼったい瞼の奥で目が呟いていた。
森鴎外の作品の『知恵袋』にこんな文がある。「日の光を籍(か)りて照る大きな月たらんよりは自ら光を放つ小さき灯火たれ」。あの頃、『高瀬舟』か『阿部一族』くらいしか読まない私が知るはずもない。机上の知識を振り回して己の歴史観を語る私に、「芋煮」を薦めることで、いつの日にか、自らの営為や生き様で伝えなさいと諭したのだろう。
思うに、やはり「津和野は津和野だ」。あの好々爺のお二人と寡黙な店のオヤジさんの歳になった私。あんな気の利いた「おもなし」などできないが、せめて「芋煮」と津和野の酒で友をもてなしたいものだ。
「初陣」の酒蔵は武家屋敷の近くにあり、酒蔵が四つ角にあることから、「角酒場」と呼ばれ、店舗と蔵は国登録有形文化財に指定されている。
初陣
古橋酒造株式会社 (津和野)
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