― 東京ラブストーリー、そんな時代もあったね ―
随分前に拝聴した食品業界社長の講演です。日本の車がアメリカに輸出されだした1960年代。アメリカに留学していた社長は、ニューヨークの街を走る日本車を見、嬉しくて涙が出るほど感動したそうです。それが醤油の世界進出の原点になったとのことです。
それに比べると小さなことですが、私は初めて入った飲み屋で島根の酒を見つけると銘柄に関係なく必ず注文します。また地方の食品を扱う店で島根産の商品を見ると買います。懐かしいのではなく、島根の生産者の頑張りが嬉しくなるからです。ひとには、そんなこだわりや贔屓(ひいき)があります。
日比谷シャンテにある島根のアンテナショップ『島根館』でのことです。日本酒を見ている横で「私の名前と同じ」と女性の明るい声がしたのです。嬉しかったのでしょう、「買おう」と隣の男性に促しました。優しい男性で、手にしていた酒を棚に戻すと女性の持つ酒『理可』を籠にいれたのです。
目が合うと「妻はリカといいます」と微笑みました。若い二人に「私も、『理可』を買いましょう」と告げると、女性は「リカです」と愛らしい笑みをされた。
その夜、「リカ」と呼ぶ響きと、酸味のある『理可』の深い味わいが、脳裏の底に沈んだ思い出を蘇らせたのです。
『東京ラブストーリー』(※①)が放映されていた頃です。私たちの飲み会で「リカ・完治」という嬉しくもあり気恥ずかしい「罰」がありました。飲み会に遅れて来た男と女性は、その日の飲み会では鈴木保奈美のリカ、織田裕二の完治になりきり、互いに呼び合うのです。『東ラブ』は視聴率が30%も超すトレンディードラマでした。知らない客はいません。40、30代のおっさんがやるのです。当然、店には含み笑いが伝わり、やがて大きな笑いに包まれました。嫌で早く来る仲間もいましたが、わざと遅れてくる仲間もいました。それにはこんな訳があります。
明るくて優しいA子がリカになると、テーブルに頬杖を突き、迫真の演技で「完治~」と甘く呼ぶのです。愛嬌のあるA子に男たちははにかみながら「リカ」と返すのですが、みんな嬉しそうでした。私は一度も「完治」と呼ばれませんでした。それは会の発起人であり幹事の私が遅刻をすることはなかったのです。
師走のある日、そのA子から会社に電話がありました(携帯電話はありません)。告げられたパブのカウンターで、ギムレットを飲みながら待ちました。レイモンド・チャンドラーの小説の探偵マーロウ(※②)にでもなっていたのでしょう。
カウベルの音を鳴らし店に入ったA子は、私に向かって大声で叫んだのです、「完治~」。私はロングピースを灰皿で押し消すと恥じることもなく応えました。「リカ」。迫真の演技だったのでしょうか、それともアホらしかったのでしょうか、あるいはトレンチコートを脱いだA子の容姿と姿勢に魅了されたのでしょう、笑いはまったくありませんでした。
それが私と田舎に帰りお見合いをするA子との最初で最後の『東京ラブストーリー』でした。
酒の『理可』は、蔵人であり経営者の浅野理可さんの名前から付けられたとのことです。こんなことにも浅野理可さんの夢と酒造りへのこだわりと責任を感じます。
島根の名産「野焼き」を肴に『理可』を飲むにつれ、口元をそっと撫でていく香りと口に残る意思のような強い酸味は、喉元を過ぎる辺りで甘味となり、やがて名残惜しそうに消えてしまいます。
そんな日本酒『理可』を飲みながら思い出したのが「リカと完治」でした。全力で仕事をし、心から弾けるように遊んだ時代でした。男女の差も、職種の違いも、年齢へのこだわりもなかった。「お客様のためになにをするか」「目的をもって仕事を楽しもう」「創意工夫を試行する」がみんなの共通した心でした。
『理可』の酔いに少しずつ氷解していく思い出の「リカ」が、齢とともに忘れていった熱い想いを蘇らせてくれたのです。仕事に行き詰まると、バイタリティーのあった仕事と遊びの日々を蘇らせるためにも、『理可』を飲みます。そして、ちょっぴり甘酸っぱい中年の青春を回顧するのです。
理可
有限会社一宮酒造 (大田市)
※① 東京ラブストーリー。柴門ふみ作。1988年~1989年、コミック雑誌『ピッグコミックスピリッツ』(小学館)に連載。1991年、フジテレビにて鈴木保奈美と織田裕二によって放送。 ※② レイモンド・チャンドラー著『長いお別れ』(ロング・グッドバイ)。探し当てた友人が、正体を明かすことなく探偵のフィリツプ・マーロウに最後に言った言葉。「ギムレットには早過ぎる」。意味は読んでお考え下さい。翻訳は清水俊二か村上春樹か、貴方好みでお選びください。共にハヤカワ・ミステリ文庫。但し映画はお薦めしません。
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