― 遠きにありって思う故郷の色と音 ―
JR宍道駅で木次線に乗り換える。穏やかな方言(ズーズー弁)が交わされる車両は、のどかな風景に溶け込むかのようにのんびり走る。走るというよりは気長な旅の道連れのようだ。やがて慣れ親しんだだろう谷間を杖でも付くかのように刻みながら進む。震える車体に思う、「せついかね(苦しいか?)」。
木次線の駅にはそれぞれの思い出がある。「亀嵩」駅の思い出には、心痛い四季の映像とせつないピアノの旋律が重なる。野村芳太郎監督による映画『砂の器』(松本清張作)の終盤は、セリフのない映像とピアノの旋律だけの20分が続く。ここに引き裂かれていく親子の心が描き出される。そして引き裂いたのは差別と無知と社会であることを伝える。しかし、映像が美しければ美しいほど、音楽が切なすぎればそれだけ、ひとは何に恐れ、何をすべきだったかを加藤剛のみならず私たちに鋭く問いかける。ここにはいろんな形での別れが凝縮されている。
さて、仁多郡の亀嵩には「奥出雲酒造」という造り酒屋がある。元々は布施にあった八千代酒造が平成16年(2003)に廃業し、当時の仁多町が引き継ぎ、翌年の2004年に第三セクターの酒造会社として亀嵩に設立された。行政が蔵元を買い取ることはあまり聞かない。廃業によって地元の酒造好適米の買い取り先がなくなり、農業や産業の衰退を憂慮したという話も聞く。この奥出雲酒造と八千代酒造の酒の味はまったく違う。それは製造方法が異なるだけでなく、酒に対するコンセプトがまったく違う。
仁多郡には横田町と仁多町があり、布施と亀嵩は仁多町の行政区で、横田町には『七冠馬』の蔵元がある。奥出雲酒造が設立された翌年の2005年、全国的な市町村合併の進行の中で、仁多町と横田町も合併し「奥出雲町」となった。行政だけでなく産業発展や文化継承などもひとつになろうとした。
奥出雲酒造の『奥出雲』を初めて飲んだのは、東京での県人会だ。島根県内の酒が集まる県人会は、私にとって旧知の友や先輩・知人の席を訪ねては、その地その町の美味い酒を飲むことでもあった。その年も、津和野、益田から始まり、浜田、邑南、大田から隠岐と飲み語り、出雲の席へと向かうところだった。これから出雲から平田、松江、安来と馴染みの酒が並んでいる。
「おい、そろそろ地元の席に戻らんか」と旧友が立ちはだかった。手にした『奥出雲』を差し出し、「ひとつの町(ちょう)になったから仲良くしようぜ」と言う。仲が悪いからと避けたこともないし、統合されたことで私の何かが変わると期待もしていない。しかし地元との縁が深い彼には、合併は重大なことであったようだ。
コップ酒の色を見て「旨い酒になっただろう」と言う。確かに記憶として残る甘い『八千代』の酒ではない、熟成された東北地方の酒に感じた。わざとらしい方言で彼は「何しちょう」と問う。舌の奥から戻る酸味のある味わい深い酒だった。甘味が抑え込まれて酸味と渋味に舌が刺激される。若かりし頃の夢で杯を重ねた。
「仁多に、いや、奥出雲に戻らんか」と口にする。昔から相手を気遣う男だった。仁多郡の意味で「仁多」と言ったのだろうが、私が「仁多町」を意識し不快を持たないようにと「奥出雲町」に言い換えたのだろう。私は可能性がないと返したと思う。
彼は酒を持ったまま、統合によるメリットや島根の中でどう立ち回るべきかを熱く語った。企業の再編や吸収合併を経験した私は、シナジー(相乗効果)を美辞麗句と否定し、それぞれの慣習や文化は融合しないと断定した。実績での立証と次のビジネスプランの創造と実行のみが合併を前進させるようなことを言ったと思う。懐の深い彼は、地方で活かせないかと豪快に笑い、土俵際の魔術師のごとく私の話すマーケテイング論を左右に揺さぶった。彼とはそれから一度会ったが、それが最後となった。どうしているのか分からない。
島根に帰り奥出雲酒造の酒を飲むたびに思うのは、市町村合併と彼のことだ。県人会がいつか再開されるなら、島根の酒を飲み歩く私の前に立ち現れてほしい。あるいは私の横を思い出だけで走り抜けてもいいだろう。だが、会場のピアノ曲はせめてショパンの『別れの曲エチュード』にでもしてほしい。

奥出雲
奥出雲酒造株式会社 (仁多郡奥出雲)

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