-酒は忘れた思い出を連れてくる、だから泣ける-
新宿の市役所通りにクジラ料理の専門店がある、『樽一』。以前は、コマ劇場(現在の東宝ビル)の近くの雑居ビルの五階にあり、先代の親父さんが店にいた。出版社で編集の仕事をはじめた私の給与は安かったが、ある女性を樽一に誘った。というのも学生時代、彼女をデートに誘い、散々歩いて西口の「思い出横丁」の鯨カツ定食屋に入った。今でこそ外国人観光客に人気のある横丁だが、あの頃は独特な雰囲気があった。彼女はカウンターに座ることもなく私を一瞥して店をでた。満足いかなかったのだ。その彼女をクジラ専門店の樽一にお詫びを兼ねて誘ったわけだ。クジラのすべてがあり、刺身に、鯨カツに彼女は大喜び。クジラのおいしさを伝えられて満足していた。ところが突然、見知らぬ青年がやってきたのである。「彼、フィアンセなの」。
一人残された私の元に親父さんが一升瓶を持ってきた。それが松江の酒の『豊の秋』だった。「おごりだよ」。その酒が旨かった。旨いから旨いと言うと、失恋と誤解されたようだ。「黙って飲め」と注がれた。黙って飲んだ。やはり旨いから「旨い」と言う。すると店の奥から「お前の給料では飲めない酒だ」と特殊なラベルの豊の秋を注いでくれた。確かに美味かった。「旨い」と言う。「旨い酒は杜氏と米作り感謝しろ」と言われた。私は親父さんの気持に感謝し、島根出身であることを告げなかった。もう四十年も前のことだ。
酒は料理だけでない。話に合う酒もあるようだ。出会い酒に、祝い酒、別れ酒に、涙酒、そして思い出酒にひとり酒。酔うための酒から味わう酒に気づくのに随分遠回りをしたような気がする。島根の飲み屋に入ると一合ずつ地元の酒を飲まさせてもらう。そして酒ごとに蒼かった青春時代の思い出を重ねていく。島根には旨い酒が多い。
豊の秋
米田酒造株式会社 (松江市)
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