― 恋に当たれば酒でおさめる ―
『食あたり』というものがある。慣れない食べ物や体調不良の時に起きる。それと同じで『恋あたり』もあるようだ。特効薬は、失恋と同じで酒だ。そんな恋あたりになった、この夏のことだ。
70歳になんなんとする友が、初恋の人に「初恋の思い」を告白する場面に立ち会うことになった。互いに孫もいる身、男の熱き思いを女性は冷静に受けてその場は終わり、その後のことは関り知らぬこととホテルに戻った。ところが、なにか釈然としない。興奮したのでも、興味を抱いたのでもない。すっきりしないのだ。
ホテルを抜け出し、駅前の灯を消そうとする小さな飲み屋に飛び込んだ。「火を落としたので、お酒だけ」という約束でカウンターに座り、目の前にあった島根の酒を女将さんの分と一緒にコップで二杯注文した。
白い割烹着の似合う女将さんに、70男の初恋の告白話のさわりを話した。「羨ましかったのですか」。笑って首を左右に振った、「まさか」。
女将さんは戸口にカギをかけると私の横に座った。
「いただきます」。コップ酒に口を当てると芳醇な香りがした。その香りに誘われて一気に半分飲んだ、キレのあるスッキリとした後味だった。
酒に手も付けず無言の女将さんに、我儘(わがまま)を押し付けたことを後悔し、残りの半分を飲み干すと「ごちそうさまでした。勘定をお願いします」と告げた。
女将さんは何も返さず、身動きひとつすることもない。カウンターに千円札を数枚置いて立ち上がった私は気づいた。座る位置からは見えなかったが、女将さんの鼻梁を涙がこぼれていた。
少し酔った口調でつぶやかれた。「もう一杯飲みなさいよ。置かれたお金は多いわ」
女将さんはカウンターの上の短冊を凝視したままだ。私は座り直し、手酌して抹茶でも飲むかのように口を当てたまま三回で飲み干した。
「お友達の恋を笑ってはいけない。卑怯よ」
笑ったわけではない。彼の彼女の青春という季節の純粋な心を笑うわけがない。ただ、過ぎ去った青春という季節が妙にまどろっこしく思えたのだ。そんな旨を話した。
女将さんは割烹着の裾で思いっきり鼻をかんだ。
「早とちりね。ごめんなさい」
「僕は立ち会えたことを幸せに思っている。ただなんとなくスッキリしなかった」
そこまで話したところで、もやもやした情緒が消えていることに気が付いた。
「スッキリしたかな」
「そうよ。人の恋は黙って聞いて、お酒と一緒に飲みほすのよ。私はずっとそうだった」
カウンター越しに見てきた多くの色恋の話しと痴話喧嘩。同じように一升瓶も眺めてきた。せっかくの料理が台無しになり、旨い酒が混迷の起爆剤になっただろう。
「糠漬けでも切りましょうか」
『木次酒造』の「美波太平洋」を手にした。東京で二度ほど飲んだ。二度ともつまみはなかった。一度はアンテナショップで購入して知人の事務所で、二度目は大人数のパーティーで料理を取りに行くのが面倒で酒だけを飲み続けた。
地元雲南市にブライドと愛着を持つ蔵元が、自ら杜氏となり造る木次酒造。「料理の味を引き立てる酒」として推奨される。生産量は少ないため首都圏で出会うことは稀だが、自薦の日本酒を置く店では話題になる。
「結構です。恋話をした彼に敬意を表し、酒だけを頂きます。それに女将さんと約束したから」
三杯目は時間をかけてゆっくり飲んだ。ゆっくり飲むとやはりつまみが欲しくなる。女将さんが話した何十年も熟成してきたという糠床で漬けたキュウリとナスは、「美波太平洋」にあいそうだ。私は千円札を二枚重ね置いた。
女将さんは首を振る。日に焼けたうなじにほつれ毛が貼りついた。
「私も、お客さんに聞いてほしかった」
女将さんの睫毛が激しく上下した。「うそよ」
「ありがとうございました」
女将さんは座ったまま背を向けた。
「暑さとコロナには注意してね」
「・・・」
「それと、次いらっしゃったとき、私の話を聞いてくださいね」
戸を停めると灯の消えた店から女将さんのすすり泣きがした。それはクーラーの室外機の音だと分かっても、女将さんの恋の弧線が震える音(ね)に思えた。
次、ここで木次酒造の酒を飲むときも、「恋話」をあてに飲むことになりそうだ。
美波太平洋
木次酒造株式会社 (雲南市木次)
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