― 8月24日『愛酒の日』を『島根の酒』の日にしちゃいませんか ―
「多摩川の 砂にたんぽぽ 咲くころは われにもおもふ ひとのあれかし」
ほとんど乗車することもない小田急線だが、たまに乗ると多摩川を渡るときに思い出す。それは新宿からの下りではなく、登戸から成城学園へと向かう上りの線に限定される。
昭和だった頃、多摩川の登戸側にも、S大のある和泉多摩川側にも貸しボート屋があった。のどかな日には登戸で降り、缶ビールを手にボートを漕いだ。運がいいと川の中程で和泉多摩川側のボートに乗るS大の女子大生に遭遇した。
8月のある日、ボートに三人乗る女子大生に前記の短歌を諳んじた。記憶も定かではないが、一人の女の子が、「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」と返してきた。那須与一の「屋島の戦い」のように扇の的を射んとしたのだろう、僅かに憶えた短歌のなかから「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」と、本当の酒も知らぬのにとからかったのだ。かの女の子がボートを降りると、膝程まである川を歩き(浅かった)、私のボートに乗ったのです。
「バカにしないでよ、S大を」「それに、(はくちょう)ではなく(しらとり)よ」〈これには諸説あるが、最終的には(しらとり)に落ち着いている〉。
今でも鮮明に残っている。真っ青な空と濡れたミニスカートが貼りついた白い太腿。私は登戸側にボートを付けた。「お詫びに奢るから付いてこい」とでも言ったのでしょう。
オヤジさん一人で営む『すゝめのお宿』というカウンターだけの飲み屋があった。店は大きいがいつも客はほとんど入っていない。二人は多摩川のフナの甘露煮を肴に「二級酒」(銘柄はなく一級と二級酒)を飲み、若山牧水のように酔いつぶれた。
「日本酒の日」がある、10月1日。それとは別に「愛酒の日」がある、8月24日。若山牧水生誕の日だ(1885年)。三百首程の酒の詩を残し、こよなく酒と旅を愛した若山牧水を記念して生まれた記念日だ。世間ではあまり騒がれないが、酒を愛するものとしては随分もったいない記念日だと思う。
あのころも「愛酒の日」という概念はなかった。ただ彼女と「牧水の誕生日に飲もう」と約束をした。新宿の待ち合わせの定番である『紀伊国屋書店』の一階で。
その日、早く着いた私は、田舎の母が一度は行きたいという、今はなくなった東口の『タカノフルーツパーラー』に下見を兼ねて入った。そこには長髪の私とは違いアイビーカットで、ボタンダウンシャツとコットンパンツの男と楽しそうに話す彼女がいた。洗いざらしのジーパンにTシャツの私はウエイトレスの案内を断り、灼熱の照り返しの厳しい通りを抜け紀伊国屋書店の裏にあった『トップス』に入った。
若山牧水の批評が掲載された雑誌『海』(中央公論社・1969年創刊1984年終刊)を貸すと約束をした私は躊躇した。
紀伊国屋書店の六時を告げるベルの音とともに彼女は私と同じように人ごみから現れた。彼女は高野のことに気づいていた。気まずそうに「お付き合いをしているの」と告げ、「でも、今日は貴方に会いたかった」と控えめに言うと汗に濡れた私の腕に手をまわした。8月24日、牧水生誕の日、18時のことだろう。
今はない熟年を越した女性たちが割烹着姿で働く、細長い大きなカウンターのおでんの店『五十鈴』に誘った。
「酒飲めば心なごみてなみだのみかなしく頬を流るのは何ぞ」
なぜ、人は酔うと泣くのでしょう。なぜ、人は酔うことをするのでしょう。そして飲むときの何倍かの後悔をする翌日を迎えても、なぜ性懲りもなく飲むのでしょう。それは、心でも噛みしめる酒だからこそ、別れも、悲しみも、そして出会いも、喜びも、すべて味わい深いものになるからです。
あの頃も、そしてコロナウイルス前の今も、新宿の夜は更けることも知らず、カラスの鳴き声と山手線の軋む打撃音で朝を迎える。
さて、島根の酒造組合様、酒蔵様への提案です。
あまり目立たない『愛酒の日』を、このさい「日本酒発祥の地、島根県」の『愛酒の日』として活用しちゃいませんか。
たしかに「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」ですが、短歌でも詠み、楽しく酔い祝うのも興かと存じます。ご検討ください。
ちなみに若山牧水は、静岡県の『沼津千本松原』伐採反対運動の先頭に立ち、計画を断念させました。そんな自然を愛した、自然保護運動の先駆けを担った歌人でもあります。
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