― 車座の酒もよし、献上の酒もよし ―
同県人の集まりでも、そこには県内の地域差や世代差、そして不可解な人脈や関係が入りこんでいる。この歳となれば、正直、避けて通る。要らぬ気の使い方などしたくないし、終始気分よく飲みたい。
ところが若い頃は、そんな見えない線や領域を踏み越え立ち入ってしまう。それが人脈の広がりであり、人生勉強でもあった。
何の会かは忘れたが、島根県出身者の40人ほどの飲み会が大広間で開かれた。
宴もたけなわともなると、みなさん自分の膳を離れて親しき人と車座となり語りあい、酌をしあう。私も同輩の者と盃を交わしていたが、周りの徳利を飲み干した。見ると誰の膳かは分からないが半分ほど残った一升瓶がある。躊躇うこともなく、互いに注いで飲んでいた。
そこに怒涛の如く還暦前の男が駆け寄ると怒鳴り散らした。「おめえらは、だぁの酒を飲んじょうと」
聞けば、先輩のために持参した酒だという。「申し訳ありませんでした」と素直に謝罪したのだが、許してはくれず、「ぬすと」と罵倒されたのである。四十過ぎの私たちも切れた。宴会の席に封の開いた一升瓶があれば、誰が飲んでもいい習わしだと。男は「そげんことはない」と、封も空けず、箱に入れたままだったと言う。
謎は解けた。私たちが飲む前に誰かが飲んでいた。しかし男は、飲んだのは事実だと納得しない。先輩への面子が立たないと更に激昂した。座は白け、私たちは促されるまま席を立った。
それから数日後、勤めていた会社の受付に、一升瓶をもった三十代そこそこの女性が現れた。後ろに小さくなったあの男が背を丸めて立っている。あの威勢もないし、目さえ合わせようとはしない。酒の件は誤解で、謝罪に来たと女性が話す。
自分から話せない男の面子が可笑しく、少し早いが会社を抜け出し、贔屓にしている小料理屋『三和』のお店を開店前に開けてもらった。
「一盃、頂いていいですか」と頂いた一升瓶を男の前に差し出すと、満面の笑顔で「ええですが」と破顔し、三人で飲みはじめた。重い口の男に代わって女性は饒舌で、そのうえ酌上手だった。一升瓶のラベルをみんなから見えるように上して注ぐ。そこに店のご主人が刺身をもって現れた。
『三和』を営む老夫婦とは一緒に温泉旅行にも行く間柄で、店は友人知人や部下たちとのたまり場でもあった。このとき、御主人が競馬好きで、中世日本史に詳しいことを初めて知った。
一升瓶を眺めながら皆に届く声音で言った。
「源頼朝に平家征伐の吉兆を予感させた名馬と同じ名前ですね」
聞けば、鎌倉へと向かう源頼朝が洗足池で宿営をしていると、天地を震わすばかりの嘶ききとともに現れた野馬。逞しい馬体に青い毛並み、池に映る姿は月影のように美しかったことから『池月』と名付けられ、木曽義仲を撃った宇治川の戦いでも活躍した。
その名前と同じ名の酒。できることなら週末の重賞レースを取りたいので「縁起を担いで一盃飲みたい」と強請られた。もちろん私に異存はない。男は立ち上がり、私に一言「その節は失礼した」と一礼し、店の御主人の湯飲み茶わんになみなみと注がれた。
深みのある味わいだった。多分に両先輩の寡黙ではあるが饒舌にも思える含蓄ある言葉が、邑智郡の厳しい自然に耐え抜いた杜氏や社員の皆様の姿を想像させたのだろう。
今でも憶えている。幾分大き目の清水焼のお猪口になみなみと注ぐ『池月』に、娘だと自己紹介された女性の瞳だけが映り、かすかな波紋のなかに揺れ消える。女性の注ぐ『池月』の味には、気品があり豊潤な味わいが口の中に広がった。
お詫びにと頂いた酒は、四人が座るテーブルの上で、誰が気にすることもなく、そして誰も気がねすることもなく、気づいたものが一升瓶を持ち、空いたお猪口に注いでいた。
その後、数回、娘さんと『三和』で飲んだ。あの集まりで『池月』の封を切ったのはご本人だった。翌日、娘さんに電話をして謝り同行してくれと頼んだそうだ。ところがビルの前で娘さんに代わってくれと言いだしたのだ。誰かに上げる『池月』を持ってこられた律儀な人でもある。『池月』を介して過ごした楽しい時であった。その『三和』も今はない。
池月
池月酒造株式会社 (邑智郡邑南町)
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