― 上手い話と旨い酒に魅せられただろう? ―
出会いというものは不思議で、楽しいものです。時には不快なこともありますが、それも人生だと受け入れるしかありません。さて、そんな不思議で楽しい出会いの話です。
父が松江の介護つき老人ホームにお世話になっているころの話です。
一月に一度、父を見舞っては、近況と四方山話しながら父が家に残してきた郷土史研究の回顧と展望を聞くのが務めとなっていました。時に反論すると、若い頃の父に戻り頑固なまでに首を振りました。そんな父をなだめたのが孫からの手紙と写真、そして好きだった日本酒です。
すでに酒量は激減し、また本人も身体を気にして大き目のお猪口1盃と決めていました。たまに気に入った話になると2盃3盃と飲むことがありましたが、基本は律していたようです。
帰る時、日本酒を置いていこうかと尋ねるのですが、頑なに首を振り、もって帰るようにと手で払うのでした。いまになって理解できるのですが、どんなに美味い酒でも、老人ホームで一人飲むのは寂しかったのでしょう。あるいは介護を受けることへの元教育者らしい矜持の気持だったかもしれません。
古事記と出雲神話について話した時のことです。私の浅い知識に落胆したのでしょう。家に置いたままの上田正昭先生の全集を推薦したのです。昔から投網を投げるような推薦の仕方です。これを読めと言われれば楽なのですが、推薦が漠然過ぎて理解できないのです。
帰る私を施設の玄関まで見送る父が、本のことをまた話したのです。話すといっても声帯を失い電動式人工喉頭ユアトーンという発声補助機の声は独特で、居合わせたお見舞い帰りの女性にも届いたのです。奇妙な音に怪訝な顔をされる方もいらっしゃいますが、その女性は父に微笑み「上田正昭先生の本ですね」と反芻されたのです。父を無視した私が理解できなかったと思われたのでしょう。
それをご縁に同じタクシーで松江駅に向かいました。日本酒を入れた紙袋を持つ私と同じように、女性の紙袋にもお酒の瓶が入っています。見舞った方は一盃だけ飲むと持ち帰ってくれと話したそうです。私も父から同じように持って帰れと告げられたと話すと、狭いタクシーの中で笑い合いました。それはどこか悲しい笑いでした。
どちらともなく誘い飲むことになりました。女将さんに訳を話し、私は奥出雲の酒を、女性は益田の酒『扶桑鶴』を取り出しました。女将さんにも注ぎ、私たちは施設のある南の方に盃を上げました。
刺身を二人分切ってもらい、父の好きな蕗の薹の天ぷらと笹かれいの焼きを注文すると、女性は隠岐牛のステーキと茶碗蒸しと竹の子の煮物を頼み、待つ間にとおでんと漬物を注文しました。勿論、二人で食べるのですが、随分な数の注文でした。
「扶桑鶴は、どんな食にも似合うお酒ですよ。お店で説明されました」と二杯目を注ぐと、まるで古くからの友でもあるかのように「まるで私みたいに控えめなお酒だということね」と肩を叩かれました。女将さん見ると「そうですよね」と微笑み、不愛想な親父までが「そげだね」と喜んでいます。存在するだけで場が和み、微笑みたくなる女性でした。
オジを見舞ったという女性は、博多育ちの博多っ子。物おじしないが、そっと引くような典型的な博多っ子に感じました。古代史が大好きで、上田正昭の評価から始まり古事記、そして壱岐の島の古代史から邪馬台国となり、話は投網を撃つがごとく四方へと広がっていきます。ここでも私のハウツー本的な浅い知識を思い知らされた。驚きは古代史だけでなく、小説も、経済学にも、そして芸能や映画まで詳しく、私はただただ聞く一方でした。
評判通り『扶桑鶴』は控えめな旨味のある酒でした。それが高津川の清流なのか、時代に翻弄された益田の文化なのか、それとも蔵元の考えなのか分かりませんが、島根のどんな料理に合う酒でした。
その後、女性は父を訪ね、古代史について語り合ったそうです。私の父でしょうから、若くて美人で博学の女性に、楽しくて調子こいたと思います。持参された扶桑鶴も一盃ではなく、さぞかし飲んだことでしょう。ただ気になったのは父からの手紙に、「私を立て、控えめで、謙虚なひとだったと」と書いてあったことです。
それが理解できるようになったのは、あれから十余年、古代史の書籍を読み、多少は理解できるようになったおかけです。物を知るということは、意味もない批判をしないということです。分かるということは、議論や会話の中で自然と相手の考えや個性を引き出しているのです。その人の味が分かるということでしょう。
扶桑鶴を飲むたびに、女性の博識と、そして相手の考えを自然と引き出す話術を思い出します。確かに彼女は、どんな考えにも合わせる、控えめな、そして我の強い女子(おなご)でした。
扶桑鶴
桑原酒場 (益田市)
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