― 左右対称の文字に魅かれて ―
地方の蔵元を歩き、自分の舌と感性で仕入れた酒を出す飲み屋がある。注文すると、小皿の上に置いたガラスコップになみなみと注いでくれる。もちろん溢れて小皿も表面張力する。これが有難くて嬉しい。酒飲みの意地汚さはここからはじまったのだろう、一滴も溢さぬようにと口を近づけて啜る。ちびちびも好い、グイっと飲むのも良い。黒髪を耳にかけて飲む女性の横顔を眺めるのも良い。ただし友人だけにしておこう。さて、暫しテーブルに置いた一升瓶を愛でながら、買い求めた経緯や逸話を聞く。
『開春』との出会いもこの飲み屋だった。ラベルの上に胡坐をかいた左右対称の極太の文字に、新人編集者時代にお世話になった活版活字の岩田母型を思い出す。今でもインクの盛り上がる活版印刷の名刺や短歌集に出会うと、文字を通して発信者の熱い意思を感じる。
このときも「島根発の酒だ」という酒蔵の強いメッセージを感じた。「地元のお米にこだわり、丁寧な仕事をされる小さな蔵元ですよ」と教えられた。顔を近づけ含むように啜る。なるほど、蔵元から一時間ほどの所にある「琴ケ浜」の、歩くとキユュッキュッと鳴る「鳴砂」の切れである。
最近は『開春』の流れるような崩し文字に出会うことが多くなり、刺身を頼む。対称文字のラベルに会えば焼き魚、それも開きにする。「開き」と左右対称にこだわる私の趣向だ。島根に帰れば干しカレイを奇麗に開き、「開春」をゆっくり口にする。
「開春」とは酒を愛した陶淵明の漢詩から命名したものだ。中央の官吏を離れ郷里で農業をしながら漢詩を詠んだ晴耕雨読の陶淵明。弦のない琴を愛した陶淵明は、手段や形態ではなく、本質や心にあるとしたのだろう。開春には地元の西田で採れた米を使用する「西田」という酒がある。
さてこの頃、ラベルの上に「三日月」を見る。「三日月のようにどこかかけている酒でありたい」(webサイトより)という藏の思いだそうだ。満たすのは料理なのか、人なのか、雰囲気なのか、飲み手の判断だろう。まだまだ迷う私には分からない。建築物に「逆さ柱(さかさばしら)」という考えがある。完成であれば崩壊が始まる。あえて未完の部分を残す。またまだ欠けているという意味らしいが、なかなかの考えだ。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から発掘された銅剣や銅鐸にある「✖」の印は、案外、あえて未完とした意味かもしれない。古代ロマンが開花しそうだ。
「開春」。まさに春先に合う酒だ。その昔、お見合い話を嫌がり、家を飛び出した君と歩いた琴ケ浜。また、君が口で奏でる「浜辺の歌」を聞き、蛤の殻に酒を注ぎ飲みたいものだ。
開春
若林酒造有限会社 (大田市)
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