-矜持で義の味『世界の花』(雲州平田・石橋酒造)-
■三千世界の カラスを殺し 主と朝寝が・・・
「サラリーマンの街、新橋」、とはもう言わないのでしょうか。その新橋のSL広場に程近い「烏森神社」の横、花街跡地を転用した飲み屋街にある店でのこと。四、五人掛けのカウンターとテーブル席一卓のこじんまりしたイワシ専門店です。
半世紀に近い数十年も前のこと、料理は他から運んできます。そんなことも、花街の雰囲気を醸していました。
時折、「こんばんは。一曲どうですか」と流しのおじいさんがやってきます。
ギターではなく、着流しに三味線です。料金は後から店の飲み代と一緒に支払うシステムです。いつもならシカトするのですが、何かいいことでもあったのでしょうか、若僧の私は生意気にも一曲リスエストしました。何の曲だったか忘れました。終わると隣に座るご老人が流しのおじいさんに一献すすめました。(これが作法だと後に教えられます)
私は問ったつもりでした、「高杉晋作、できる?」
「三千世界の カラスを殺し 主と朝寝が してみたい、ですかね」
おじいさんは口にしたお猪口を拭き、艶っぽく歌ってくれました(この話には深い人情噺と色恋話が続くのですがまたの機会とします)。これが同席の老人との出会いでした。
■鞭声粛々、夜河を渡る・・・
昨年(2022年)の秋、私は出雲市平田の木綿街道をお訪ねしました。交流センターの方のご案内で取材撮影も終わり、一畑電鉄の時間を気にし、急ぎ足で歩く私の視線のほんの片隅に、ガラス窓の奥にある一本の瓶が映ったのです。
石橋酒造、『世界の花』。
江戸時代の宝暦2年(1752年※)創業の石橋酒造は、2007年に廃業しました。今回の撮影は、その石橋家の元家屋と酒蔵から始まりましたが、その時は、酒にはまったく気が付きませんでした。(※ 宝暦事件が起きた頃。尊王論者が弾圧された最初の事件)
『世界の花』。気になるネーミングです。お洒落というか、世界を視点に置いた大らかさを感じました。
松江に向かう電車の中で検索しました。古い酒樽の栓を抜くような、あるいは古い酒瓶の蓋をねじるような、附着した何かが抗い、そして空気に触れるとむせ返す、そんな感覚がしばらく続き、烏森の店での出来事が蘇りました。
「島根の、あの酒は飲むべきですね」
何回かお会いしたご老人は、私が島根出身だと知ると穏やかにつぶやかれたのです。
どこの蔵元で、銘柄はなんだったか忘れたのか、あるいは聞いていないのか、それさえも覚えていません。ご老人は松江や出雲のことをお話しされたと思います。
そして、高杉晋作の都都逸から頼山陽について話され、小声でしたが詩吟『川中島』を滔々と詠われたのです。
「鞭声粛々、夜河を渡る。暁に見る千兵の、大牙を擁するを、遺恨なり十年、一剣を磨き、流星行底、長蛇を逸す」
煤で汚れた壁が明け方の川中島になり、ご老人から無常の気が伝わりました。
■世界の花と頼山陽
検索するiPhoneの画面に、『世界の花』の命名者の名前が映っています。
『頼山陽』
思い出が、点と点を結び大きく弾けました。ご老人がお話しされた島根の酒は、元石橋酒造の窓辺に見た『世界の花』に間違いありません。そうでなければ、頼山陽の『川中島』を詠うはずがありません。
石橋家の当主は、幕末、幕府から追われた津和野藩士で国学者であり尊王運動の指導者であった大国隆正を、自宅の二階に匿ったのでした。
現在、酒蔵は他の方によって宿泊所に生まれ変わりました。コンセプトは、「居酒で繋がる縁の宿」です。石橋酒造には、「酒屋に居続けて飲む」が語源の居酒(いざけ)文化がありました。ここは、酒を酌み交わす交流の場、サロンでもあったのです。
■いつか飲まん『世界の花』を
(そうだったのか)
iPhoneから視線を離すと、一畑電鉄の車窓に広がる紅色の夕陽が飛び込んできました。まるで羽を大きく広げた荒鷲のごとく宍道湖を、そして私を包み込むのです。
取材と言っても、ド素人でした。こんな大切なことを現場で見落とすとは。
松江に着くと馴染みの飲み屋に電話を掛けました、「石橋酒造の世界の花、ありませんか」
あるはずもありません。廃業して十余年が過ぎているのです。ところが、高校時代の同窓会の流れで入った店の方から「一度、お出ししましたよ」とお話し頂きました。
それで十分でした。あの日、卒業後初めて会った同級生と『青春の花』を咲かせたのです。その友も十数年前に亡くなりました。最初で最後の飲みでした。それが『世界の花』であったのも何かの縁でしょう。
『川中島』を聴きながら『世界の花』を飲む、そこには三味線の流しもいて、ご老人もいる、そして同級生も片思いの君もいる、そんな夢幻(ゆめまぼろし)でも眺めることにします。
きっと、矜持で、義理がたく、こだわりのある、そして淡く儚い味の酒だと思います。
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