• ~旅と日々の出会い~
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友、遠方より来たりて盃を交わす『古希』の集い

 ― 1970年3月、僕たちは松江北高を卒業した ―

「島根県」とひとくくりに語るが、島根は気風も風土も異なる出雲地区・石見地区・隠岐地区の三つから成り立っている。歴史や文化にどのように影響したか、皆様の足で訪ねて確かめてほしい。

さて、シリーズ『酒物語』の始まりは出雲地区の松江が舞台だ。

■小説にならない町・松江

小説家の五木寛之は『地図のない旅』のなかで、松江をこんなふうに表現している。
「松江は永遠に静かなくすんだ町なのだろう。上品と言えば上品だが、それだけになまなましい人間悲喜劇のエネルギーは外目には感じられない土地だ」
発行日から推測するに1960年代後半から71年までに訪れた松江の印象だ。
松江という町は旅で訪ねた風景を描く紀行文にはなるが、人の愛欲や憎悪、葛藤や情念を描く小説の舞台にはなりにくい町のようだ。

そんな60年代後半の「上品」な 松江で、高校生時代を過ごした『僕たち』の遅れ来た『古希』の集まりが秋に開かれる。

松江城

■高校受験の大学区制

60年代後半、島根県の高校受験の志望校範囲は、全県一区の大学区制だった。どこの高校を受けるか受験生側の自由だ。と聞けばリベラルで民主的な教育制度だと思われるが、真の目的は一部の進学校へ優秀な生徒を集め、東京大学におくりこみ中央官僚を創り出し、政府と島根の強いパイプを築く、島根県成長戦略の大きな野望のもとの制度だった。同時に進行したのが国体誘致。後に実現する国引き国体だ。(当時国体開催には重要な意味があった)

戦略高校の頂点にあったのが、「人間悲喜劇のエネルギーは外目には感じられない」松江にある松江北高と松江南高。元はひとつの松江高校だ。
市外の中学生はどちらでも受験できたが、松江市内の中学は地域によって二分され、大橋川を境に北側の付属中・一中・二中が松江北、南側の三中と四中が松江南だ。もちろん住所を変えて越境するものも、中学から付属に進むものもいた。

全県から高校生が集まる松江市。市内には島根大学生向けの下宿屋や社会人向けの下宿屋と別に、賄い付きの高校生(女子高や工業高校など含む)向けの下宿があった。

くりくり坊主の僕は一、二年と高校の寮で過ごした。寮は全県一区の大学区制の縮小版で、益田市、浜田市、江津市、飯石郡、雲南市(現在)、奥出雲(現在)、隠岐島とさまざまな市町村の出身者がいた。
寮生は勉強と部活、ときに純愛とアウトローに汗と涙と血を流した。三年生の時、寮を出て下宿生活となり、「上品」の裏側を覗くことになる。社会人や島大生もいた下宿屋に起因する早熟な出会いだった。

60・70年代の松江北高の位置(西川津)
現在の松江北高

■遅れて来た70年卒の『古希』

高校卒業とともに松江を離れたが、『古事記編纂1300年』(2011年)頃から松江に帰ることも多くなり、高校の旧友と盃を重ねるなじみの店やボトルを置く贔屓の店も数軒できた。

高齢者となった友には長い人生の過程で労りとおもてなしの心ができたようで、料理を囲むと東京から来た僕の出身地(奥出雲)の酒を注文し、その後めいめいが自分の出身地や気に入った酒を飲む。松江や安来の酒が多い。高校時代からのひねくれ者の僕は、二杯目から出雲や大田の酒を飲むことが多い。みな旨い酒なので順位付けしようがない。まさに「日本酒発祥の地しまね」である。

コロナがおさまった今年、延び延びになっていた松江北校70年卒の『古希の集まり』が開かれる。県内のあちらこちらから同級生が集まるだろう。久しぶりに会う彼らと二次会か、前夜祭に贔屓の飲み屋で地元の酒で青春時代を振り返りたい。先輩や後輩と同席することもあろう。心地好く酔えば爺さんや婆さんも颯爽とした少年少女に映るはずだ。

村松友視の小説『時代屋の女房・怪談』の舞台は東京・大井町でなく、松江の飲み屋と宍道湖に中海だ。時代屋の女房・真弓が惚れた幽霊が美保関あたりの出身で、ジャズマンのアウトロー、ニヒルな優男。夏目雅子(真弓)が現れるなら60年代の話で盛り上がる。コルトレーンにビル・エバンス、ローリングストーンズにビートルズ、あるいはウッドストック。締めは小説にも出る『山小舎』でも。高三の春、年上の女性に連れられコークハイを初めて口にした店だ。

飲み屋

■老いるにはまだ早い

五木寛之の文には続きがあり、『島根文学地図』(井沢元美編著)を引き合いに訪ねる側の姿勢を分析する。
「絵葉書的な風景の美しさは、ただ外界の妙を感心すれば足りる。それが人間を動かし、人間に働きかけるためには、当の本人の個人的な緊張感が何よりも重要なのだ」。書きたいエネルギーは松江が放つのではなく、訪ねた側の「緊張感」という生き様にある。
五木寛之は松江をどう見たかは、「私がどう生きて、どう世界と対していたかという情況にかかわり合う」と60年代の作家らしい姿勢で締める。作品が書けるかどうかは主体の責任で、主体が何を感じ、何を表し、行動に転換するか、「緊張感」という主体の思想である。どことなくサルトルの実存主義だ。

古希の集まりの日、老いたる僕らに、松江は懐かしい町に見えるのか、新しい町に見えるのか、それとも別な町に見えるのか、それは松江が放つのではなく、僕たちがどう見るかだ。

1970年3月、卒業式を終えた僕を、隠岐島から来た君は、郷里の先輩が開く会に誘ってくれた。島根半島の漁師の家の君は、家の食事に誘った。松江の君は兄貴と一緒に生バンドのバーを指定した。年上のあのひとは車で来た。あの夜、僕はどうしたのだろうか。

「古希」の集まり。僕たちにとって、ある種の二度目の卒業式だ。まだまだ老いるわけにはいかない。諦めからの卒業式だ。僕たちは、まだまだ楽しい人生を過ごす努力をしなくてはいけない。なぜなら次世代に素晴らしい自然と夢を残す使命があるからだ。
遅れた団塊の世代の僕たちは、自己主張だけでなく次世代のことも考える高校生活を過ごした世代なのだ。

そのためにも、美味しい島根の酒と思い出が僕たちを待っている。

松江北高(西川津)の近く 新大橋より

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