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小泉八雲の歩いた小径をたずねて③【動画配信】

小泉八雲にとっての松江、松江にとっての小泉八雲

小泉八雲の歩いた小径をたずねて

シリーズ『心に残る島根の風景』

はじめに

今回、小泉八雲について、お話をして頂いたのは、小泉八雲の研究・普及を担う団体『八雲会』の事務局長を務めている内田融氏です。

内田氏と取材撮影を務めた私とは同世代で、高校こそ南北と違っても、同じ時代の松江の風を受け、街のざわめきのなかで青春を過ごしました。そんな内田氏が、「小泉八雲」にどんな感慨をもち、自分の中に受け入れているのか、大変興味深いものがありました。

英語のサブテキストで読んだ『むじな』、読書会で議論した『日本の面影』。その程度の知識しかない私には、小泉八雲の作品というよりは、中学・高校の教師として人力車に乗ってきた小泉八雲、「神々の国の首都」や武士の精神に傾注し「節(せつ)」を妻にした小泉八雲という異国人に興味がありました。それを同世代の内田融氏に「小泉八雲にとっての松江、松江にとっての小泉八雲」の題目で語って頂きました。

動画にて、お楽しみください。

その前に、簡単に小泉八雲について触れておきます。

小泉八雲旧居の庭園

1 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の人生

小泉八雲は、1950年6月27日にギリシャのイオニア諸島に生まれ、1904年に東京で亡くなります(享年54歳)。
日本に来たのが40歳の1890年4月4日のことです(横浜)。8月末には島根県松江の中学と高校の英語教師として赴任します。『古事記』で知った「神々の国の首都」が気になったのでしょうか。
1890年12月に小泉セツと結婚しますが、法律的には小泉八雲の日本帰化をもって結婚とする考えもあります。
そんなに好きだった松江ですが、寒いのと熊本の給与値で1891年11月に熊本に転任します。松江にいたのは、僅か1年と3か月です。熊本に赴任してからも旅行で隠岐島を訪ねます。かつての友や教え子に会ったかどうかは分かりません。ちなみに、日露戦争の日本海海戦は1905年5月のことです。
1893年11月17日に長男・一雄が誕生し、翌年、最初の著書『知られぬ日本の面影』全二巻を出版します。

僅かな松江在住期間ですが、多くの人に愛されたと書いています。それに比較して熊本については否定的な感想を多々述べています。

富田旅館跡地

2 松江の生活

「日本人の生活の類まれなる魅力は、・・・日本の西洋化された知識階級の中に見つけられるものではない。・・・その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、見出すことができる」(『日本の面影・はじめに』より。ラフカディオ・ハーン、訳・池田雅之、角川ソフィア文庫)

『神々の国の首都』で述べる松江の大橋川沿いの描写は、欧米人の好奇心と冒険心を煽る思わせぶりな書きだしです(私は個人的には好きな表現です)。今の若い日本人にとっても分からないと思います。

さて、日本の食事や着物、生活を愛し好んで取り入れた小泉八雲ですが、卵、牛乳、バター、ビール、牛肉は必須でした。これについても多くの作品で語られています。

鶏がいなかった美保関

3 動画の紹介

動画は、「小泉八雲にとっての松江」と「松江にとっての小泉八雲」の二部構成になっています。

それぞれの内容は下記のとおりです。

内田融氏

①「小泉八雲にとっての松江」では

 ・松江の風景や風土にある「影」と小泉八雲の「影」が共鳴。
 ・肉料理、牛乳やビールなどが快適な生活があった。
 ・日本人の自然観や美意識に共感。
 ・周辺から頼られた証としての豊かな報酬 
 ・西田千太郎や生徒、そして小泉セツとの幸福な出会い。

②「松江にとっての小泉八雲」では

 ・期待以上の知識と見識、そして人間性。 
 ・人々に寄せる慈愛の心。 
 ・日本の庶民の生活に馴染み、庶民の思想で考えた。
 ・神社への寄進。
 ・小泉セツを通した関係と世界。

詳細は、動画にてお楽しみください。

結びとして

「さて、私もそろそろと床について、どこか古びた苔蒸す寺の境内で、景鬼の遊びなどをしている幼い子供たちの夢でも見ることにしよう(『日本の面影・神々の国の首都』より)

■八雲会
〒690-0823 
島根県松江市西川津町3405-5 松江市国際交流会館内
Tel & Fax: 0852-25-1920
https://yakumokai.org

■動画制作
 語り手 内田融(八雲会事務局長)
 制作  webサイト『島根国』
     https://shimanekuni.com
 協力  株式会社オウコーポレーション
     https://www.co-c.com

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