• ~旅と日々の出会い~
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木綿が創り出した文化と繋がり 出雲市平田

小格子戸の向こうから華やいだ喧騒が聞こえる『木綿街道』

はじめに

旅は「言葉(言語)」に既定されてはじまります。それは、かつての思い出でもあり、事前に読んだ観光パンフレットや冊子の案内文でもあります。いだいたイメージは、旅先での出会いや感動で、新たな概念となります。それが貴方の思い出であって、貴方の物語です。

「あの年の春、夜行列車で松江を出るボクは、プラットフォームで白い木綿のハンカチを、君の代理だという女の子から渡された。それが『別れ』の意味だと、添えられた手紙で理解する。そして、ハンカチを送るには、そんな意味が込められていることも知った。
ハンカチは、暫くボクのスリムなビッグジョンのGパンの後ろポケットに差し込まれ、一緒に講義を受けた。それから数年後、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』が一世を風靡し、聴くたびに夜行列車のデッキで夜風に耐えたことを思いだすのだった」。

出雲市雲州平田の『木綿街道』から青春の淡い出来事を思い出したのです。

今回紹介する『心に残る島根の風景』は、縁結び空港からタクシーで20分ほどの雲州平田の「木綿街道」です。

「わたすのおまれは、おんすうふらた」

木綿の集積地として栄えた雲州平田には、「平田弁」という出雲地方でも異質な方言があります。中国山地の麓、奥出雲横田にも「出雲弁」とは異なる「仁多弁」があります。不昧公のおひざ元の松江にもいつでもお茶を飲んでいるような穏やかな出雲弁があります。それらを一緒にして「出雲弁」というのには、いささか抵抗を感じます。さて、

「わたすのおまれは、おんすうふらた (私の生まれは雲州平田)」

その、雲州平田『木綿街道』散策の旅に出かけましょう。あわせて【動画】もご覧ください。

ご案内は、動画でのインタビューも含め木綿街道交流センターにいらっしゃる一般社団法人木綿街道振興会専務理事・平井敦子さんにお願いしました。

平井敦子氏

■雲州平田と木綿 

「木綿街道」のある雲州平田町は出雲大社のある出雲平野の北東に位置します。古くは『出雲國風土記』 に爾多郷(沼田郷)として記されています。

1300年代前期、近江商人たちによって開拓され、地元の人々の手で商人の町として栄えました。戦国時代に今の町の原型ができます。

江戸時代には、物資の集散地として発展します。「雲州平田木綿」の集散地として賑わい、一方で商人文化の全盛時代を迎え、明治になると綿花に代わる養蚕による製糸業が発達し、明治末期には生糸の町として栄えました。

しかし、ナイロンの普及とともに製糸工業は衰退しました。

島根県・宍道湖周辺の地図

■木綿街道

「木綿街道」は、雲州平田町の新町・片原町・宮の町からなるL字型の四百メートル程の小さな通りのことです。

この「木綿街道」、昔から呼ばれた名称ではありません。「2001年に開催したイベント名から派生した地域名です」(平井敦子さん・以下省略)
こんなエピソードからも、住民の皆様や再生に共感した皆様の「残そう」「復活しよう」の熱い思いと行動の意思の深みを感じます。

雲州平田は、江戸時代より宍道湖西岸からの水路を利用した木綿の集積地・市場町として栄えました。通りには切妻妻入塗壁造の家屋が軒を連ね、海鼠壁や出雲格子など、栄えた当時の面影が皆様を迎えてくれます。

また木綿街道に沿って流れる川は、荷物や物資の輸送路として大正期まで使われていました。現在でも、船着場や生活用の水場である「カケダシ」が残っています。
今の「木綿街道」の近くまで宍道湖が接近していました。

木綿街道マップのパンフレット

■「木綿街道交流館」へ

木綿街道には、江戸時代からの「本石橋邸」をはじめ、伝統の味を守り続ける醤油蔵や酒蔵、生姜糖の老舗や、ポストイットの無人販売店や食べ物屋にビール店があります。

小さな通りです、当てもなくぶらり散策もいいでしょう。でも、初めての方や時間的に余裕のない方、逆に時間に余裕のある方は、「木綿街道交流館」を訪ね、街道の歩き方や見どころを教えてもらうことをお薦めします。「木綿街道 探訪帖ツアー」も準備されていますが、事前にご確認ください。

コースの順番

木綿街道散策の径

今回の紹介コースは、①交流センター、②本石橋邸、③元石橋酒蔵・ホテル、④酒店、⑤醤油、⑥生姜菓子、⑦絵ハガキの店、⑧宇美神社、⑨川、➉一畑電鉄「雲州平田」駅の流れです。

①木綿街道交流館

木綿街道交流館は、江戸時代には「外科御免屋敷」と呼ばれた旧長崎医家を復元した建物です。
木綿街道の観光案内所で、街道マップの配布や展示、また街道案内の受付も行っています。
開館時間9・:00~17:00、休館日・火曜(祝日の場合は翌日)・事前に確認を。

1738年(元文3)に長崎という方が外科を開業。4年後の1742年に外科御免屋敷をいただき1927年(昭和2年)まで開業した外科の屋敷です。
希少な町医の建造物を町家の保存を兼ね「交流館」として再生されました。

さて、平井敦子さんにご案内頂いた順番に出かけることにします。

木綿街道交流館外観

②本石橋邸(国登録有形文化財)

本石橋邸は、江戸中期、1750年頃に建てられました。市松模様のなまこ壁に出雲格子、平田地域特有の建築様式で、木綿街道では最も古い建物です。  

祖先は、源頼朝の家臣であったようです。江戸時代のはじめ頃、出雲大社の近くに居を構えたと伝えられています。その後、平田の開拓、産業振興、教育に力を注ぎました。

奥座敷は当時松江藩主の御成座敷として造られ、10畳もある書院造りの主室や茶室、趣ある日本庭園も見どころです。

奥座敷
茶室

江戸時代末期から明治にかけて、漢学者でもあった石橋孫八(弘化4年~大正4年)は、漢学者や国学者を招き、学問振興につとめます。また自宅の本石橋を開放して郷校(塾のようなもの)を開きます。

郷校の展示

孫八の父道喜は、石州の津和野藩士で尊王運動の指導者であった大国隆正を幕府の追求からかくまい、「かくし部屋」を設けたと云われます。「はしご階段」は今も残されています。

隠し階段

③元石橋酒店  NIPPONIA出雲平田木綿街道

2019年12月、約250年の歴史ある元酒蔵・石橋酒店の建物を改修し、木綿街道の歴史や文化を体感する宿「NIPPONIA出雲平田木綿街道」がオープンしました。
この宿のコンセプトは、石橋酒店の考え『居酒』(酒屋に居続けて飲む・いざけ)の文化を継承し、「居酒で繋がる縁の宿」です。オープンスペースには出雲の酒以外にも島根の酒が並び、宿泊の人は飲めます。

また石橋酒店の銘酒「世界の花」の命名者は、江戸時代の蘭学者・頼山陽です。(詳細は、当サイト『島根国』の「酒と出会いと別れ」をご覧ください)

玄関
世界の花

④酒持田本店(国登録有形文化財)

創業当時の姿を今に残す白壁土蔵の酒蔵は、2017年登録文化財に指定されました。
屋根瓦の全面と雨樋には 屋号である「ヤマサン」のマークがついています
杉玉の代わりに屋根に青竹が立てられます。これは、初絞りの時に青々とした竹を立て、枯れていくと酒が熟成した合図です。

屋根と竹
店内

⑤醤油

木綿街道には三軒の醤油の酒造所があります。店頭には生醤油から刺身醤油まで種類豊富な商品が並んでいます。持田醤油店、加藤醤油店、岡茂一郎商店。
長い期間をかけて熟成させた濃厚な醤油には、店ごとのこだわりと風味があり、その日の食事や気分に合わせてお選びください。また、お酒と合わせて選ぶのも、醤油の味を引き立てる方法です。

成分表

⑥来間屋生姜糖本舗

1715年から続く老舗の店です。
創業時から出雲市斐川町で栽培される「出西生姜」のみを使います。炭火で生姜の絞り汁と砂糖をとかし、銅製の型に流し込みます。生姜の爽やかな風味と辛み、やがて懐かしい素朴な甘みが溶けていきます。地元を代表するお菓子です。

白、抹茶、紅の三色。 出雲産の抹茶を使った抹茶味は、不昧公の生誕100周年を 記念して作られた商品です。

昔ながらの生姜糖

⑦旅の思いに「絵葉書」

メールもない学生時代、旅に出ると買い求めたのが地元の「絵はがき」でした。思いを寄せる『ひと』に、「旅の途中にて」と書き始め、それとなく沈みゆく夕陽に思いをかぶせてみます。
無人店舗です。貴方も買い求め一筆綴り、店頭のポストから送ってみませんか。素晴らしい絵に、貴方の思いを乗せて。

絵はがき
街道おみくじ

⑧宇美神社

木綿街道の最西端にあるのが宇美神社です。
宇美神社は、延喜式神名帳に記されている式内社として歴史と格式のある神社です。
戦国時代末期、平田屋佐渡守によって熊野権現、廻大明神、平田天満宮、春日大社、若宮神社、大歳神社、伊勢宮の七社を合祀して現在の地に祭られました。境内にはたくさんの末社が祀られ、百事成就の神社として信仰されてきました。

主祭神は「布都御魂神(フツノミタマノカミ)」。断ち切りたいと願う縁切りにご利益があります。また、境内には夫婦仲睦まじいイザナミとイザナギを祭神とした「縁結神社」もあります。
同じ境内の中で「縁切神社」と「縁結神社」。お参りする順番は、まずは縁切神社で悪縁を断ち切ってから、縁結び神社で良縁をお祈りします。

イザナギとイザナミは、現世と黄泉の国との境で永遠の別れをします。この地が「黄泉比良坂(よもつひらさか)」といわれる場所です。この続きは、当サイト『出雲神話と神々』をご覧ください。
また境内の中には平田名物一式飾りのミニチュアが28体あります。是非、探してみましょう。

宇美神社

⑨水上交通を担った平田船川(ひらたふながわ)

平田市街地を抜けて宍道湖に注ぐ平田船川は全長約11.5キロ。短い川ですが、かつては出雲地方を代表する商業と交易の町・平田を支え、形成した川でした。
平田船川は、江戸末期から明治初期にかけて出雲木綿の集積地として、また平田市の水運の要を担いました。明治後期までは、平田市と松江市を結ぶ宍道湖湖北航路の重要な貨客の運送手段でもありました。
平田大橋と新大橋を結ぶあたりには古い船着場跡もあります。
現在、木綿街道とともに当時の面影を残すおよそ700メートルを保全・復元する「川並保全」が計画されています。町の新しいシンボルとして担っていくことでしょう。

⑩一畑電鉄「雲州平田」駅

大正3年4月開設されました。一時期駅名を「平田市」としていましたが、平成17年に平田市が出雲市と合併したことに伴い「雲州平田」に戻りました。
一畑電車の拠点であり、車庫の他、運行の要である運転指令所も併せもっています。

雲州平田駅

中井貴一主演、49歳で電車の運転手になった男の物語『RAILWAYS』の舞台が、この一畑電鉄です。

50歳を目前に電車の運転士になる決意をした男と家族の再生の映画。忙しく仕事に追われる男のもとに、故郷の島根で一人暮らしをしている母が倒れたという知らせがきます。子供の頃に憧れていた一畑電車、通称“バタデン”の運転士になることを決意します。
続きはDVDでご覧ください。

おわりに ―取り残された町―

島根を旅する人の多くが口にする「交通の便」。首都圏からのJRの便や航空料金が高いというより、島根を縦断する不便さを嘆かれます。隠岐地方なら海の向こうで諦めもつきますが、出雲地方と石見地方の隔たりは旅行には大変煩わしいことです。でも、島根県はそんな県ですと言うしかありませんね。そこを理解して計画を組んでください。もしかすると、そこに島根の魅力があるかもしれません。

ところで、宍道湖の周辺の地図を開いて、じっくりご覧ください。宍道湖の『下』をJR山陰本線と国道9号線が走っています。どうして宍道湖の「上」を走らなかったのでしょうか。松江から木綿で栄えた雲州平田を経て、出雲大社から大田市へと抜ける。

経済圏や歴史文化の観光圏を繋ぐには、このコースが便利に思えます。

平井敦子さんによると、どうやら雲州平田を抜ける線路計画も、国道を走らす計画もあったようです。両方ともかつての有識者の皆様が反対して実現しなかったようです。このあたりは市政や歴史に詳しい方にお尋ねください。
でも、その結果、この古い町並みが残ることになりました。

さて、出雲大社や日御碕をゆっくり観光される方には、木綿街道の宿がお薦めです。近年、小規模の宿ができました。出雲大社にも近く、また松江市内にも一畑電鉄を使うと一時間弱です。
少し足を延ばせば出雲大社以外にも楽しい神社仏閣があります。そのうちの二つを紹介します。

●酒造り発祥の「佐香神社(通称松尾神社)」

主催伸は久斯神(くすのかみ)。
『出雲國風土記』に、「たくさんの神々が集まられて、煮炊きする調理場を建て、酒を造らせた。そして長い間、毎日酒宴を開いた後、去って行かれた。そこで酒みずき(酒宴)のさかによって佐香という」とあります。このことから酒造り発祥の地とされています。

佐香神社には、室町時代から続いている特殊な神事「濁酒祭」があります。今でも、年一石(180ℓ)の酒造が許可されており、10月13日の秋季例祭では、酒造りを祝い、参拝客に造りたてのどぶろくがふるまわれています。
一畑電車「一畑口」駅下車 徒歩10分

佐香神社

●弁慶伝説の「鰐淵寺」

創建は594年(推古2年)と伝わっています。紅葉の名所として親しまれ、晩秋になると一面真紅に染まります。
また、弁慶が若き日に修業をし、大山から大鐘を運んだ伝説も残っています。詳細は、当サイト『島根国』の「歴史と人物、弁慶伝説」をご覧ください。
深山幽谷の地にある修験道の霊地で、智春上人修験の浮浪の滝があります。
お出かけの折は、事前に出雲市の観光課にお問い合わせください。

鰐淵寺

皆様の訪問をお待ちしております。

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