• ~旅と日々の出会い~
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出会いと繋がりを導く神が住む郷、松江市意宇郷

― 一話 一本の杖より広がりしまほろばの「意宇郷」 ―

はじめに

イルカの『なごり雪』を聴いて、貴方は、どこの駅を想像しますか?

島根出身の私は「東京駅」です。最近、同輩の酒席の場で話したところ、青森出身の知人は迷わず「上野駅」と答えたのです。それも、「集団就職列車が着いた18番ホーム(旧18番)」。私は、「東京駅の新幹線ホーム」と切り返すと、今は死語ともなった「ブルジョア」と笑われたのです。
隣に座る新潟出身の知人は「動き始めた汽車だろう」と私を笑い、「俺は、東京へ行く彼女を見送った新潟駅だな」と呟いたのです。「東京で見る雪だろう」と反論すると、音楽の世界にいた知人が蘊蓄を垂れたのです。「作詞は伊勢正三で、出身地の大分・津久見をモチーフにした」と。
面白くない男です。せっかく帰巣性と思い出で盛り上がった話を昼の朝顔の花のように萎めてしまったのです。それぞれに忘れられない「別れの駅」とドラマがあったのに。

さて、『古都』といえばどこを想像しますか?
これも酒席でたずねてみました。多くのものが「京都」を一番に上げます。次が「奈良」と大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の「鎌倉」でした。なかには、市川崑監督『古都』の山口百恵の薄幸と答えた粋な御仁もいました。「イスタンブール」とか「我が心のロンドン」など思い出の地で盛り上がったのです。

ところがどこにも話に水をさす蘊蓄を口にする専門家がいるものです。
『古都』は法律的に定められているそうです。「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」に定められ、京都・奈良・鎌倉と「政令で定めるその他の市町村」だそうです。
私は、島根の「意宇(おう)」郷について話すつもりでしたが厠へと立ちました。まったく情緒的価値を知らない専門家です。

さて、長くなりましたが、今回は酒席で言いそびれた「出雲國」の都でもあった意宇郷の一帯を紹介します。

東京駅丸の内側

■国引き神話

『出雲國風土記』に、島根半島を綱で引き寄せた壮大な物語、「国引き神話」があります。

『出会いと繋がりを導いた神が住む郷、松江市意宇郷』の物語は、この『国引き神話』に杖を刺すことから始まります。

できたての出雲國を見た神様「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」はおっしゃられた。「出雲の国は細長い布切れのような小さな国だ」と。
鍬に似た鋤で四つの地域から土地を剥ぎ取り、「国来い、国来い」と太い縄で引き寄せました。生まれたのが今の島根半島です。(事実、島根半島には三つの断層があり地質学的にも四つに分かれています。図をご覧ください)

引き寄せた縄の一本を石見の三瓶山(さんべさん)に、一本を伯耆の大山(だいせん)に縛り付つけ、縄の跡が薗の長浜と夜見の島になったと伝えられています。
(詳細は、当サイトの「出雲神話と神々」の「風土記神話一話」をご覧ください)

国引き神話の地図

・意宇(おう)の杜

八束水臣津野命の国引き神話はこれで終わりではありません。偉大な事業を成し終えて、「国引きも終わった」とおっしゃると大地に杖を突き立てて叫びました。
「意恵(おえ)」。
その後、この地を「意宇(おう)」というようになりました。今でも意宇地区の田んぼの中に「意宇杜」があります。

意宇の杜

■風土記の丘周辺の散策(概要)

今回の散策は、松江駅からバスで35分程、一畑バスなら「風土記の丘入り口」、市営バスなら終点の「かんべの里」で下車したところから始まります。

散策には、かんべの里にあるレンタル電動自転車を利用しました。意宇郷の散策は、選んだ道にもよりますが、どんな簡略しても3時間はゆうにかかります。事前に目的と何をしに行くかを検討・整理しておくことをお薦めします。
ここでも三つの領域に分けてご紹介します。

第一地域は、意宇杜、六所神社を中心とした「意宇郷」
第二地域は、「風土記の丘」と「かんべの里」
第三地域は、熊野大社、神魂神社、八重垣神社

『八雲立つ風土記の丘』エリアマップ (島根県教育庁文化財課)

それでは、第一地域の意宇杜、六所神社を中心とした「意宇郷」からゆっくり散策にでかけましょう。(三回シリーズ)

一話 一本の杖より広がりしまほろばの「意宇郷」 (第一地域)

■まほろばの里

『日本の町』(筑摩書房)の「松江市」なかで、丸谷才一氏と対談した山崎正和氏は、意宇郷一帯を紹介しています。なかなか風情があって興味深い表現です。少し長くなりますが転用します。(189頁)

「あのあたり(国分寺跡)からずっと広がる平野の佇いというのは、日本人の基本的感受性を自然に投影したものだなという感じがしましたね。あそこを走っていてふっと思いだしたのは、奈良、飛鳥の風景なんですよ。山が何となく柔らかで、それに囲まれて小体な平野があって、川が流れていて、全体に包まれた感じなんです。いわゆる国のまほろばなんでしょうね・・・これが日本の農民の感覚の原点だし、もう少しいえば、日本文化の基本にある風土感覚なんですね」

確かに奈良の農村部や京都の大原あたりに行けば、こんな穏やかな風景が残っています。「裏日本」ならばどこでも見かける「盆地」です。

春ならば燕とともに風が砂埃をつれて舞い上がり、夏ならば切り取られた噎せる草息と蝉しぐれにうだり、秋ならば落ち行く夕陽に長く伸びる影を踏み、冬ともなれば凍てつく風に身を寄せてしまう、そんな佇まいです。

山崎正和氏と丸谷才一氏は、松江市内から車で来たのでしょう。茶臼山の旧跡から出雲国分寺跡を見学し、意宇郷を縦に春日橋に向かうと意宇川に沿って風土記の丘の方に走り、神魂神社(かもす)に参拝されたのでしょう。(この前後に八重垣神社参拝)

「日本の町」

■電動自転車で風を切り、古代を瞑想

松江駅からハスで来た私は、「かんべの里」で電動自転車を借りました(※事前に電話予約することをお薦めします)。

下り坂を颯爽と進む私を、稲刈りの終わった田んぼに干された藁の息吹が、光と風とともに意宇郷へと誘います。

干し藁
コースマップ

バス通りを渡ると暫く田んぼ道を走り、右手を流れる「意宇川」へと向かいます。
「大草古墳群」の散策もお薦めですが、川辺に座りハヤの魚影や古墳群の丘を眺めながらの瞑想も楽しいことです。
古墳時代でも、国分寺ができても、奈良時代から平安時代になっても、ここに住み続けた人がいた。多くの階層の人々の営みと蓄積される日々。そこに人が来、人が去る。柿本人麻呂が『万葉集』に残した壮絶な惜別の歌のような出会いや悲しみもあったことでしょう

国分寺跡の先には中海があり、米や山の幸だけでなく海の幸にも恵まれた一帯でした。
国を治める機能と生活の糧の生産と物づくりの産業が隣接する町。機能分担された「都」とは異なる混沌とした文化が築かれたのです。そこに、後ほど紹介します「神魂神社」「熊野大社」という出雲大社と関わりの深い神社が隣接します。

山崎正和氏や丸谷才一氏ではないのですが、名所旧跡の見学より、好きなところに座って想像を膨らましてみるのも楽しい時間です。自分が生まれ育った町と比較してみるのも、あるいは生きるってなんだろう、存在ってなにと哲学な物思いにふけると、見るだけでは見えなかった景色が、消えた自然や人々の生活が浮き上がってきます。

意宇川

さて、川に沿ってすこし進み、住宅のある左手の方へと曲がりましょう。

■国造りの神様を祀る六所神社

田畑や住宅地に隣接するかたちで小さな森があります。六所神社です。
奈良時代に編纂された『出雲国風土記』に「佐久佐社(さくさのやしろ)」として記載され、『延喜式』にも所載された古い社です。古代律令制のもとでは「出雲国総社」でした。明治維新後に「六所神社」と改称されました。

六所神社

・神紋の「有」とは

雲国造家と関わりの深い「意宇六社」(※①)の一つです。御本殿は大社造、神紋は二重亀甲に「有」です。
神紋は、出雲大社の古来の神紋で、「神在月」と深い関りがあります。「有」は、神在月の十月の「十」と「月」をひとつにした漢字です。面白いですね。神が有るから「十月」なのか、十月だから「神在月」なのか、考えてみてください。
ちなみに、神魂神社と眞名井神社も同じ神紋です。
  ※① 「意宇六社」とは、熊野大社(松江市八雲町)、真名井神社(松江市山代町)、揖夜神社(八束郡東出雲町)、六所神社(松江市大草町)、八重垣神社(松江市佐草町)、神魂神社(松江市大庭町)のことです。

神紋

・六神を祀る

六神の主催神を祀っていることから「六所神社」と思いがちですが、神社の紹介のパンフレットによれば、「天神地祇・天地四方」(天地と東西南北の六方)の神を合わせ祀ることのようです。

御祭神を紹介しておきます。というのも国造りを果たした神様たちのそろい踏みだからです。
最初に控えしは、神様から国造りを命ぜられた夫婦神の伊弊諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。仲良く国造りに神生みに尽くした二神でしたが、イザナミは火の神様を生んだことで火傷をして亡くなります。諦めきれないイザナギはイザナミを求めて黄泉の国へとでかけます。変わり果てた醜いイザナミにイザナギは逃げ、六所神社から中海に向かう「黄泉平坂(よもつひらさか)」で永遠の別れを遂げるのでした。
次に控えしは、穢れを祓うために禊ぎをしたイザナギから誕生した、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月夜見尊(つきよみのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)の三貴神です。この先は当サイトの『神話と神々』の「出雲神話と神々」をお読みください。
どん尻に控えしは、大巳貴尊(おおなむちのみこと)です。出雲の国をつくり、アマテラスに国譲りをした大国主(おおくにぬし)のことです。素戔嗚尊の娘のスセリビメを妻にしますが、素戔嗚の六代下の子孫でもあります。
このように国造りの神々が祀られています。

六所神社

・ホーランエンヤ

境内には、十年に一回の「ホーランエンヤ」にでる船があります。

さて、鳥居で一礼し、次の目的地に向かいましょう。そこが国引きという大事業を成した八束水臣津野命が杖を立て、「オエ」と叫んだ『意宇の杜』です。

■天地四方(宇)の下で思うこと(意)、やったぞー

田んぼの中の平坦な道を走ること30分、右手の田んぼの中に小さな茂みがあります。そこが『意宇の杜』です。車なら見過ごしてしまうでしょう。電動自転車だからこそ気づく茂みです。
ほぼ正方形で一辺が五、六メートルでしょうか。農道に面していない三辺は田んぼのあぜ道です。農閑期以外は入らないほうがいいでしょう。

意宇杜

今はQRコードのガイド板もあります。説明を聴いたあと、暫し八束水臣津野命になって天を仰ぎ見たらいかがでしょうか。力仕事を成すとはどういうことか考えてみましょう。時代は移り、社会も変化し、風習も、制度も、文化もすべて形態も現象も変わりました。しかし、働くという本質的行為には少しも変わるものはありません。
神話を思い浮かべ、存在について、生き方について、そして働くということについて考えてみるのも旅の思い出になるでしょう。

■都(奈良)に、杵築(出雲大社)へとつながる道・古道

意宇杜に来た道を十メートルほど戻ると(意宇川の方面)右側に、農道とも、田んぼ道とも雰囲気の異なる幅二メートル程の道がまっすぐ伸びています。轍をみれば農作業の軽トラか耕運機が通る程度でしょう。これが「古代山陰道」です。

県の資料によると、古代では都と地方を結ぶ道路が整備されていたようです。『出雲國風土記』に書かれている街道は官道で、一般の大衆が使う道ではなかったようです。等間隔に使節などの宿舎となる「駅(うまや)」や関所が設けられていました。まっすぐ伸びた街道は、そんな理由からです。

古代山陰道

歴史はさておいて、今は田んぼの中の細道です。春ならばレンゲソウが咲き誇るのでしょうか。夏ならばにわかに降りだした雨に蛙が騒ぎ立てることでしょう。秋ならば黄金色のうねりに一年を安堵し、冬ともならば固く閉ざすことでしょう。
田畑の中のまっすぐ伸びた一本道を、光、風、そして香りを全身に感じて自転車で走り抜けましょう。この道は自転車だから楽しめる道です。
古の時代、この街道を、荷を担ぎ、お供のものを引き連れて往来する人がいた。道沿いには旅のものを相手にした店が開き、商いの商店もでき賑わったことでしょう。

稲刈りの終わった畔に立ち静かに目を閉じました。天日干しの藁がざわめいています。朽ち果てるまえのススキの穂が互いに身を寄せ合っています。落穂ひろいのスズメが軽やかなリズムを刻みます。やがて瞼の裏に帳が降り闇となりました。

どこかから馬の蹄の音がしてきます。荷車のぎこちない歩みに小石がはじけ飛んだのでしょう。賑やかな物売りの声が、宿に呼び込む甲高い声が、それに合わせて艶っぽい奇声が追いかけてきます。大和言葉でしょうか、それとも出雲弁の原点でしょうか聞き慣れぬ言葉が飛び交っています。

街道を、柿本人麻呂が、門部王が、山上憶良が、大伴家持が、歩いています。この地の生まれともいわれる額田王の牛車でしょうか、人の波を左右に押し分けて進みます。

闇に包まれた街道を、手枷足枷で固定され汗と血で汚れた襤褸をまとう一団が数珠つなぎに引きずられて行きます。坂上田村麻呂に敗れた阿弖流為(アテルイ)の仲間たちです。俘虜として出雲の地に送られてきたと闇烏は騒ぎ立てます。阿弖流為の碑は京都・清水寺の下に、清水の舞台を見上げるように建っています。

田畑

■古代街道の十字路で「愛」を叫ぶ

「十字街推定地」の碑のある十字路で自転車を停め、ゆっくり360度の田園のパノラマを楽しみましょう。冒頭で紹介した山崎正和氏の思慮深い景色が広がっています。
右に進めば出雲国分寺跡や真名井神社に茶臼山、左へと進めばすでに立ち寄った出雲国府跡に六所神社と大草古墳群。まっすぐ進めば岡田山古墳具のある風土記の丘へ。

十字街推定地

私は誰も通っていないことを確認すると叫びます、輪廻転生、生まれ変わった私が古の時代に恋した君に向かい、「会いに来た」と。それはアニメ『君の名は』の新宿・須賀神社の石段でのことです。
つむじ風がくるぶしにまとわりつき、冬を知らせる鋭利な風が胸に差し込みました。ピーヒョロロとトンビが弧を描き、カラスがマヌケモノとあざ笑っています。

誰も通らない古代街道。田畑に囲まれた古代街道。ここが「まほろばの里」であり、出雲の歴史が幾重にも織りなされ層を成した都であり、大通り。

「道の辺(へ)の、いちしの花の、いちしろく、人皆知りぬ、我が恋妻は」(柿本人麻呂)

君は新しい恋をしたのだろうか、それとも私を思い続けているのだろうか。好からぬ男がちょっかいを出しているのではなかろうか。狂おしい、狂おしい、切なすぎる。

「道の辺の、尾花が下の、思ひ草、今さらさらに、何をか思はむ」(詠み人知らず)

一夜の恋の君に、二度と会うこともないと名前を聞かなかったが、朝霧が晴れた今、さらさら流れる水を見て、名前を聞かなかったことを後悔しています。

忘れていました。島根の旅には、入門編の簡単なもので十分です、『萬葉集』か『百人一首』を友にすると、見えないはずの古が、掴むことのできない人の心が見えるかもしれません。それはすべて、貴女の、貴方の心次第だとお話ししておきます。

それでは古代街道をまっすぐ進みます、次の「風土記の丘」と「かんべの里」を目指すことにします。

風土記の丘入り口
■島根県立八雲立つ風土記の丘
松江市大庭町456番地  0852-23-2485
■出雲かんべの里
 松江市大庭町1614番地  0852-28-0040
■アクセス
  松江駅からバスで40分

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