― あなたが暮らした日々と思い出をなぞって ―
関ケ原の合戦後、堀尾吉晴が築城した松江城、そして町並みにお堀。
お城に上り、城内を散歩した。町並み散策で疲れた足を休めるように乗ったお堀を回る堀端遊覧船。まるで池に投げた小石がつくる波紋のように、お城を中心に松江の風情と歴史を楽しみました。
「松江に行ったなら」とあなたは教えてくれた、寺社・名所旧跡に美しい景色と美味しい食べ物屋さん。それは十数年も前のこと。今でもあるのかないのか分からない。変わったのか変わらないのかも分からない。
あなたが暮らした松江に来た。
宍道湖も山々も町中も一望できると教えてくれた天守閣に行くことにした。
卒業した高校の跡地も見えると照れくさそうに話してくれた。そんなあなたの松江話が好きだった。
あなたが暮らした下宿を探しました。島根大学の近で、高校まではほぼ一直線の通りだと話していました。でもうろ覚えの記憶では、校舎の跡地も下宿屋さんも分からなった。今の校舎は天守閣の北側。高校生の華やいだ喧騒がする。南側は宍道湖とぽつんと浮いた嫁ヶ島。
配属された私が文学部卒だと知ると、日本の文学作品を色々話してくれました。そのなかに松江に関わる文学者や『出雲風土記』に『古事記』もありました。でも「英米文学」専攻の私には分からなかった。それから薦められるままに読みました。きっと対等に議論が出来ると信じて・・・。
高橋和己も戦後の数か月、旧制松江高校にいたと話していましたね。私には難しい小説で、一冊も読み切れなかった。
あなたは陽気なのに、どうして暗い小説を薦めたのかしら。人生はハッピーエンドでありたいのに。そういえばイプセンの『人形の家』の評論をきいて悲しくなりました。計画もなく家を飛び出たノラは貧困のなかで死ぬなんて。
「ガールフレンドが城山の西側いた・・」と楽しそうに話していましたね。そして、小泉八雲について語りながら堀端を歩いたと。
男の人は時に子供の頃の他愛もないことを自慢げに話すよね。いつまでも、子どもよ。そして残酷。
でも私は、松江に来ました。あなたが高校生のとき暮らした松江の町に。
お城を囲む内堀。南側は県庁の建物、東側は松江歴史館が並ぶ、北側は小泉八雲記念館に武家屋敷のある松並木の塩見縄手、そして西側があなたのガールフレンドが住んでいた住宅地の内中原。県立図書館も近くにあって、暑い夏はここで勉強したって言っていましたよね。でもどうかしら。
そんなこと思いだし、あなたが教えてくれた「堀端に暮らした文豪」を訪ねてみます。それが松江の旅の目的だもの。
塩見縄手でおそばを頂きました。
あなたは「信州そばより、出雲そば。ざるより割り子」が口癖でした。神保町の交差点に出雲そばがあると一度行きましたね、会社の皆と。でもお休みでした。あごの焼きも芽の葉もお薦だと、皆期待していました。いつか行こうと言って約束したのにあなたは異動でいなくなった。
お堀を進む堀端遊覧船。寒くなると炬燵がでて、ワンカップで乾杯だって言っていました。島根には旨い酒も多いと銘柄を上げていましたね。あなたのように常温で頂きます。
小泉八雲が松江に暮らしたのは、明治23、24年(1890年8月30日~1891年11月)のこと。
『神々の国の首都』は抒情詩だって教えてくれました。私にはルポルタージュ文学か紀行文にしか思えないと、お話ししましたね。そしたら、「松江を知らんからだ。言語でなくて五感で感じて読んまか」と妙な出雲弁で松江の旅を薦められました。
松江の一日を眺め、美保関や出雲大社を訪ねたら、きっと五感で感じることが出来るかもしれません。
あなたは私を「夏目雅子」に似ているって褒めてくださった。すごくうれしかった。「目元がな」がなかったらもっと嬉しかった。
夏目雅子つながりで、映画にはならなかった『時代屋の女房・怪談』にでるBAR「山小舎」も薦めましたね。食事が終わったら寄ってみます。あなたの好きなお酒のひとつギムレットを頂きます。それとも「ギムレットには早すぎる」かしら(レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』)。
小泉八雲旧居に寄りました。あなたの高校の前身・松江中学の英語の先生だったのですね。結婚された小泉セツさんはどんな人だったかしら。落ちぶれても武士の家系、明治のころに外国の人と結婚する、世間の目。そんなもろもろの風習や価値観に負けなかった。廊下に座り想像しました。
生きるため、養うため、守るため。失うことを恐れたのではなく、生き抜くことで存在の意味を確かめた、そんなこと考えました。あなたに会えたら伝えたい。
小泉八雲が愛した城山稲荷神社。堀端の家からセツさんと一緒に出掛けたのでしょうか。美保関にも、出雲大社にも、日御碕にも。
あらためて『日本の面影』購入しました。
あなたのガールフレンドが暮らしていたお城の西側・内中原町に向かいます。石垣のないお堀が知らないあなたの高校時代を想像させてくれます。
「ひと夏、山陰松江に暮らしたことがある。町はずれの壕に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分なかった。庭から石段で直ぐ壕になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰(まこも)が生え、寂(さ)びた具合、壕というより古い池の趣があった」(志賀直哉『壕端の住まい』より)
志賀直哉は、大正3年(1914年)5月から百日ほど堀端に暮らしました。城崎温泉で養生した翌年のことです。
ひとり内中原町の長屋に暮らす志賀直哉は、堀端をよく散歩しました。そんなひと夏の日々を綴ったのが、大正14年に発表された『濠端の住まい』です。
あなたは高校生の時に読んだと話していましたね。そして一度はここに下宿を探したと。
城崎でも、ここ松江でも志賀直哉は、生き物や昆虫を描きます。都会での人間関係の煩わしさに疲れ、それが自然の描写に向かわせたのでしょうか。それとも、あなたが話されたように、人の持つ非情さに疲れたがゆえに、自然淘汰でもある残酷なシーンの描写になったのでしょうか。鶏を殺した野良猫がお堀に沈められるシーンです。
志賀直哉は豪雨の日に突如思い立ち、湯町まで歩いて出掛けます。宍道湖の南側の、奥に玉造温泉がある町です。
会社勤めも二十年ちかくとなりました。職場では責任が生まれるとともに嫌な人間関係に苦しめられました。恋をし、失恋もしました。騙されもしました。コロナ禍で人と会うことなく過ごしている日、突然、あなたのことを思い出したのです。
そうだ、松江に行こう。
あなたは、突然、会社を辞め、姿を消しました。なぜですか。年賀状を出しても戻ってきました。住所を頼って訪ねてもみましたが、売却されたのですね。
会社も経営不振と業務変革で合理化の声が大きくなりました。独り身はいいよな、能力があれば転職も楽だろう、暫くは遊ぶのか、ひどい差別発言も受けています・・・。
旅って、出会いかしら。それとも忘却かしら。あるいは追想。
あなたに聞きたいの、どうしてみんなを置いて行ったのですか。会いたい。みんなが何を言っても会いたい。
お堀沿いの「志賀直哉・芥川龍之介旧居跡」碑の前の石に座ります。
芥川龍之介は、吉田弥生に結婚を申込みますが、家柄や年齢などで周囲の大反対にあい大正4年2月に破局を迎えます。その絶望と寂寥を親友井川恭宛てに『唯かぎりなくさびしい』として綴ります。イゴイズムのない純粋な愛を求めて。
芥川龍之介が松江に滞在したのは、志賀直哉が滞在した翌年、大正4年(1915年)8月のことです。吉田弥生との失恋の傷を癒すため、親友の井川恭(のちに恒藤恭、大阪市立大学学長・法哲学者)の故郷・松江を訪ねたのです。
「松江はほとんど、海を除いて『あらゆる水』をもっている。椿が濃い紅の実をつづる下に暗くよどんでいる壕の水から、灘門の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のように青い川の水になって、滑らかなガラス板のような光沢のある生きているような湖水の水に変わるまで、水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら、随所に空と家をその間に飛び交うつばめの影とを映して、絶えず懶(ものう)い呟(つぶや)きを、ここに住む人間に伝えつつあるのである。」(芥川龍之介『松江印象記』より)
志賀直哉も芥川龍之介も奇しくも同じ内中原の長屋に暮らします。
大正5年8月25日、芥川龍之介は塚本文に恋文を送ります。
「貰ひたい理由は、たった一つあるきりです。さうして、その理由は僕は、文ちゃんが好きだと云う事です。勿論昔から、好きでした。今でも、好きです。その外に何も理由はありません」
大正7年2月、17歳の文と結婚します。
そうなんだ。
「この松江の宿で、私達は七月十四日の朝を迎へた。大橋は水に映つて、岸から垂れさがる長い柳の影もすゞしい。私達の眼にある光と影とで、朝の湖水らしくないものはなかつた。何を見ても眼がさめるやうであつた。」 (島崎藤村『山陰土産』より)
『山陰土産』は、島崎藤村(当時56歳)が昭和2年(1927年)に、大阪朝日新聞から依頼を受け、息子の鶏二(当時20歳)とともに山陰本線に乗って旅をしました。その12日間の様子を描いた作品です。
前記の二人の文豪とは異なり新聞社の企画ものですが、昭和初期の山陰道を風情・文化を文人らしい感性と表現で紹介しています。
「東海道あたりの海岸に比べると、この山陰道はおもしろい對照を見せてゐる。こゝには全く正反對のものを見出す。一方に遠淺な砂濱があれば、こゝには切り立つたやうな岩壁がある。一方に高い土用波の立つ頃は、こゝには海の凪(なぎ)の頃である。一方に自然の活動してゐる時は、こゝには自然の休息してゐる季節である。」
「自然の休息」、なんて素晴らしい詩的な表現でしょうか。『夜明け前』の書きだし「木曽路はすべて山の中にある」を思いだしました。
松江の大橋川沿いの皆美館に宿泊した島崎藤村親子。
松江から船で境港、美保関、島根半島を回って、皆美館へ帰ってくる船旅をしています。
千鳥城から星上山を望んで、古代出雲に思いをはせた藤村でした。
「こゝは古代の大陸との交通を想像させるばかりでなく、もつと古い神話にまで遡るなら、天地創造の初發の光景にまで、人の空想を誘ふやうなところだ。こゝは豐かな傳説の苗代(なはしろ)だ、おもしろい童話の作者でも生れて來さうなところだ。こゝは神祕なくらゐに美しい海が、その祕密をひらく若者を待つてゐる。新しい海の詩人でも生れて來さうなところだ。」
おでんとお刺身を頂きながら、ここに来る途中に寄った殿町の今井書店で買い求めた本を捲っています。藤岡大拙著『出雲人』。1991年初版とすこし古くなりますが、出雲の人を知るにはいいかもしれません。
あなたも、こんな人だったかしら。
藤岡大拙さんが引用された、平成2年2月、島根県イメージ推進調査研究会がまとめた『島根県イメージ推進調査研究(資料編)』です。
「『島根県イメージの現状に関わる問題点』として、PR不足・進取性即応性が弱い・活気がなくて若さがない・目玉がない・遊びがない、の五点をあげている」
あなたはどうかしら。
情熱的でリーダーシップがあり、陽気で、分け隔てもなく、エネルギッシュに遊んでいたのに、何も告げずに会社を去ったあなた。本質は「出雲人」だったのかしら。
そうでした、島根は好きだが、島根人はと薄笑いしたあなた。
松江に連れいってくださいと言うと二つ返事でいいよと言ったのに、いなくなったあなた。
素戔嗚尊(スサノオノミコト)のように雑駁で正義心が強くて教養もあるのに途中で投げだしてしまう。初志貫徹しない素戔嗚尊のあなた。
大国主命(オオクニヌシミコト)のように女の子が好きなのに、いざとなると譲ってしまう。意気地なしの大国主命のあなた。
『出雲風土記』の「国引き神話」の八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)のように、大胆で戦略的なのに、人の気持の分からない鈍感な八束水臣津野命のあなた。
出雲には沢山の神様がいらっしゃるのに、あなたはどうして、思い出だけを残して消えてしまわれたの。
私は、今日、松江にきました。
私は来ました、あなたが好きだといった松江に。
「人生は小説とちごうて、良い(ええ)もんも悪もんもおらん。それぞれに生きる意味があり、価値が有る。否定しちゃあいけんが。ちゃんと話せばいいが。そげでも、悪いことはしちゃいけん。そうだけだ」
もっと長編小説を読めと叱られました。日本文学は描写や心模様はうまいが、短編は人間関係を描くが雑だと話していましたね。
そして、おっしゃいました、「事実は小説よりも奇なり」だと。
私が想像した松江よりも、私が描いた松江よりも、まったく違った松江でした。でも、変わらないことはひとつ、あなたは、誠実な人だったこと。そして、出雲の國には、きっと「誠実」が服を着て歩いていると思います。
あなたを見つけました。あの居酒屋さんで、あの路角で、あの田圃のあぜ道で、そして出雲弁の中にあなたはいました。
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